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第1話

 無数の瞳が、壁一面から浅見透あさみ とおるを見つめていた。

 光沢紙に焼き付けられたそれらは、アクリルやPVCといった無機物から成る美少女フィギュアの眼球を極限まで拡大したものだ。


 だが、注意深く計算された照明の下では、それらは単なる写真ではなく、生きた視線のように部屋の主を静かに観察しているようにも見えた。

 ここは彼の仕事場であり、聖域。

 そして、彼の病的なまでの執着が形となった空間だった。


「完璧だ」


 透は呟き、ディスプレイに映る自分のレビュー原稿に満足げに頷いた。

 フィギュア評論家であり写真家でもある彼は、「瞳の審美家」という異名で業界内では一目置かれる存在だった。

 指先で黒縁眼鏡を押し上げると、ディスプレイの光が左目のレンズに反射して、一瞬青く輝いた。


 アパート兼スタジオは、外界の喧騒を遮断するよう設計されていた。

 厚手のカーテンが窓を覆い、高性能な防音材が壁に施されている。

 夜が更けていく気配も、彼の創作空間には侵入を許されない。


「二百六十三体目」


 透は立ち上がり、椅子が軋む音を部屋に響かせた。

 細身で神経質そうな体つきは、長時間のデスクワークが刻んだ疲労の痕跡を示している。

 背筋を伸ばし、肩を回すと、骨がぽきりと音を立てた。


 彼は部屋の隅に置かれた姿見へと歩み寄る。

 その足取りは儀式的で、毎晩欠かさず行う習慣だった。

 姿見の前に立ち、やや長めの黒髪を指で払い、右目周辺を露わにする。


 そこにあるのは、光を宿さない瞳だった。


「今日も見えないな」


 透は自嘲気味に笑う。

 二十年以上前、十歳の誕生日に起きた不慮の事故で、彼は右目の視力を永遠に失った。

 特殊なコンタクトレンズを外したその眼球は、生気を失い、色褪せたガラス玉のように虚空を見つめている。


「だが、これがあるからこそ、私は見えるのだ」


 彼は指で右目の周囲をなぞった。

 わずかに残る瘢痕組織が指先に引っかかる感触がある。

 

 その欠損は彼にとって単なる障害ではなかった。

 むしろ、残された左目に並外れた観察眼を与え、フィギュアの瞳の微細な差異を見抜く力を授けたと、彼は信じていた。


「片目だからこそ、焦点が定まる」


 表面上は冷静な評論家として知られる透だが、その内面に潜むのは「見る」ことへの異常なまでの執着だった。

 失われた視力の代償として、残された視覚で世界の真実を捉えようとする強迫的な欲求。

 それこそが彼の創作と仕事の原動力だった。


 部屋の中央に戻り、作業台から愛用の高精細カメラを取り出す。

 その動作は経年の反復によって磨き上げられ、無駄が一切ない。

 レンズの微細な塵をブロワーで吹き飛ばし、ボディを専用クロスで丁寧に磨く様は、聖遺物を扱う神官のようだ。


「お前だけが、私の意図を完璧に理解してくれる」


 カメラに語りかける彼の声音には、人間関係の希薄さが透けて見えた。

 実際、彼の周囲に深い交流を持つ人間はほとんど存在しない。

 元妻の千鶴との離婚後、彼の生活はますます仕事へと収斂していった。


 静寂を破り、パソコンが控えめな電子音でメールの着信を知らせた。


「誰だ?」


 時刻は午前二時を回っている。

 こんな時間にビジネスメールが届くのは珍しかった。

 

 ディスプレイに表示された差出人名は「量子蝶製作所」。

 見覚えのない名前だった。


 透は眉を寄せながらメールを開く。


『浅見 透 様


 拝啓 益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。

 突然のご連絡失礼いたします。量子蝶製作所代表・白川ミサキと申します。


 この度、弊社では最新フィギュアシリーズ「深淵の瞳」の先行レビューをお願いできる評論家を探しておりました。

 その中で、「瞳の審美家」として知られる浅見様こそ、この革新的技術の真価を理解し、評価していただける唯一の方と確信し、ご連絡差し上げた次第です。


 弊社の最新技術「クォンタムアイテクノロジー」を採用したこのシリーズは、従来のフィギュアの常識を覆す、革新的な瞳の表現を実現しております。』


「クォンタムアイ……」


 透は言葉を反芻した。

 量子効果を利用したフィギュアの瞳——。

 それは彼の専門領域である「瞳」に関する未知の技術だった。

 添付された画像ファイルを開くと、彼の左目が見たこともないような複雑な光彩を放つフィギュアの瞳のクローズアップが表示された。


 それは確かに革新的だった。

 瞳の奥に無数の層が重なり合い、見る角度によって色合いが変化するように設計されている。

 透の批評家としての知的好奇心が一気に高まった。


 メールの最後の一文が、彼の中で何かを揺さぶった。


『ぜひ、「見る者」と「見られる者」の境界を超える体験をご堪能ください。


 敬具』


「見る者と、見られる者の境界……」


 透は無意識のうちに右目に触れていた。

 彼のキャリアは「見る専門家」としての評判に基づいていた。

 

 常に観察する側、評価する側、批評する側。

 

 だが、このメールは奇妙な違和感を覚えさせる。

 まるで、彼自身が何者かに見られているような……。


「馬鹿な」


 彼は自嘲気味に笑い、キーボードに手を伸ばした。

 簡潔な返信を作成し、送信する。


『拝受いたしました。謹んでお受けいたします。詳細をご教示ください』


 デジタルカレンダーに新たな予定を書き込む彼の指が、一瞬だけ震えた。

 左目の端に、何かが揺らめいたような感覚。

 振り向いた先にあるのは、姿見だけだった。


 だがその表面が、ほんの一瞬、水面のように波打ったように見える。


「疲れているのかもしれない」


 透は呟いた。

 メールを閉じようとした瞬間、彼の右目に鋭い痛みが走った。

 視力を失って以来、久しく感じることのなかった感覚だった。


 彼は思わず目を押さえる。

 痛みは一瞬で消え去ったが、何かが変わった気がした。


 右目に、微かな熱を感じる。

 まるで長い眠りから覚めようとしているかのように。


「気のせいだ」


 そう言い聞かせながらも、透は部屋の隅に置いてある防湿庫の方へ足を向けた。

 特注の高精度カメラと交換レンズが並ぶその奥から、半年前に使用を中止した古いデジタル一眼を取り出す。

 レンズには特殊な偏光フィルターが取り付けられていた。


 カメラを自分の顔に向け、シャッターを切る。

 液晶画面に映し出された自分の顔を確認して、透は凍りついた。


 右目の虹彩に、かすかに青い光が宿っていた。


「これは……」


 彼が言葉を失っている間にも、パソコンの画面が再び明滅し、量子蝶製作所からの新たなメールの着信を知らせた。

 件名には一行、こう書かれていた。


『見えますか?』


 部屋の隅の姿見が、今度ははっきりと波打った。

 その表面から、誰かが手を伸ばしてくるように見えた瞬間、部屋の電気が一斉に消え、闇が透を包み込んだ。


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