3.No.001 先走り系ヒロイン×パトリシア②
私に水をかけられたと訴え、騒ぎを起こしたパトリシア嬢は、先生に連れられて退出していった。
はぁ。突然の事で動揺したけど、周りの反応から察するに、私の疑いは晴れたみたいだ。
一気に肩の力が抜けて、少しクラクラする。
「アンジェリカ、大丈夫かい? 驚いただろう。奥で少し休もう」
ノエル殿下はそう言って、私の手を取りエスコートしてくれた。
休憩室のソファーに座らせてもらい、息を整えていると、殿下の執事のトルテ=ルリジューズが水を入れてくれた。
「アンジェリカ様、どうぞ。アンジェリカ様がお好きな、オレンジとアップルのフレーバーウォーターです」
白いグローブをはめた手で、グラスを目の前のローテーブルに置いてくれる。
トルテは、黒い執事服を着用し、柔らかそうなこげ茶色の髪をセンター分けにしている、顔立ちが整った男性。
年齢は私たちと同じ十八歳だけど、幼いころから執事としての教育を受けているから、丁寧な所作と心配りが自然と出来る素晴らしい執事だ。
「トルテ、ありがとう」
爽やかな香りと甘い風味がする冷たい水を飲むと、緊張でカラカラに乾いていた喉が一気に潤う。
それにしても、確かにこのフレーバーウォーターは私の大好物だけど、一般的な飲み物じゃないから、自分の屋敷ならともかく、こんな所で出してもらえるとは思っても見なかった。
トルテが準備しておいてくれたのかな。
「僕のアンジェリカ、こんなにも震えて⋯⋯もう大丈夫だからね」
隣に座るノエル殿下は、膝の上で握りしめている私の拳を、両手で包んでくれた。
男性に⋯⋯しかも、ノエル殿下にこんな風に触れられるなんて、一気に顔が熱くなる。
「殿下、もう大丈夫です。かばって頂き、ありがとうございました。信じて頂けて、嬉しかったです」
なんとか感謝を伝えるも、本音では、心臓がばくばくして苦しいから、逃げ出したくて仕方がない。
「僕が君を信じるのは当然じゃないか⋯⋯⋯⋯もしかして、信じて貰えないかもしれないと思った?」
ノエル殿下は、少し寂しそうな表情をしながら、私の顔を覗き込んできた。
こうやって一対一で会話するなんてこと、今まで滅多に無かったから、正直、殿下がどんなお方なのか、多くは知らない。
当然、殿下も私のことをあまり知らないはずだから、信じて貰えるなんて確信は持てなかったわけで⋯⋯
でも、冷静に考えたら、自分の妻になる人間を守るのは当然か。
未来の王太子妃が横暴な人間だなんて噂が立ったら、王室の信頼に関わるだろうから。
「これまで殿下には、一人の人間として尊重して接して頂いていたとは思いますが、わたくしが殿下の信頼を得られているかどうかは、正直な所、自信がなかったもので⋯⋯」
正直に答えると、ノエル殿下は、がっくりと肩を落とした。
「そうか、僕の想いは伝わっていなかったんだね。それは申し訳ないことをした。まったく、初めて君を見つけたあの日から、僕の心は君の虜だと言うのに」
落ち込む殿下がおっしゃる『あの日』と言うのは、恐らく私たちが五歳だった頃の出来事だ。
ある日のこと、突然、お父様に飛びきりおめかしをするように言われ、侍女たちにドレスを着せて貰い、ヘアセットや軽いメイクまでして貰った事があった。
それなのに何故か、どこへ出かけるでもなく、誰に会うのでもなく、屋敷の庭園で遊んでいるように言われた。
その日から数日後、ノエル殿下との婚約の話が舞い込んで来た。
一人遊びをしている私を、どこかから殿下がご覧になっていて、気に入って頂けたのだとお父様は言った。
婚約者候補は複数人居たらしいけど、その中から私が選ばれた。
それは、私が『医術』に対して、優れた素質があるからだと思っていたんだけど。
「確かに今までは、多忙さ故に公式の場で、しかもコンフィズリー公爵と一緒の時にしか、君とは会えなかった。だから、季節ごとのグリーティングカードでは、愛の言葉を贈っていたと思うんだけど⋯⋯まぁ過ぎた事はいいや。僕は、これからこの学園で共に学び、切磋琢磨し合う中で、君との関係も育んでいきたいと、考えているんだ」
ノエル殿下は笑いかけてくれた。
確かにグリーティングカードには、愛しのアンジェリカとか、マイスイートハートとか、会いたくて眠れないとか書かれていたけど、それは社交辞令かと思ってた⋯⋯
そうか。あれは愛の言葉だったんだ。
今度、長期休暇で屋敷に帰ったら、読み返してみよう。
そして、これから関係を育むと言うのは、もしかして、愛を育むということ?
油断したら、勉強に身が入らなくなりそうだけど、とてもドキドキする響きだ⋯⋯
「ところで、ノエル殿下。先ほどのパトリシア嬢は、どちらの家門の方なのでしょうか? 恥ずかしながら、わたくしは存じ上げませんで⋯⋯」
「なんだ。彼女は、アンジェリカに挨拶も無かったのか。僕のところには、パーティーが始まって直ぐに挨拶に来たんだけれど。デニッシュ伯爵が最近養女に迎えたそうだ。孤児院出身にも関わらず、『医術』の素質があるとか」
「そうでしたか。そんな彼女が何故、わたくしをおとしめようとしたのか⋯⋯デニッシュ伯爵の指示でしょうか?」
「んーどうだろうね。あのデニッシュ伯爵が、医術の素質がある彼女を養女に迎え、入学直後にまずさせることが、あの騒ぎだとは到底考えられない。そうだとしたら、とんだ間抜けだよ」
ノエル殿下は、顎に手を当てたまま、考え込んでいる。
「僭越ながら申し上げます。恐らく、アンジェリカ様への嫉妬では無いでしょうか?」
トルテは頭を下げながら発言した。
私たち二人が彼を見ると、話を続けてくれる。
「退出直前のパトリシア嬢の発言から推測するに、殿下の寵愛を賜りたかったパトリシア嬢は、アンジェリカ様の地位をおとしめ、自らがその立場に成り代わろうと企んだのでは無いでしょうか」
確かにパトリシア嬢は、最後には自分が愛されるはずだとか、婚約破棄に繋がらないのは、おかしいと言う様な事を言っていた。
私が殿下の婚約者になってから、十年以上が経つ。
既にこの事は社交界の常識だけど、孤児院出身でその重みを知らなかったのなら、合点が行く。
「なるほど。トルテの発言には説得力があるね。そう言うことなら、こうしちゃいられない。僕たちの関係が強固なものである事を、皆にアピールしないと」
ノエル殿下は、私が落ち着いたことを確認してくれた後、パーティー会場に戻り、パートナーとしてダンスを踊ってくれた。
そんな私たちを見たクラスメイトたちが、歓声を上げる中、ただひたすらパーティーの食事に夢中になっているご令嬢がいた。