表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神を殺した世界にて  作者: ほてぽて林檎
第2部:その手はまだ繋がって
81/123

動き出す身体、触れる不安

 


 女性の声だった。

 スピーカー越しに響いたその音は、妙に乾いていて、感情の欠片も感じられなかった。まるで誰に向けられているのかも分からない、ただの命令のように。




「今すぐに、ベッドの下にある箱の中にある衣装に着替えてください」



 短い指示。それだけだった。




 私は声が消えるまで天井のスピーカーを見上げていた。隣にいたリリィも同じように、呆然とした顔で。




「……何それ」

「命令、かな」




 冗談のようで、冗談じゃない。


 まるでこの部屋の様子、私たちの目覚め、今の状態、全部が把握されていたかのようだった。



 リリィと視線を交わす。

 顔は引きつり気味だったけれど、どちらともなく動き出した。



 私はベッドの下に手を伸ばし、金属のような質感の、薄く平たい箱を引き出す。静かに開くと、内側には漆黒の衣装が丁寧に畳まれていた。



「……これ?」



 リリィが覗き込む。

 その目が少し見開かれた。



「黒のレオタード……?」



 生地はやや厚手だが、手で横に引っ張ると少し伸びる。着てみれば体にフィットしそうだった。私はそれを胸元に当ててみる。




「……似合ってるよ」


 リリィがぽつりと言った。

 いつもの冗談交じりの軽さではなかった。


 それが、なんだか照れくさくて、私は一歩後ろに下がって衣装を畳み直した。



「それ、新体操の衣装みたいだね。…演技でもさせるつもりなのかな?」


「そうだといいんだけど。変な検査とかじゃなくてね」


 私は笑ってみせるけど、声の奥に自分でも分かるほどの不安が滲んでいた。


 だけどリリィは、それに気づいていないふりをしてくれた。



 ちょっとだけ首をかしげて、目を細めて

 、

「ふふっ。じゃあ、ヒヨコのステップでまた転ばないようにね」



 思い出させないでよ、と言いたかったけれど、懐かしさに負けて小さく笑った。



「私も着替えてくるね。016号室だから、すぐ戻ってくるよ」



 そう言ってリリィは扉の方へ歩き、小さく手を振って出ていった。


 その背中が見えなくなるまで、私はずっとその場に立っていた。


 やがて静けさが戻る。



 私は改めて病院服を脱ぎ捨て、黒いレオタードに袖を通した。



 ぴたりと肌に吸い付くような感触。想像していたほど締め付けはなかった。むしろ、身体の柔らかさに寄り添うように馴染んでくれる。



 足首まで覆うレッグカバーを引き上げる。肌を滑る生地の感触はやけに滑らかで、最後に裾を弾いたときの「パンッ」という音が部屋に響いた。


 アームカバーは、手首から肘、そして指先にかけてスルリと通る。指先は切り取られていて、まるでパフォーマーのようだった。


 黒一色の統一感に、ふと口をついて出た。


「地味すぎる……」



 けれど、どこかで私も気づいていた。これは動くための服だ。見られるためじゃない。



 私は体をひねり、足を上げ、腕を伸ばす。


 鏡がないこの部屋では、自分の姿を確認する術はない。だから、せめて動いてみる。


 腕を広げ、片脚を前に出す。Y字バランス。



 あれほど長く動いていなかった身体が、まるで今までずっと動き続けていたかのように軽やかに跳ねる。



 跳ぶ。

 回る。

 前屈、開脚。


 身体が喜んでいる。



 小さな部屋の中でも、十分に演技はできる。新体操の音が耳に浮かぶ。


 タン、タタタン――床を踏むリズムが、ひとりの空間に不思議な躍動を生んでいく。


 私は、その瞬間だけは確かに自由だった。


 だから、あの音がした時、私はつい反射的に動きを止めた。


「……っ」


 ゆっくりと扉が開く。

 そこには、もう着替え終えたリリィが立っていた。


 私の動きを、驚いたように、そして少し笑うような表情で見つめていた。


「……あ」


 思わず声が漏れた。

 汗がじんわりと浮いた額を手で隠すように、私は恥ずかしさを誤魔化す。


 リリィは言葉を発する前に、目を細めて笑った。



 優しく、少し懐かしそうに――まるで、また「日常」に戻ってきたような顔で。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ