第3話
一週間後の水曜日。
透は量子蝶製作所が主催するパーティーに参加していた。
都心の高級ホテル「グランドパレス東京」のラウンジで、浅見透は窓際のソファに腰掛けている。
午後三時、柔らかな陽光がガラス窓から斜めに差し込み、空間を金色に染め上げている。
バッハのヴァイオリン協奏曲が、控えめな音量で流れていた。
透のスマートフォンには、彼が先日公開した「深淵の瞳—空崎アリス」レビュー記事のページが映し出されていた。
指先でスクロールするたび、驚くほど多くのコメントが連なる。
彼の批評が、予想を遥かに超える反響を呼んでいた。
「五万ビュー……」
透は呟いた。フィギュア評論の記事としては、異例の数字だった。
特に彼が「革命的」と評した瞳の表現についての描写は、専門サイトだけでなく、一般メディアにも引用されていた。
記事に対するコメント欄では、読者たちが熱狂していた。
『この記事を読んで即購入しました!』
『浅見さんの言う通り、この瞳は従来のフィギュアとは次元が違う』
『量子蝶製作所って何者? 突然現れた謎のメーカーが、なぜこんな技術を……』
透は微かに微笑んだ。
批評家としての彼の眼力が、より一層証明された瞬間だった。
だが同時に、右目の奥に感じる微かな異物感に、彼は眉を寄せた。
アリスの撮影以来、その感覚は消えることなく、むしろ強まっているようにさえ思えた。
「浅見さん」
明るい声とともに、テーブルの前に女性が現れた。
透が顔を上げると、そこにはファッション誌編集者、佐伯麻衣が立っていた。
ボブカットの黒髪に、鮮やかな赤のドレスを身に纏った彼女は、周囲の目を惹く存在感を放っていた。
麻衣は熱心なフィギュアコレクターとしても知られ、影響力のあるブログ「麻衣のフィギュア天国」を運営している。
社交的な性格と鋭い観察眼を持ち、透の才能を早くから見抜いた数少ない理解者の一人だった。
「麻衣さん、お久しぶりです」
透は軽く立ち上がり、頭を下げた。
「どうぞ」
彼が促すと、麻衣はソファに優雅に腰掛けた。
「久しぶりじゃないですよー。先週もメールしたじゃないですか。でもすごいじゃないですか、このレビュー。あなたのおかげで『深淵の瞳』シリーズ、今コレクター界隈で入手困難なプレミア状態ですよ。私のブログにも問い合わせが殺到してて」
「そうですか。そこまでとは思いませんでした」
「謙遜しなくていいんです。あの『クォンタムアイテクノロジー』って、本当にそんなに凄いんですか?」
透は言葉を選びながら答えようとした。
「確かに、私が今まで見た中で最も——」
その時、ラウンジ入口付近の空気が変わった。
まるで時間が緩やかに流れ始めたように、周囲の会話も音楽も遠のいたように感じた。
透と麻衣の視線は、自然と入口へと向かう。
入ってきたのは一人の女性だった。
上質な黒のドレスを纏い、顔の左半分を繊細な黒いベールで覆った姿は、異質な静ひつさをまとっていた。
高級ラウンジにいる客たちの視線が、まるで磁石に引き寄せられるように彼女へと集まる。
それは単なる美しさや奇抜さが呼び起こす好奇心ではなく、もっと本能的な、何かを察知した時の警戒心に近いものだった。
麻衣が息を呑み、透に小声で囁いた。
「あの方が、量子蝶製作所の創設者、白川ミサキさんです」
透の瞳孔が開いた。
メールをやり取りした相手——「深淵の瞳」シリーズを生み出した謎の人物が、そこにいた。
白川は迷うことなく、まっすぐに透たちのテーブルへと歩み寄ってきた。
その歩き方は少し不自然なようにも見える。
彼女はテーブルの前で優雅に立ち止まり、軽く頭を下げた。
「浅見透様でいらっしゃいますね」
低く、落ち着いた声音。
しかし、どこか人工的な響きを含んでいるようにも聞こえた。
まるでノイズを含んだ録音を聴いているような違和感。
ベールで隠されていない顔の右半分は、彫刻のように整った造形をしていた。
だが、透の視線は彼女の右目に吸い寄せられていた。
濃紺の、底なしの闇を思わせる瞳。
光を受けて微かに青く輝くその目は、「深淵の瞳」シリーズのフィギュアたちと同じ、不思議な深みをたたえていた。
「あなたのレビュー、拝見いたしました。素晴らしい慧眼です。これほど『深淵の瞳』の本質を深く理解してくださった方は、今までいません」
彼女が微笑むと、部屋の温度が僅かに下がったように感じた。
その視線は、透の顔、特に右目のあたりをじっと見つめていた。
透は、自分の中のすべてが見透かされているような居心地の悪さを覚えた。
右目の奥が痺れるような感覚。
「光栄です」
透は無意識に右目に触れそうになるのを堪えながら答えた。
「つきましては。来週開催する新作発表会に、特別ゲストとしてお越しいただけないでしょうか。全シリーズをご覧いただき、浅見様のご意見を直接伺いたく存じます」
透の心の中で、警戒心と好奇心が交錯した。
警戒心は、この女性から発せられる異質な雰囲気に対してのもの。
好奇心は、「深淵の瞳」シリーズの全貌を知りたいという欲求だった。
「喜んでうかがいます」
断る理由はなかった。
むしろ、この謎めいた人物と彼女が生み出すフィギュアについて、もっと知りたいという衝動が勝った。
白川との短い会話の間、透は彼女の左手に目を留めた。
ドレスの袖口から覗くその手は、テーブルの縁を掴むようにして置かれていたが、微かに、しかし絶えず震えていた。
まるで制御しきれない何かと戦っているかのように。
「では、詳細はメールでお送りします」
白川は優雅に一礼し、立ち去ろうとした。
その直前、彼女は透のすぐそばまで顔を寄せ、囁いた。
「あなたの目は特別です。そのことにはもうすぐ、ご自身でお気づきになるでしょう」
言葉を届けるためだけにした行為とは思えないほど、彼女の息が透の頬を撫でた。
彼の体が微かに震え、右目の奥深くで何かが鼓動を打つような感覚があった。
濃紺の瞳が意味ありげに細められ、白川はラウンジの静寂を引き連れるように、来た時と同じく優雅に立ち去った。
後に残されたのは、彼女が纏っていた微かな香水の匂い——。
古い本の紙と金属的な冷たさを思わせる不思議な香り。
そして透の中に生まれた形容しがたい恐怖と期待が入り混じった感覚だった。
「なんだか、すごいオーラでしたね」
麻衣が、まだ興奮冷めやらぬ様子で言った。
「美しいけど、ちょっと怖いような……不気味な魅力っていうんですかね」
「ええ……」
透は曖昧に頷いた。
彼も同感だった。
白川ミサキは、明らかに普通の人間とは違う何かを纏っていた。
「でも、あの方のどこか……。フィギュアに似てません? 自分の作品のモデルになってるのかな」
透は答えなかった。
彼の意識は白川の最後の言葉と、右目の奥に広がりつつある異質な感覚に囚われていた。
もはや単なる痺れではなく、何かが芽吹き、成長しようとしているような感覚。
「浅見さん? どうしました?」
麻衣の声が遠くで響く。
透は唐突に立ち上がった。
「すみません、急用を思い出しました。また連絡します」
そう言い残し、透は混乱した麻衣を残して足早にラウンジを後にした。
男子トイレに飛び込んだ透は、洗面台の鏡に映る自分の顔を見つめた。
特殊なコンタクトレンズを通して見える右目は、いつもと変わらず死んだようだった。
だが、その奥に、微かな青い光が揺らめいているような気がした。
「何が起きている?」
彼はコンタクトレンズを外そうとして、途中で手を止めた。
何かが彼を止めるように感じた。
まるで右目に宿った何かが、外部の光を恐れているかのように。
透は深く息を吐き、コンタクトを元に戻した。
白川との出会いは、彼の中に何かを呼び覚ましたのかもしれない。
そして発表会で待っているのは、その答えなのかもしれなかった。