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第6話

 深夜の静寂を打ち破る音はなかった。

 それでも、浅見透のアパートのスタジオスペースには、見えない重圧が満ちていた。

 

 彼は五体の「深淵の瞳」フィギュアを円形に配置し終え、最後の調整を加えていた。

 高瀬の警告は心の隅で鳴り響いていたが、それ以上に強い衝動が透を突き動かしていた。


「これが最後の仕事になるのかもしれない」


 透はそう呟きながら、完璧な角度で五体のフィギュアに照明を当てた。

 彼の右目は、今や常に微かな痺れを伴っていた。

 評論家として鍛え上げた左目で最終的な位置関係を確認し、三脚に設置したカメラのファインダーを覗き込む。


 この実験——いや、儀式と呼ぶべきかもしれない行為は、単なる写真撮影の域を超えていた。

 透は自分が何かの境界線上に立っていることを、本能的に悟っていた。


 息を詰め、シャッターボタンに指をかける。

 指先に微かな震えがあるのを感じながら、透はゆっくりと力を込めた。


 カシャリ。


 乾いた機械音が響き渡った瞬間、部屋の空気が変質した。


 パチッ——スタジオの照明が不規則に明滅し、消していたはずのパソコンのモニターが青白い光を放って突如起動する。

 ノイズ混じりの画面には、透には理解できない文字列が次々と流れていく。


 そして、円形に配置された五体のフィギュアの瞳が、まるで生き物のように、同期して微かに光り始めた。


「このままいけば……」


 言葉を最後まで紡ぐ前に、彼の右眼に焼けるような痛みが走った。

 思わず顔を歪め、目を押さえる。


 視界が波打ち、歪み、透の目の前の空間そのものが折り畳まれていくような錯覚に襲われる。

 その歪みの中心から、徐々に人影が姿を現した。


 白川ミサキ——しかし、ホテルで会った時の彼女とは決定的に違う存在感だった。

 半透明で、輪郭はノイズのように揺らぎ、時折、古いビデオテープの再生不良のような乱れが走る。

 物理的な実体を持たない存在が、この空間に強引に投影されたかのような不気味さ。


『ついに、直接お話しできる状態になりましたね』


 その声は部屋の空気を振動させると同時に、透の頭の内側で直接響いているような二重性を持っていた。


「あなたは……白川ミサキなのか?」


 透は震える声で問いかけた。

 恐怖が脊髄を駆け上がるのを感じながらも、彼は後退しなかった。

 評論家として培った観察眼と、事態を理解したいという強い欲求が、彼を支えていた。


『その通りですが、違います』


 幻影は部屋の中をゆるやかに浮遊し始めた。

 その動きは重力に縛られていないようで、足が床に触れているようでいて、実際には触れていない。


『私は白川ミサキの意識の一部。そして「観測者」と呼ばれる存在でもあります』


 透は自分の右目がズキズキと脈打つのを感じながら、声を絞り出した。


「観測者……?」

『私は五年前の実験事故で物理的身体を失いました』


 幻影は透の質問に直接答えず、自らの物語を紡ぎ始めた。

 その声には、人間離れした冷静さと、かすかな痛みの響きが混じっていた。


『私の意識はかろうじてデジタル空間に転移しましたが、断片化してしまいました。もはや安定した形で存在できず、消滅の危機に瀕しています』


 透は幻影の言葉を聞きながら、彼が見ているものは本当に実在するのか、幻覚なのか、その境界が曖昧になっていくのを感じた。


「それで……俺に何を望む?」

『物理世界への回帰です』


 幻影がさらに透に近づき、その濃紺の瞳で彼を見据えた。

 瞳の奥には、悲哀と強い意志が混在していた。


『そのためには「宿主」となる存在が必要なのです』

「宿主……」


 その言葉の意味を理解した瞬間、冷たい恐怖が透の背筋を這い上がった。

 彼の医学的知識は限られていたが、宿主とは寄生される側を意味する言葉だと理解していた。


「俺の体を乗っ取ろうとしているのか?」

『そんな粗暴な表現は適切ではありません』


 幻影は首を横に振った。

 その動きは通常の人間よりもなめらかで、ややぎこちなさを含んでいた。


『共存と統合、と呼ぶべきでしょう。あなたの右目は私の意識と繋がる完璧なポータルとなる可能性を秘めています。あなたの「見る力」と特殊な感受性が、私の断片化した意識と強く共鳴するのです』


 幻影はふわりと身を翻し、円陣の中央に立つ「空崎アリス」に近寄った。

 半透明の指先がフィギュアの頬に触れると、アリスの瞳が一際強く輝きを増した。


『私はこれまで何人かのコレクターを「宿主」として試みました。彼らも強い「眼差し」を持つ人々でしたが……結果はすべて失敗でした。互換性の問題です。彼らの精神は私の意識を受け止めきれませんでした』


 透は一瞬、メディアで読んだフィギュアコレクターの失踪事件を思い出した。

 単なる偶然の一致ではないことを、彼は本能的に理解した。


「待て……失踪したコレクターたちは一体……」

『彼らは私を受け入れられませんでした』


 白川の声は冷たく響いた。

 その言葉の裏に潜む残酷さに、透は震えを抑えられなかった。


『精神が崩壊するか、存在そのものが消えました』


 戦慄が透の全身を貫いた。

 「消えた」という言葉の持つ意味の重さに息が詰まる思いだった。

 

 白川の幻影が透にさらに近づき、彼の個人空間に踏み込んできた。

 その存在は実体がないはずなのに、圧倒的なプレゼンスを放っていた。


『ですが浅見さん。これからはあなた自身が「見られる側」になる番です』


 その言葉と同時に、透の右目に激痛が走った。

 視界が点滅し、まるで部屋の天井から自分を見下ろしているような、奇妙な離人感覚に襲われる。

 白川の視点と自分の視点が強制的に重ね合わされようとしているのを感じた。


「やめろ……!」


 恐怖に突き動かされた透は、近くにあったフィギュアの一つ——「時崎エミ」——を掴み、床に叩きつけようとした。


 しかし腕が途中で固まり、動かなくなった。

 自分の体が自分の意志に従わない恐怖。


『抵抗は無意味です』


 白川の声が透の脳内を満たす。


『私たち二つの意識は素晴らしい共鳴を生み出せるはず。あなたの「見る力」と私の「観測する力」が融合すれば……私たちは新たな存在へと進化できるのです』

「ふざけるな!」


 透は全身の意志を右腕に込めた。

 筋肉が軋むような感覚。

 そして彼はついに、時崎エミのフィギュアを床に向かって投げつけた。


 プラスチックが床に衝突する乾いた音が響く。


 その瞬間、白川の幻影が大きく歪み、人間のものとは思えない甲高い悲鳴を上げた。

 部屋中の電気が激しく明滅し、パソコンの画面はブルースクリーンに変わる。


 そして次の瞬間、嵐が過ぎ去ったかのように、すべてが静寂に包まれた。

 白川の姿は消え、フィギュアたちの瞳の光も消えている。


 透は荒い息をつきながら、その場に崩れ落ちた。

 全身が冷や汗で濡れている。手足の震えが止まらない。


 ふと、床に落ちた時崎エミのフィギュアに目を向けた。

 投げつけられたにもかかわらず、不思議なことに大きな損傷はなかった。


 しかし、その瞳だけは——他のフィギュアとは違い、今もかすかな青い光を放っていた。


 そして、その瞳を通して、あるいは彼の右耳に直接、か細い囁き声が届いた。


『あなたはもう逃れられません。私たちはすでに深くつながってしまったのですから』


 透の右目の奥で、何かが脈打つような感覚が強まった。


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