第4話
その日、量子蝶製作所の新作発表会が開催された。
会場は六本木の中心部にある「ネオンクリスタル・ギャラリー」。
ガラスとクロムを多用した近未来的な空間で、漆黒の壁と床は光を吸い込み、スポットライトだけが浮かび上がる、非日常的な雰囲気を醸し出していた。
透が入り口のドアを開けると、冷たい空調の風が彼の頬を撫でた。
うっすらと甘い香りを含んだ空気。
それは華やかさというよりも、どこか病院の消毒液を思わせる清潔さだった。
会場の中央には、黒いベルベットのステージ。
その上に、五つのアクリルケースが同心円を描くように鎮座し、それぞれの中に「深淵の瞳」シリーズのフィギュアが、完璧な角度でスポットライトを浴びていた。
「浅見がこんな場所に来るとはね……」
尖った声が、透の左耳に突き刺さった。
振り向くと、村瀬健治が、冷ややかな笑みを浮かべていた。
短く刈り込まれた黒髪に、黒縁の細いメガネ、やや筋肉質な体つき。
かつて同じ編集プロダクションに所属し、現在はライバル関係にあるフィギュア評論家だ。
率直で時に辛辣な物言いが特徴で、「無慈悲なメス」と称される彼の批評は、メーカーから恐れられていた。
だが透に対しては、才能への嫉妬と侮蔑が入り混じった複雑な感情を隠そうとしない。
「村瀬、久しぶりだな」
透は感情を抑えた声で返した。
四年前、同じフィギュアの評価を巡って激しく対立して以来、二人の関係は冷え切ったままだった。
「珍しいじゃないか。お前がこんな華やかなイベントに顔を出すなんて。普段は暗い部屋で一人、フィギュアと戯れてるイメージだったよ」
「仕事だ」
「仕事、ね」
村瀬は展示ケースに顎をしゃくった。
「例のフィギュア。お前のレビュー読んだけど、正直、褒め過ぎじゃないかと思ったんだが……」
透が反論しようとした瞬間、会場の照明が突然暗転した。
観客たちからどよめきが上がる。
そして中央のステージに、唯一の光が当てられた。
そこには白川ミサキが立っていた。
前回と同じ黒いドレスとベール姿。
しかし今夜は、彼女の存在感がさらに強く、会場全体を支配しているようだった。
その姿は、まるでステージに据え付けられた美しい彫像のようでもある。
「皆様、本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます」
マイクを使わないはずの彼女の声が、不思議と会場全体に響き渡った。
静かでありながら、確かな存在感を持つその声に、透は身震いした。
「本日、ここに『深淵の瞳』シリーズ全五体を初公開いたします」
白川はゆっくりと手を上げた。
そのしなやかな動きに合わせて、各フィギュアの上のスポットライトが順に強まっていく。
「空崎アリス」
透にはすでに馴染みのある、青と白の少女フィギュア。
「蝶野ミドリ」
蝶の翅を思わせる装飾と緑の長髪が特徴的な少女。
「霧島ユキ」
白衣姿の研究者をモデルにしたフィギュア。
体の半分がデジタルノイズのように崩壊している表現が特徴的だ。
「量子蝶」
人型だが顔の代わりに無数の瞳を持つ、最も異形的なフィギュア。
「そして、時崎エミ」
膝を抱えて座る少女。
体から触手状の光が伸びる独特のデザイン。
五体のフィギュアが、それぞれのスポットライトの下で妖しく輝く。
透がその全貌を一度に視界に収めた、その瞬間。
激しい痛みが彼の右の眼窩を襲った。
「ぐあっ……!」
まるで熱せられた金属の棒を突き刺されたような激痛。
透は反射的に右目を手で押さえ、その場にかがみ込みそうになる。
視界が赤く染まり、鼓動に合わせて明滅する。
そして、信じられない変化が始まった。
閉ざされていたはずの右の瞼の裏側から、光が差し込んでくる。
二十年以上もの間、死んでいたはずの視神経が、突如として機能を取り戻したかのように。
彼は身を震わせながら、恐る恐る手を下ろし、右目を開いた。
見えた。
ぼやけてはいるが、確かに、ギャラリーの光景が、色と形を持ってそこに存在している。
失われていたはずの視力が回復したのだ。
だが、それは正常な視界ではなかった。
彼の右目が捉える世界は、左目の世界と重なりながらも、根本的に異なっていた。
五体のフィギュアからは、電子的なノイズのような、青白い粒子が放出され、水面の波紋のように周囲に広がっている。
それは左目では全く見えない、右目だけの異常な光景だった。
そして彼の脳内に、直接、声が響いた。
『見えますか?』
少女の声。クリスタルのように澄んだ、しかし人間離れした響きを持つ声。
『私の目を通して、見えますか?』
透は冷や汗を流しながら、全身の震えを抑えようとした。
会場の人々は何事もなく、フィギュアを鑑賞し、スマートフォンで写真を撮っている。
彼の異変に気づいた者は一人もいない。
「気のせいだ……幻聴だ……」
しかし彼の右目は、確かに世界を「見て」いた。
そこに映るのは、誰も気づいていない現実の層だった。
透がパニックに陥りそうになる中、ふと視線の先に白川ミサキの姿を捉えた。
彼女は客席にいる透をじっと見つめていた。
その濃紺の瞳には、フィギュアと同じ青い光が宿っている。
彼女は微かに頬を上げ、唇の動きだけでそっと言った。
『わかりましたね』
その瞬間、五体のフィギュアの瞳が、完全に同期して青く光った。
会場の誰もがそれに気づいていないようだったが、透の眼には明らかだった。
五体のフィギュアと白川の目、そして彼自身の右目が、何らかの回路で繋がっているかのように。
頭の中の少女の声が、再び問いかけた。
『あなたは選ばれました』
発表会は予定通り進行し、人々が自由にフィギュアを鑑賞する時間となった。
透は震える足で、まだ群衆と距離を取っていた。
右目の視力は持続し、フィギュアたちからの青い放射は途切れなかった。
村瀬が再び近づいてきた。
彼の表情には、わずかに困惑の色が見える。
「確かに、これは普通じゃない」
村瀬は渋々認めるように言った。
「あの瞳の表現……何か特殊な素材なのか? 光の加減でこんなに変わるなんて」
「ああ……」
透は曖昧に答えた。
村瀬には、フィギュアから放出される青い粒子も、その瞳の奥に潜む「意識」も見えていないのだろう。
「特別なものだよ」
「あの……浅見さん、大丈夫ですか? 顔色が……」
不意に心配そうな女性の声。
振り返ると、佐伯麻衣が立っていた。
赤のドレスに身を包んだ彼女は、透の左腕を掴み、支えるようにした。
「ええ、ちょっと疲れただけです」
「無理しないでくださいね」
麻衣の声に、透はかろうじて微笑みを返した。
その時、白川ミサキが三人に近づいてきた。
その足取りは不自然に軽やかで、まるで床を歩いているのではなく、数センチ浮いているかのようだった。
「浅見様、いかがでしたか?」
「素晴らしい」
透は震える声を抑えながら答えた。
「特に……瞳の表現は、私の想像を超えていました」
白川は満足げに微笑んだ。
彼女の右目の青い光が強まる。
「浅見様には、特別に全シリーズのサンプルをお持ち帰りいただきたく」
白川はスタッフに指示し、五つのケースを用意させた。
「どうぞ、ごゆっくり観察なさってください。彼女たちも、あなたを観察していますから」
その言葉はもはや比喩ではなかった。
「明日、あなたをお迎えに参ります」
白川は最後にそう付け加えた。
「私たちの研究施設で、もっと多くをお見せしたいのです」
透が何か答える前に、白川は他の来場者へと移動していった。
村瀬と麻衣は、透に向けられた特別待遇に、それぞれ嫉妬と驚きの表情を浮かべた。
「浅見、お前……」
村瀬が言葉を飲み込む。
透はケースを抱え、会場を後にした。
夜の六本木の街に出ると、雑踏の喧騒が彼を包んだ。
しかし右目に映る世界は、左目とは全く違っていた。
街行く人々の周りには、淡い光のオーラのようなものが見え、電子機器からは奇妙な粒子が漏れ出ていた。
彼はタクシー乗り場へと向かう。
その時、背後に誰かの視線を感じて振り返った。
雑踏の中に、特定の人物を見つけることはできない。
だが、確かに誰かに見られている——いや、観測されている感覚があった。
タクシーに乗り込んでも、その感覚は消えなかった。
彼の右目の奥で、青い光が鼓動のように脈打ち続けた。
そして頭の中で、あの少女の声が再び響いた。
『私たちはもう、つながっています』