動き出す身体、触れる不安
女性の声だった。
スピーカー越しに響いたその音は、妙に乾いていて、感情の欠片も感じられなかった。まるで誰に向けられているのかも分からない、ただの命令のように。
「今すぐに、ベッドの下にある箱の中にある衣装に着替えてください」
短い指示。それだけだった。
私は声が消えるまで天井のスピーカーを見上げていた。隣にいたリリィも同じように、呆然とした顔で。
「……何それ」
「命令、かな」
冗談のようで、冗談じゃない。
まるでこの部屋の様子、私たちの目覚め、今の状態、全部が把握されていたかのようだった。
リリィと視線を交わす。
顔は引きつり気味だったけれど、どちらともなく動き出した。
私はベッドの下に手を伸ばし、金属のような質感の、薄く平たい箱を引き出す。静かに開くと、内側には漆黒の衣装が丁寧に畳まれていた。
「……これ?」
リリィが覗き込む。
その目が少し見開かれた。
「黒のレオタード……?」
生地はやや厚手だが、手で横に引っ張ると少し伸びる。着てみれば体にフィットしそうだった。私はそれを胸元に当ててみる。
「……似合ってるよ」
リリィがぽつりと言った。
いつもの冗談交じりの軽さではなかった。
それが、なんだか照れくさくて、私は一歩後ろに下がって衣装を畳み直した。
「それ、新体操の衣装みたいだね。…演技でもさせるつもりなのかな?」
「そうだといいんだけど。変な検査とかじゃなくてね」
私は笑ってみせるけど、声の奥に自分でも分かるほどの不安が滲んでいた。
だけどリリィは、それに気づいていないふりをしてくれた。
ちょっとだけ首をかしげて、目を細めて
、
「ふふっ。じゃあ、ヒヨコのステップでまた転ばないようにね」
思い出させないでよ、と言いたかったけれど、懐かしさに負けて小さく笑った。
「私も着替えてくるね。016号室だから、すぐ戻ってくるよ」
そう言ってリリィは扉の方へ歩き、小さく手を振って出ていった。
その背中が見えなくなるまで、私はずっとその場に立っていた。
やがて静けさが戻る。
私は改めて病院服を脱ぎ捨て、黒いレオタードに袖を通した。
ぴたりと肌に吸い付くような感触。想像していたほど締め付けはなかった。むしろ、身体の柔らかさに寄り添うように馴染んでくれる。
足首まで覆うレッグカバーを引き上げる。肌を滑る生地の感触はやけに滑らかで、最後に裾を弾いたときの「パンッ」という音が部屋に響いた。
アームカバーは、手首から肘、そして指先にかけてスルリと通る。指先は切り取られていて、まるでパフォーマーのようだった。
黒一色の統一感に、ふと口をついて出た。
「地味すぎる……」
けれど、どこかで私も気づいていた。これは動くための服だ。見られるためじゃない。
私は体をひねり、足を上げ、腕を伸ばす。
鏡がないこの部屋では、自分の姿を確認する術はない。だから、せめて動いてみる。
腕を広げ、片脚を前に出す。Y字バランス。
あれほど長く動いていなかった身体が、まるで今までずっと動き続けていたかのように軽やかに跳ねる。
跳ぶ。
回る。
前屈、開脚。
身体が喜んでいる。
小さな部屋の中でも、十分に演技はできる。新体操の音が耳に浮かぶ。
タン、タタタン――床を踏むリズムが、ひとりの空間に不思議な躍動を生んでいく。
私は、その瞬間だけは確かに自由だった。
だから、あの音がした時、私はつい反射的に動きを止めた。
「……っ」
ゆっくりと扉が開く。
そこには、もう着替え終えたリリィが立っていた。
私の動きを、驚いたように、そして少し笑うような表情で見つめていた。
「……あ」
思わず声が漏れた。
汗がじんわりと浮いた額を手で隠すように、私は恥ずかしさを誤魔化す。
リリィは言葉を発する前に、目を細めて笑った。
優しく、少し懐かしそうに――まるで、また「日常」に戻ってきたような顔で。




