優しい時間の重ね方
昼と夜の区別が曖昧な病室は、規則的な点検の音と、消毒薬の匂いに包まれていた。
アイリスは、まだ慣れないベッドの上で、天井をぼんやりと見つめていた。
痛みはあるが悲鳴を上げるほどではない。
どこか、他人事のような感覚。
ぽっかりと空いた心の隙間に何かを落とさないように、静かに息をしていた。
病院特有の「時間のない時間」が、アイリスの感覚を少しずつ鈍らせていく。
窓のないその病室に季節の移り変わりはなかった。ただ、規則的に変わる看護師の交代や、出された食事の内容だけが、日々の流れを教えてくれる。
親は、何度か顔を出した。
無表情で、必要な言葉だけを口にし、アイリスの様子を確認しては、淡々と帰っていく。
心配の言葉は確かに口にしていた。けれど、どこか機械的で、記録の一部のように聞こえた。
「早く良く治ってね」「いつ退院できるのかしら」
――それらの言葉に、温もりを感じることはなかった。
ある日、母が膝の上に広げた書類にアイリスが目をやると、彼女はビクリと肩を震わせ、それを急いで伏せた。
「それは気にしなくていいの」
そう言って、笑顔らしきものを見せたが、アイリスはその微笑みの奥にある「何か」を確かに見た気がした。
それが何なのかを聞く勇気は、その時の彼女にはなかった。
次の日、病室のドアが静かに開き、小さな影が差し込んだ。
「やっほ、様子見にきたよ」
ふわりと揺れる薄桃色のワンピースと、手に下げた小さな紙袋。そこに立っていたのは、リリィだった。
アイリスの顔が一気に明るくなる。
痛みも、苛立ちも、消毒液の匂いも――すべてを忘れるほどに、彼女の姿は鮮烈だった。
「これ、差し入れ。先生には内緒ね」
リリィがそう言って、袋から取り出したのは、小さな手作りのクッキーだった。
形は不揃いで、ちょっと焦げているけれど、それがむしろ愛おしく思えた。
彼女は3日に一度の頻度で、時には週に一度のペースで、こっそりと面会に来てくれていた。
見舞い客としての規則をすり抜けるように、小さなカバンに手紙や菓子、たまに面白い話を詰め込んで。
それは、間違いなく「ふたりの時間」だった。
ベッドの縁に腰掛けて、アイリスの包帯にそっと触れて「もう痛くない?」と聞いてくるその仕草。
とりとめのない会話、笑い合うひととき、ふざけて頬を膨らませるリリィの顔。
たまに出る彼女の冗談も、柔らかくて心地よかった。
アイリスは何度も思った。
このまま時が止まればいい、と。
ある日のこと。リリィは両手をそっと重ね、アイリスの手を包み込むようにして言った。
「待ってるからね」
それは何でもない一言のようで、まるで祈りのような重みがあった。
アイリスは返事をせず、ただ頷いた。




