第2話
三日後の午後、無数の光粒子が舞い踊る透のアパート兼スタジオ。
精密なライティング機材が設置され、通常の住居空間は一流のフィギュア撮影スタジオへと変貌していた。
部屋の中央に据えられたターンテーブルに、届いたばかりの白い箱が鎮座している。
「さて、お会いしよう」
浅見透は言葉を紡ぎながら、手袋をはめた。
フィギュア評論家であり写真家である彼は、特にフィギュアの「瞳」の表現に関しては業界随一の鑑識眼を持つと評されていた。
右目を失った過去が、彼に残された左目での観察に異常なまでの鋭敏さを与えたのかもしれない。
カッターナイフの刃が箱の封を切り裂く音が、静寂を破った。
透は緩衝材を慎重に取り除き、中から現れたフィギュアを目にして、思わず息を飲んだ。
「深淵の瞳」シリーズ第一弾、「空崎アリス」。
青と白を基調とした少女のフィギュアは、一見すれば既存の高級フィギュアと大差ないように見える。
しかし透の眼は、その繊細な造形と塗装の品質を瞬時に見抜いていた。
「君の特別な部分は、他にある」
透は綿手袋をはめた指で、フィギュアをそっと持ち上げ、撮影台に置いた。
彼の動作には崇拝に近い丁寧さがあった。
まず全体のシルエットを確認し、造形のバランス、塗装の精度、ポージングの自然さを専門家の目で吟味する。
「通常のレビューなら、この段階で評価は出せる」
彼は呟き、専用の位置合わせ器具でフィギュアの角度を微調整した。
しかし今日の彼の目的は、「クォンタムアイテクノロジー」と呼ばれる革新技術の真価を確かめることにあった。
「さあ、本題だ」
透はアリスの顔、特にその右目にスポットライトを合わせた。
光源の角度を何度も微調整し、最適な照明条件を探る。
その瞬間、彼の左目が捉えたものに、思わず後ずさった。
「これは……一体……」
フィギュアの右目の中に、微細な結晶が幾重にも重なり合ったような層構造が見える。
光の角度によって、その色彩は淡い水色から深い瑠璃色へと流動的に変化し、まるで生きた眼球のように深みを持っていた。
「写真に収めなければ」
彼は震える手でカメラを掴み、マクロレンズを装着した。
ファインダーを覗き込み、アリスの瞳に焦点を合わせる。
シャッターを切る度に、微妙に位置をずらし、あらゆる角度から瞳の変化を記録していく。
「これは単なる光学効果ではない」
透は呟きながら、ほぼ無意識にシャッターを切り続けた。
撮影に没頭するうち、外の世界は彼の意識から消えていった。
ただ存在するのは、彼と、フィギュアの瞳、そしてその間に流れる光だけ。
時折、腕時計のアラームが鳴るが、それさえ意識の外に追いやられる。
「君の中には……何がある?」
角度を変えるたびに、瞳の奥の光彩が揺らぎ、表情そのものが微妙に変化しているように見える。
まるで、フィギュアが彼を見返しているかのように。
五時間後、撮影を終えた透はPCモニターでデータを確認し始めた。
数百枚に及ぶ写真を一枚一枚、プロの目で検証する。
そして、ある一枚で彼の指が止まった。
「何だこれは?」
アリスの瞳の深い瑠璃色の奥に、何かが映り込んでいる。
人影のようなものだ。
しかしそれは、彼自身の姿ではない。
より曖昧で、女性的な輪郭を持っていた。
「反射? いや、違う」
透は素早く撮影スペースを見回した。
反射を引き起こすようなものは何もない。
彼はさらに数枚の写真をスクロールし、別の不可解な現象に気づいた。
「これは……」
連続して撮影したはずの写真で、アリスの表情——唇の角度や、眉の寄せ方が、わずかに、しかし確実に変化していた。
それは製造誤差や光の当たり方では説明できない変化だった。
「バカな。静止したフィギュアが動くはずがない」
透は椅子から立ち上がり、頭を振った。
長時間の集中作業による錯覚だろうか。彼はこめかみを押さえた。
その瞬間、彼の右目に、鋭い痛みが走った。
「ぐっ……!」
思わず右目を手で覆う。
何年も何の感覚もなかった眼の奥に、針で刺されたような痛みが突き抜けた。
それは一瞬で消えたが、代わりに奇妙な温かみが残る。
「幻痛だ……そうに違いない」
自分に言い聞かせるように呟き、透は再びアリスに向き合った。
フィギュアを元の箱に戻すため、手を伸ばす。
その指がフィギュアに触れようとした瞬間だった。
アリスの右目が、一瞬だけ、青く光った。
「……!」
同時に、耳元で囁くような、あるいは頭の中で直接響くような、か細い少女の声が聞こえた。
『見えますか?』
透は反射的に体を引いた。
心臓が早鐘を打っている。
彼の視界が一瞬、歪んだように感じた。
右目の奥から、何かが押し寄せてくるような感覚。
「幻聴だ。幻覚だ。疲れているんだ」
自分を落ち着かせようと深呼吸を繰り返す透。
しかし、彼の手は震えが止まらない。
無理やり自分を鼓舞し、素早くアリスをケースに戻した。
「明日、改めて検証しよう」
そう決めたものの、右目の奥に残る違和感は消えない。
むしろ、時間と共に強まっているような気さえした。
透は鏡に映る自分の顔を見つめた。
右目のコンタクトレンズの奥。
虹彩は相変わらず色褪せていた。
しかし、瞳孔の奥にほんの僅かに、青い光が揺らめいているように見えた。
「気のせいだ」
その夜、彼はなかなか眠りにつけなかった。
脳裏に繰り返し浮かぶのは、アリスの瞳の中に映り込んでいた人影の輪郭。
そして、彼の右目に宿った微かな温もり。
長年失われていた感覚が、何かによって刺激され、目覚めようとしているかのように。
枕元に置いたフィギュアケースから、微かな物音が聞こえたような気がしたとき、透は布団の中で身を固くした。
心臓が喉元まで上がり、寝具の中で汗が噴き出す。
声にならない声が、右耳の奥で囁いた。
『もう一度、私の目を見てください』