1.No.001 先走り系ヒロイン×パトリシア①
濡れ衣――それは、身に覚えのない罪や根拠のない噂話のこと。
公爵家の長女である私、アンジェリカ=コンフィズリーが、初めて濡れ衣を着せられたのは、十八歳の頃。
王立医術学園の入学式後のパーティーだった。
学園内のホールにて、きらびやかな雰囲気の立食パーティーが行われている最中。
今思えば、これはとんだ茶番だった。
けれども、当時の私にとっては恐ろしい体験だったのだ。
「きゃあ! 止めてくださいませ!」
突然、隣にいたご令嬢が、可愛らしい声で悲鳴を上げた。
水を打ったように会場が静まり返る。
食事を楽しんだり、談笑したりと、思い思いに過ごしていたクラスメイトたちの視線が、一斉に隣のご令嬢に注がれる。
注目を浴びるそのご令嬢は、女性の私でも一瞬どぎまぎしてしまうほどの美少女だ。
どうやら、彼女が持っているグラスの水が、派手にこぼれてしまったらしい。
「大丈夫でしょうか? よろしければ、こちらをお使いください」
ご令嬢に対してハンカチを差し出すも、彼女は私を睨みつけたあと、とある男性の方へと向かった。
「どうしたんだい、パトリシア嬢。せっかくの美しい髪とドレスが、こんなにも濡れて⋯⋯」
この国の王太子、ノエル=アフォガート殿下は、ジャケットから上質なシルクのチーフを取り出し、パトリシア嬢の髪やドレスの水分を拭う。
今日のノエル殿下は、真っ黒なシャツに真っ白なジャケットとズボンを着用し、ロイヤルブルーのマントを羽織ったお姿だ。
パトリシア嬢は怯えたように、ノエル殿下にすがりついた。
ノエル殿下も、そんなパトリシア嬢の背中を優しくさする。
「殿下⋯⋯大変申し上げ難いのですが、実は、アンジェリカ様が、水の入ったグラスを⋯⋯」
涙目になったパトリシア嬢は、ノエル殿下を上目遣いで見つめる。
え⋯⋯突然、何?
今、彼女は私の名前を言わなかった?
確かに、私は彼女の隣に立ってはいたけど、身体がぶつかったなんて事はない。
彼女が水浸しなのは、断じて私のせいではない⋯⋯はず。
それなのに彼女は、余りにもはっきりと私のせいだと言った。
それは何故か。直ぐに分かった。
社交界ではよくあること。
はめられた。濡れ衣を着せられたんだ。
「恐らく、わたくしの美貌に嫉妬してのことかと思われます。アンジェリカ様は、『ちょっと可愛いからって、いい気にならないことね。貴女にはこっちの方がお似合いよ』とおっしゃいました。ご自分より美しいわたくしの事が気に入らず、このような仕打ちを⋯⋯うぅ⋯⋯うぐっ⋯⋯」
パトリシア嬢は顔を手で覆い、肩を震わせ泣き出してしまった。
「なんだって? アンジェリカ様が、パトリシア嬢の美貌に嫉妬して、水をかけたって言いたいのか?」
「ノエル殿下の婚約者でいらっしゃる、アンジェリカ様が?」
パトリシア嬢の言葉に、会場がざわつき始める。
どうして彼女は、そんな事を言うんだろう。
これからこの学園での生活が始まるって時に、こんなに大勢の前で犯人扱いされて、クラスメイトたちから、どんな目で見られることになるんだろう。
何より、同級生であり、婚約者でもあるノエル殿下に、ご迷惑をおかけする上に、嫌われてしまうかもしれない。
殿下と私は婚約しているとは言え、公の場で顔を合わす程度の関係⋯⋯
この先のことを考えると、不安と恐怖で震えがくる。
パトリシア嬢の言葉を聞いたノエル殿下は、険しい表情になった。
銀髪蒼眼の麗しい王子様⋯⋯
美しい殿方の鋭い目つきには、迫力を感じる。
どうしよう。ちゃんと言わなきゃ。
誤解ですって、はっきりこの場で言わなきゃ。
でも、こんな空気で私が何を言ったって、信じて貰えない。
ノエル殿下が発言しようと息を吸うのが分かった。
衝撃に備えて拳を握りしめ、固く目をつぶる。
「パトリシア嬢、君は何を言っているんだい? 僕のアンジェリカが、そんな事をするはずが無いだろう?」
ノエル殿下は、パトリシア嬢に厳しい目線を向けた。
「ノエル殿下! まさか、婚約者だという理由で、アンジェリカ様を庇うおつもりですか? 私はこんなにも酷い仕打ちに遭ったと言うのに」
パトリシア嬢はノエル殿下にすがりつく。
ノエル殿下は、そんな彼女には目もくれず、私の方へ歩いて来たかと思ったら、肩を抱いてくれた。
「アンジェリカ。君はさっきから何も言わないけど、どうなんだい?」
甘く優しい声色で問いかけられる。
「ノエル殿下、わたくしは何もしておりません。パトリシア嬢の勘違いかと」
「そんな! 隠し立てするおつもりですか!?」
私が否定すると、パトリシア嬢は私の言葉に被せるように言った。
「そこまで言うなら証拠はあるのかな? この中に、アンジェリカが彼女に水をかける所を見た者はいるかな? もしくは、アンジェリカが彼女をけなす声を聞いた者は」
ノエル殿下は会場を見渡す。
当然ながら、そのような現場を見た人は誰もいない。
殿下は再びパトリシア嬢に視線を戻す。
「それは⋯⋯皆様、怖気づいているだけで⋯⋯このドレスが証拠です!」
パトリシア嬢は高らかに叫ぶ。
けれども、みんな首をかしげるようにして、彼女を観察している。
「おかしいです! だって、だって、アンジェリカは悪い人で⋯⋯アンジェリカのせいに決まってます! 本来ならノエルは、私の事を好きになるはずで⋯⋯最後には、私が世界で一番可愛いって言ってくれるはずで!」
明らかに動揺して、敬称を付けるのも忘れているパトリシア嬢。
彼女の発言内容や目的が、周囲の人間には全く伝わって来ない。
「女性に対して、こんな事は言いたく無いんだけど、君が余りにも身勝手に振る舞うから、この際言わせてもらうよ。あのね、パトリシア嬢。確かに君は可愛らしい女性だ。けれども、僕のアンジェリカの前では、芋も同然。何の感情も湧かないんだ」
ノエル殿下は、申し訳なさそうに微笑みながら、私たちにしか聴こえないような小声で言った。
その言葉に、パトリシア嬢はがっくりとうなだれ、床に倒れ込む。
「どうして⋯⋯どうして? アンジェリカは悪役令嬢のはず。ここで婚約破棄に繋がるんじゃないの? 断罪されないの? ノエルとの親密度が足りなかった? 選択肢を間違えた?」
これが厄介な存在、ヒロインとの出会いである。
【突然アンジェリカに降りかかった災難。次話のパトリシア目線以降、徐々に状況が明らかにされて行きます】
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