科学技術開発部門へ向かう通路にて
報告書とリネットに関する申請書をライナーに託したあと、エドワード・クラウス大佐は手ぶらのまま、静かな足音を立てて通路を進んでいた。
壁沿いには無機質なライトが等間隔に並び、微かに機械音のするこの区画は、外界と隔絶されたような静寂に包まれている。
ふと前方に、見慣れた姿が視界に入る。
クロエ・ラインハルト少尉。
姿勢よく歩きながらも、手元の資料に夢中になっている。
目線は一枚の書類に釘付けで、周囲に気を配っている様子はない。
「――っと」
次の瞬間、クロエの肩がエドワードの胸元にボスンと当たり、書類が揺れた。彼女の体がぐらついたのを、彼は咄嗟に片腕で軽く支える。
「……すみません、大佐っ――!」
クロエが顔を上げた瞬間、エドワードはわざとらしい調子で口を開く。
「おや、少尉。まさか私にぶつかるとは――惚れたのか?」
「は……ぁ?」
呆れとも怒りともつかぬ声が漏れ、クロエは急いで距離を取った。表情は普段の冷静なものに戻りつつも、耳の先がわずかに赤い。
「茶化すのはやめてください。まったく……いつもながら、そういうとこが――」
小声で何かを呟いたが、聞き取れなかった。
だが、彼女の瞳は少しだけ揺れている。
エドワードはそれ以上何も言わず、いつもの調子で歩き出す。
「それより、少尉。私はこれから科学技術部門に顔を出すつもりだ」
クロエは、少し歩幅を早めて追いつく。
「私は……申し訳ありません。まだ、調べたいことがありまして」
「……査問会の件か?」
問いではなく、確認だった。
クロエは何も答えない。ただ無言で視線を落とし、一枚の資料をそっと指でなぞった。
彼女は、エドワードを助けたいのだ。
上層部の動き、ライナーの狙い、どの点を突かれようとしているか――すべてを調べているはずだった。
だが、あえてそのことは言わない。それが彼女の皮肉屋な、しかし優しい性分だ。
「……あなたに振りかかる問題を見過ごすほど、私は甘くありません」
キツくも真っ直ぐな声。
その懸念を、エドワードは「ありがとう」とも「心配無用」とも言わなかった。
「科学技術部門には立ち寄る価値がある。連中の顔を見ておかねばな」
「彼らは、採血量の増加に賛成しています。今の3倍、下手をすればそれ以上を求める動きも――」
「そうだろうな」
静かな返答。
量産型神代兵器──
それらの駆動源は、聖女たちの血に含まれる未知の因子だ。
さらには電力供給、農業生産、浄水処理……生活のインフラの至る所に、彼女たちの“力”が使われている。
キツくも真っ直ぐな声。
「彼女たちがいなければ、この国の背骨はすでに折れている。難しい問題だよ」
エドワードの言葉には、諦念でも怒りでもなく、ただ静かな現実認識が込められていた。
だからこそ彼は、妥協しながらも抗う道を選んでいる。
「では、少尉。引き続き調査を頼むよ」
「……了解しました。大佐も、余計な口を滑らせないように」
「まさか。私は慎み深い男だろう?」
「自覚があるなら、もっと態度に表してください」
そう言って背を向けたクロエの歩調は、どこか軽やかだった。




