第10話
忌まわしい研究施設での出来事から数ヶ月が過ぎたある午後。
透のアパートは穏やかな秋の日差しに包まれていた。
以前と変わらぬ静けさの中にも、微妙な変化が訪れていた。
壁を飾るフィギュアの瞳の拡大写真はそのままに、部屋の一角には新設された円形のガラス棚が置かれ、「深淵の瞳」シリーズの五体が儀式的な配置で鎮座していた。
透は窓際に立ち、街並みを見下ろしていた。
彼の右目は再び物理的な視力を失い、色褪せた瞳に戻っていた。
しかし時折、特定の光の角度や感情が高ぶった瞬間、その瞳の奥に青い輝きが宿ることを彼は自覚していた。
ドアベルが鳴り、高瀬誠が入ってきた。
あの出来事以来、神経科学者である高瀬は透の回復状態を定期的に確認するため訪れていた。
常に疲れた表情を浮かべる彼は、透の変化を科学的視点から観察しながらも、友人としての深い心配を隠せない様子だった。
「調子はどうだ、透?」
高瀬は、肩にかけていたバッグから検査器具を取り出しながら尋ねた。
透は穏やかに微笑んで答える。
「右目は見ての通りだ。何も見えなくなった。でも、以前よりもずっと多くのものが『見える』ようになった気がするんだ」
高瀬は専門的な検査器具で透の右目を慎重に調べ始めた。
蛍光のような青い光が眼球に当たり、網膜の状態を映し出す。
「物理的には完全に元の状態に戻っている。視神経の活動シグナルは検出されない。しかし……」
「しかし?」
「脳波には依然として微かな、だが特異なパターンが残っている。まるで君の脳内に本来存在しないはずの回路が形成され、定着しているようだ」
透は静かに頷いた。
窓から差し込む光が彼の顔の右半分を照らしている。
「彼女の一部は、まだ俺の中にいるんだろう。あの時、完全な分離は不可能だった。あるいは、俺自身がそれを望まなかったのかもしれない」
「後悔はないのか? あの選択をしたことを。白川を救い、新たな形で存在させてしまったことを」
透は視線を円形に配置されたフィギュアたちへと移した。
ガラスケースの中で、五体のフィギュアの瞳が彼の視線に応えるかのように、微かに光を帯びているように見える。
特に時崎エミの小さな顔が、僅かに彼の方を向いているような錯覚すら覚えた。
「後悔なんて、まったくないよ。以前の俺は『見る専門家』であることに固執していた。物事を外側から観察し、分析し、評価するだけの存在だった。だが今は違う。『見る』ということの本当の意味を身をもって理解した」
高瀬は友人の変化に驚きを隠せない様子だった。
透の声音は柔らかく、かつての鋭さが丸みを帯びていた。
「君は変わったな」
高瀬は困惑と安堵が入り混じった表情で言った。
「以前よりもずっと、そう、開かれた人間になった」
「白川の一部を受け入れることで、自分の中にあった壁を壊すことを学んだのかもしれない」
透は窓辺から離れ、フィギュア棚へと歩み寄った。
「『見る』ことと『見られる』ことは表裏一体だ。コインの裏表のように、分かちがたく結びついている」
彼は膝を抱えて座る少女の姿をした「時崎エミ」のフィギュアに指先でそっと触れた。
その瞳を愛おしむように見つめる。
「彼女は安定しているようだ」
透はフィギュアの小さな顔を見つめながら言った。
「このネットワークを通じて、新たな存在形態に適応しつつある」
「皮肉なものだな。ある意味では白川博士の研究は最終的に成功したとも言える。彼女は意識の新たな存在形態を自らの身をもって創り出した」
「そして彼女が心の底から求めていた『つながり』も達成された。彼女の意識はネットワークを通じて分散しつつも一つであり、部分的に私とも繋がり続けている」
高瀬はタブレットを取り出し、透が最近発表した評論記事のページを開いた。
画面には「観察と変容—視線が創り出す境界線」というタイトルの論文が表示されている。
「君のレビューも見違えるように変わった。以前の鋭利な技術的分析も素晴らしかったが、今の文章には哲学的な深みがある。特に『観察者と被観察者の境界線』についての考察は非常に興味深い」
「観察するとは、関与することだからね。純粋な客観性など存在しない。私たちが見ることで対象は変容し、同時に私たち自身も変えられていく」
◇
数日後、東京ビッグサイトで開催された「フィギュアフェスティバル2025」の会場は熱気に包まれていた。
多種多様なフィギュアが展示される巨大な空間の一角で、浅見透による「深淵の瞳」シリーズの写真展が開催されていた。
透が捉えた瞳の写真は、単なる美しさを超え、見る者に不思議な感覚を抱かせる力を持っていた。
多くの来場者が足を止め、写真に見入っている。
「透さん、大成功ですね!」
明るい声とともに近づいてきたのは佐伯麻衣だった。
「ありがとう」
透は穏やかに答えた。
「正直言って。最近の透さんの作品、不思議な感じがするんです。すごく綺麗なんですけど、見れば見るほど、言葉ではうまく説明できない奥行きを感じて」
「写真を通して『見る』という行為そのものを問いかけたかったんだ」
透は静かに答えた。
彼の声には以前のような尖った鋭さはなく、柔らかな響きが加わっていた。
彼は言葉を探すように展示された写真――空崎アリスの瞳を捉えた作品――を見つめる。
「まるで写真の方がこっちを見返してくるような……そんな感じがする」
透は微かに微笑んだ。
彼だけが知っている真実。
それはあながち間違いではなかった。
白川の意識の一部は、彼が捉えたこれらの光の記録の中にも確かに宿っていた。
展示会の閉会時間が近づき、会場の喧騒が徐々に静まり始めた頃、透は一人自分の作品の前に立っていた。
その時、ふと一人の若い女性が彼の隣に歩み寄り、声をかけてきた。
すらりとした長身に、どこか儚げな雰囲気を持つ女性。
そして何より、彼女の瞳が特別だった。
見る角度によって虹彩の色が微妙に変化しているように見える。
まるで「深淵の瞳」のフィギュアのように。
「素晴らしい写真ですね」
彼女は透の作品を見上げながら静かに言った。
「私の目を通して、あなたには何が見えますか?」
透ははっと息を呑み、彼女を見つめ返した。
女性の瞳は光の加減で淡い青から紫へと確かに色を変えているように見える。
それは照明の悪戯か、それとも……。
「それはあなた次第ですよ」
透は穏やかに微笑み返した。
衝動的にカメラを構え、彼女の不思議な瞳とこの瞬間を記録したいという衝動に駆られる。
ファインダーを覗き、シャッターボタンに指をかけた。
カシャッ。
シャッターが切られた瞬間、透の右目がほんの一瞬、淡い青い光を放った。
それに応えるかのように、女性もまた微笑み、彼女の瞳も一瞬だけ同じ色の光を宿したように見えた。
「私たちは皆、見ている。そして同時に、見られている」
透は静かに呟いた。
「それがこの世界と私たち自身のつながりの本質なのかもしれない」
カメラのシャッター音が静まりかえった会場に小さく響く。
液晶画面に映った一枚の写真には、透と謎めいた女性の瞳が同じ不可思議な青い光を放つ瞬間が捉えられていた。
観察者と被観察者の境界が溶け合い、新たな共鳴が生まれる瞬間。
彼の心の奥深くで、白川ミサキの囁きが聞こえたような気がした。
『私たちは共に、境界線を超えたのですね』
彼は心の中で静かに応えた。
(ああ。見ることと、見られることの、その間に)
周囲の照明が落とされ、展示会の完全な閉会を告げた。
透は穏やかな、そしてどこか満たされた表情で会場を後にする。
彼の右目にはもはや物理的な光は映らない。
しかし、そこにはかつての孤独な評論家では知り得なかった深い知恵と、世界との新たな繋がりが宿っていた。
外に出ると、夜空には満月が輝いていた。
その光は透だけでなく、無数の瞳を通して観測され、同時にその光自身もまた地上からの無数の視線を浴びている。
永遠に続く相互の視線の交換。
その壮大な交響の中に、透は今、確かに存在していた。




