一杯のコーヒーと静寂
—— 夜の静寂に包まれた軍の執務室
ホログラムスクリーンの青白い光が、無言のエドワードの表情を淡く照らしていた。
その瞳はどこか遠く、冷めた理性の奥に、焼けるような痛みを隠していた。
彼はデータの一覧をスクロールさせる。
リネットの健康状態、採血量、代謝データ、精神安定指数……
冷静に見れば、これほど明確に「限界」を示す数値はない。
——前回は、環境的要因で押し通せた。
だが今回は、同じ手が通じるとは思えない。
健康でなければ、十分な採血はできない。
これは資源の「持続可能性」を理由に、一時的な採血制限を申請するには十分な要件であるはずだ。
けれど、あと一押し足りない。
今はまだ、聖女の管理権限は一時的に自分にある。
つまり、もしこの状態で問題が起きれば……誰の責任になるか?
——私の責任だ。
エドワードは立ち上がり、スクリーンの前を歩く。
「……聖女も、“人”だ。」
その呟きは、自分自身に向けた確認のようでもあった。
「病気にもなる。怪我をすれば血が出る。血が無くなれば、動けなくなる……」
静かに目を閉じる。
「神秘や奇跡を除けば、なんの違いもない。」
指でスクリーンの一点をなぞる。そこにはリネットの血中酸素濃度の低下グラフがあった。
「我々が生きるため、これから生まれて生きる者たちのために……」
エドワードの声は少しだけ揺れた。
「……永遠に、聖女は飼われたままでいいのか。」
無言の室内。誰も答える者はいない。
「誰もがそう言うだろう。民衆も、軍も。たとえ恩があった人物でも。」
「“聖女とは、そうあるべきである”と。」
その声は自嘲に近かった。
「……それが、事実だ。」
リネットやセリア、エルナ。
彼女たちが生かされている仕組み。
それを軍は、プロパガンダで**“善”に偽装し、悪を“正義”に塗り替えた。**
結果、軍内部では聖女はただの資源。
家畜。
「……そうだとも。」
誰も、今さら**“共生”**などと言わない。
——私は、一人だった。
そう、エドワードはわかっていた。
聖女を“想う”者は、いる。
だが、“聖女自身の存在を考える者”は、誰もいなかった。
それも、当たり前のことだろう。
人は、生き残るために正しさを捨てる生き物だから。
不意に、彼はスクリーンから目を離した。
静かな空間。
傍らの椅子では、エリックが腕を枕にして、微かに寝息を立てていた。
ソファには、丸くなって眠るクロエの横顔。
彼女の頬に垂れた髪が、静かに揺れている。
彼らは、理解してくれている。
すべてではないにせよ、少なくとも、同じものを見ようとしようとしている。
エドワードは、静かに座り直した。
指先が触れたカップの中、冷えたコーヒーの底に、もう湯気はなかった。
——
“人として、扱う。”
その言葉の重さが、あらためて彼の背にのしかかる。
それでも、彼は次の手を考えていた。
ただひとつでも、希望を繋ぐために。




