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第5話

 発表会の翌々日、東京大学医学部附属病院の最上階。

 神経科学研究棟の一室で、透は金属製の検査椅子に身を沈めていた。

 

 冷たい座面から背中に伝わる緊張感。

 頭部に装着された特殊なヘッドギアから伸びる無数のケーブルが、壁一面を覆う計測機器へと繋がっている。

 室内に漂う消毒液の匂いと、規則的に鳴り響く電子音が、この場の異様さを際立たせていた。


「これは……前代未聞だ」


 透の目の前には高瀬誠が立っていた。

 大柄な体躯に角ばった顎を持つこの神経科学者は、透の数少ない友人の一人だった。

 通常はいつも穏やかな表情を浮かべる高瀬だが、今、その眉間には深い皺が刻まれ、眼鏡の奥の瞳が不安と好奇心で揺れ動いていた。


 白衣のポケットから覗くボールペンが、高瀬の指先で神経質に回転している。

 彼は親しみやすい外見の裏に、研究者特有の冷徹な観察眼と強い知的好奇心を秘めていた。

 時に、その探究心が倫理的境界線を曖昧にすることもある危うさも持ち合わせている。


「信じられないな、透」


 高瀬はモニターに映し出された脳波データから視線を外し、友人に向き直った。


「右の視神経が活動電位が完全に復活している。それも通常の何倍もの強度で」

「何か……説明がつくのか?」


 透は乾いた喉で問いかけた。


「医学的には不可能なことだ。二十年以上も機能を停止していた神経が、こんな短期間で、しかもこれほど活発に動き出すなんて……前例がない」


 透は発表会での出来事を全て打ち明けていた。

 突然の視力回復。

 フィギュアから放出される青い粒子。

 頭の中に響いた少女の声。

 それらは幻覚や錯覚ではなく、何か根本的に異質な現象なのではないかという恐怖が、彼を高瀬のもとへ駆り立てたのだ。


「精神的なものじゃないのか。ストレスによる幻覚とか……」


 透は最後の望みをかけるように尋ねた。

 

「違う」


 高瀬は即座に答えた。

 彼の口調には、事態の深刻さを物語る緊張感があった。


 高瀬は再びモニターに向き直り、特定の波形を拡大表示した。

 

 「脳波パターンを見れば明らかだ。問題はそれよりもっと……根本的なところにある」


 スクリーンに映し出されたのは、複雑に絡み合う脳波のパターン。

 青と赤で色分けされたそれは、まるで二つの異なる存在が一つの空間で共鳴しているかのようだった。


「何が起きているんだ?」


 透は椅子の肘掛けを強く握りしめた。


「あくまで理論上の話だが……」


 高瀬は言葉を選びながら、慎重に説明を始めた。


「君の脳内、特に視覚野周辺に、これまで存在しなかった神経回路パターンが急速に形成されつつある」


 彼は一旦言葉を切り、深く息を吸った。


「そしてそのパターンは……君自身のものとは明らかに異なる特性を持っている」


 透の心拍数が上がるのが自分でも分かった。

 耳の奥で血流の音が大きくなる。


「どういう意味だ?」


 高瀬は透の目をまっすぐに見つめた。

 彼の瞳には科学者の冷静さと、友人を案じる温かさとが混在していた。


「まるで……他者の神経パターンが、君の脳内に侵入し、新たな回路を構築しようとしているかのように見える」


 その言葉は、氷の刃のように透の脊髄を貫いた。

 全身から血の気が引いていく感覚。

 右目の奥で、何かが蠢くような違和感。


「別の意識が……俺の脳に?」

「可能性の一つだ。そんなSFのような現象が現実に起こるなんて、通常なら笑い話だ。だが……データがそう示唆している以上、無視はできない」


 彼の表情には、科学者としての知的興奮と、医師としての危機感、そして友人を心配する不安が交錯していた。

 透には、高瀬が自分のケースを純粋に「興味深い研究対象」として見る一面も持ち合わせていることが分かった。


「それで、例のフィギュアは持ってきているのか?」


 高瀬が話題を変えるように尋ねた。

 透は無言で頷き、足元のバッグから「空崎アリス」を取り出した。

 アクリルケースに収められたフィギュアは、冷たい照明の下でも、不自然なほど鮮やかな色彩を保っていた。


 高瀬がそれを受け取り、中央のライトテーブルに置いた。

 二人の視線がフィギュアに注がれた瞬間、天井の蛍光灯がパチリと音を立て、一瞬だけ不規則に点滅した。


「電圧の変動か……」


 高瀬は眉をひそめながらも、すぐに気を取り直し、フィギュアの瞳に特殊なマイクロスコープを向けた。

 精密機器の焦点を合わせる音と、デジタルスキャンの電子音が静かな室内に響く。


「これは……」


 モニターに表示されたのは、フィギュアの瞳の内部構造の拡大画像だった。

 高瀬の表情が徐々に変わっていく。

 驚きから興奮へ、そして畏怖とも呼べる表情へ。


「通常の樹脂や塗装じゃない。瞳の内部に、微細な電子回路……いや、ナノマシンと呼ぶべき構造体が層状に埋め込まれている」


 彼は素早くキーボードを操作し、モニター画面を二分割した。


「そして驚くべきことにこの回路パターンは……」


 左側にはフィギュアの瞳の拡大画像。

 右側には透の右目の網膜パターンが表示された。


 二つの複雑な模様は、まるで鏡像のように、ほぼ完全に一致していた。


「嘘だろ」


 透は思わず立ち上がりかけたが、頭部の電極に繋がれたケーブルに引き戻された。


「偶然ではあり得ない」


 高瀬の声は、興奮と恐怖が入り混じった独特の響きを帯びていた。


「誰かが意図的に、君の網膜パターンを精密に複製し、このフィギュアに組み込んだか……あるいは……」


 室内の温度が急に下がったように感じられた。

 透の背筋に冷たい汗が流れる。


「あるいは?」

「このフィギュア自体が、何らかの未知の方法で君の視覚システムと同期しようとしている」


 同期。


 その言葉が、透の脳内で不吉な響きを伴って反響した。

 まるで脳の奥底で眠る何かが、その言葉に呼応するかのように。


「量子もつれの原理を応用したとしか考えられない。しかし、マクロレベルでこんな現象が起きるなんて……」

「つまり俺は……」


 透は震える手で右目を覆った。


「何かに乗っ取られようとしている?」


 高瀬は透をじっと見つめた。

 その視線には友人を救いたいという気持ちと、前例のない現象を目の当たりにした科学者の好奇心が混在していた。


「正直に言うと、俺にも分からない。前例のない現象だ。だが一つ言えるのは……」


 高瀬はテーブルの上のアリスを指差した。


「君はこれ以上、あのフィギュアに近づくべきじゃない。少なくとも、これが何なのか解明されるまでは」


 彼の言葉は研究室の空気に重く沈んだ。

 透はガラスケースの中のアリスを見つめた。

 

 その瞳は相変わらず美しく、底知れぬ深みを湛えている。

 さっきまで感じていた右目の痺れが、再び強まったように感じた。


「彼女は……試してるんだ」


 透は突然、悟ったように言った。


「彼女?」

「白川ミサキだ」


 透は自分でも気づかなかった確信を持って言った。


「彼女は俺の中に、何かを……誰かを……植え付けようとしている」

「白川……製作所の創設者か。彼女について調べてみよう。何か手がかりがあるかもしれない」


 透は立ち上がった。

 突然、右目から鋭い痛みが走り、彼は思わず顔を歪める。


「どうした?」

「なんでもない。明日、白川と会う約束をしていて、彼女の研究施設に行くことになっている」

「行くつもりなのか?」


 高瀬の声には明らかな警戒感があった。


「行かなければ、真相は分からない」


 透の声には、恐怖と同時に、何か冷静な覚悟のようなものが混じっていた。

 高瀬は友人の変化に気づき、眉を寄せた。


「一人で行くのは危険だ。せめて場所だけでも教えてくれ。何かあったら……」

「分かった。詳細が分かったら連絡する」


 アリスをケースに戻し、バッグに収める透の手つきは、以前よりも慎重さを失っていた。

 まるで、もはやフィギュアを恐れる必要がないとでも言うように。


「気をつけろよ。何か変化があったらすぐに連絡してくれ」

「ああ、ありがとう」


 透が去った後、高瀬は一人、モニターの前に立ち尽くした。

 画面には依然として、フィギュアの瞳と透の網膜パターンの一致が映し出されている。

 彼は画面に映るデータを見つめながら、心の中で葛藤していた。


 友人を救いたいという気持ちと、未知の現象に取り憑かれたような探究心。

 それらが彼の中で激しく闘争していた。

 高瀬は思わず顔を覆い、深いため息をついた。


「何が起きているんだ……」


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