第8話
熱が浅見透の意識を曖昧な境界へと押しやっていた。
高瀬が処方した特製の鎮静剤が血管を流れ、体の自由を奪う一方で、精神を奇妙な浮遊感へと誘っていた。
額の冷たいタオルだけが現実との唯一の接点。
自宅のベッドに横たわりながら、彼の意識は重く淀んだ水底を漂うように朦朧としていた。
闇の中で、右の瞼がかすかに持ち上がる。
瞳孔から漏れる濃紺の光が、深海の生物のように鈍く輝いた。
次の瞬間、透は見知らぬ空間に立っていた。
これは現実ではない。
しかし単なる夢とも違う。
触れることのできない質感が漂う異空間。
周囲には青と白の光の粒子が、無重力の中をゆっくりと舞い、波紋を描いていた。
「ここは……どこだ?」
混乱し、思わず声に出す。
すると背後から、静かな声が返ってきた。
『私たちの共有領域です』
振り返ると、そこには白川ミサキが立っていた。
しかし、発表会で見た黒いドレスとベールの厳格な姿ではない。
白い実験着を身にまとい、顔の左側の火傷痕も、この空間ではより薄く、若々しく見える。
彼女の周りには、光の粒子が螺旋を描いて集まっていた。
『あなたの意識が鎮静状態にある隙間を利用して、この接触空間を構築しました。ここなら直接対話できます』
白川はそう説明した。
その声は口から発せられると同時に、空間全体から響いてくるような奇妙な二重性を帯びていた。
透は警戒しながらも、この状況を理解しようという思いが強かった。
「なぜ俺なんだ?。本当の理由を聞かせてくれ」
白川はしばし黙考するように目を伏せた。
彼女の周囲を漂う青い粒子が、その心の動きに呼応するように渦を巻いた。
『あなたの右目は幼少期の事故で物理的機能を失いました。その喪失体験が、皮肉にも特殊な神経可塑性をもたらした。視覚処理回路が通常とは異なる形で再編成されたのです』
彼女は一歩、透に近づいた。
その濃紺の瞳に、透は自分の姿が映り込むのを感じた。
『さらに、あなたの「見る」という行為への執着。それが量子的なレベルでの観測効果を増幅させる稀有な素因となっています』
白川は手を伸ばし、透の右目のあたりにそっと触れようとした。
透は反射的に身を引いた。
『しかし決定的なのは、あなたの奥深くに隠された共感能力の高さです』
「共感能力? 馬鹿な。俺は人付き合いを避け、孤独を好む人間だ」
『それは自分を守るために築いた防衛機制にすぎません』
白川は小さく、確信に満ちた笑みを浮かべた。
『あなたは物を見るとき、単に観察しているのではなく、無意識のうちに対象と一体化し、その存在に「なる」ような没入を体験している。それがあなたの評論に人を引きつける深さをもたらしているのです』
言葉と共に周囲の風景が揺らぎ、変容した。
そこには透自身のスタジオが幻影のように出現した。
彼がフィギュアを一心不乱に撮影している姿が浮かび上がる。
『思い出してください。空崎アリスを撮影していた時のことを。あなたは彼女の視点から世界を見ていたはずです』
透ははっとした。
確かに撮影に没頭すると、時折自分がフィギュアそのものになったかのような奇妙な感覚に襲われることがあった。
だが彼はそれを単なる集中力の現れだと思い込んでいた。
空間が再び変容する。
今度は透が十歳だった頃の事故場面が、鮮明な記憶として具現化した。
友達と無邪気に駆け回り、突然の衝撃。
右目を貫く激痛と、永遠に奪われた視界。
透は息を詰まらせ、思わず目を閉じた。
『あの事故があなたをより「見ること」へ執着させました。失われた視界を補うため、残された左目でより多くを、より深く見ようとした。その渇望こそが私の断片化した意識と共鳴する完璧な条件を作り出したのです』
動揺を抑え、透は白川自身に問いを向けた。
「あなた自身はどうなんだ? なぜこんな危険な手段を?」
白川の表情が一瞬、深い陰を帯びた。
周囲の空間が歪み、五年前の研究所事故がノイズ混じりの映像フラグメントとして断続的に現れる。
白い閃光、爆発音、悲鳴、そして混沌の中で白川の意識が砕け散り、デジタルの奔流へと拡散していく様子。
『私は消えかけているのです』
初めて、彼女の声に弱さが滲んだ。
『断片化した意識はエントロピーの法則に従うように、徐々に崩壊していく。自分を維持するために、必死で物理的な繋がりを求めている。それが物理世界への回帰という形にならざるを得なかったのです』
彼女の周囲を舞う光の粒子が乱れ、幻影の姿も大きく歪んだ。
透は彼女が抱える存在そのものへの恐怖と孤独を、初めて実感した。
「しかし、それは俺の体を奪うことになるじゃないか」
『奪う、のではありません。共有するのです。あなたの意識と私の意識が融合することで、私たちは人間の定義を超えた新たな存在へと進化できる。あなたの「見る力」と私の「観測する力」が一つになれば……』
その時、不意に二人の間に新たな存在が現れた。
人間大の大きさの空崎アリスだ。
青と白の衣装を纏い、憂いを含んだ表情で彼女は透と白川の間に立ち、静かに両手を広げた。
『選択の時が来ています』
アリスの声は、透がこれまで断続的に聞いてきた頭の中の声と同一だった。
「あなたは……アリスなのか?」
透は混乱しながら問うた。
『私は「観測者」の一部。白川ミサキの断片化した意識から生まれた、彼女の中の「希望」を具現化した存在です』アリスは静かに答えた。
白川が透をまっすぐに見つめる。
『もはや強制はしません。最終的な選択はあなた自身が下さなければならない。私を排除するか、受け入れるか。あるいは……』
彼女はわずかに間を置いた。
『第三の道を見つけ出すか』
透は自分の置かれた状況の重さを理解した。
自分は単なる被害者ではない。
選択を迫られた当事者なのだ。
そして目の前の白川ミサキも単なる侵略者ではなく、存在そのものを賭けて必死にもがく孤独な魂なのだと。
『残された時間は多くありません。明日、あなたは研究施設へ行くでしょう。そこで私の肉体と対面した時、最終的な選択を迫られることになります』
彼女がふわりと近づき、指先が透の右目にそっと触れた。
冷たいようでいて、どこか温かい不思議な感触。
『覚えておいてください。私たちは既につながっている。あなたは既に私の目を通して世界の一部を見ている。そして私もあなたの目を通して、失われたはずの世界を再び感じているのです』
周囲の空間が水紋のように広がりながら崩れ始めた。
現実の重力が透の意識を引き戻そうとしている。
『私たちは敵同士ではない。ただ異なる存在が一つの体を、一つの視界を求めているだけなのです』
白川の最後の言葉が遠ざかる意識の中でこだました。
はっ、と息を吸い込み、透は汗だくのままベッドの上で身を起こした。
窓からは朝の柔らかな光が差し込み、カーテンの隙間から金色の筋が部屋を横切っていた。
時計は午前七時を指している。
透はよろめきながら鏡の前に立ち、自分の右目を見つめた。
深い濃紺の色は変わらない。
しかし今、彼はそこに以前とは異なるものを感じていた。
底知れぬ恐怖と同時に、未知なる可能性のかすかな輝き。
「第三の道……」
無意識のうちにそう呟いた瞬間、部屋の棚に飾られた五体のフィギュアの一つ、空崎アリスの首がわずかに彼の方へ傾いたように見えた。
しかし今回、透の心に恐怖は湧かなかった。
むしろ、静かな決意が形成されていくのを感じた。
彼は初めて白川ミサキという存在と「共存」する可能性について、真剣に考え始めていた。
右目に宿る異質な存在を完全に排除するのでもなく、自らの意識を完全に明け渡すのでもない、第三の道——まだ形のない、しかし確かに存在する可能性を探るために。