ジャスミンの花輪
「着いたぞ。起きろ」
知らない声に呼びかけられ、びっくりして飛び起きた。
(ここは……どこ?)
ぼうっとする頭で前を見ていたら、白い牛がお尻に集る蝿を尻尾でパシっとやるのを見て、思い出した。どうやら僕は眠ってしまったらしい……。
牛の主は荷台に置かれた箱の蓋を開け、瓶に入った牛乳を二本掴み、「これを持って、俺についてこい」と僕によこした。
( ここに入っていたのか…… )僕は恨めしく箱を見た。箱は、ちょうどミルクの缶に隠れて見えなかったのだ。
しかも、中身は空っぽだった……。
僕はひどく惨めな気持ちになり、後悔の念で押しつぶされそうだった。
( ……そうだ、謝ろう。おじさんに事情を説明して許してもらおう )
僕は勇気を振り絞り、「おじさん、あの」と切リ出すと、おじさんは僕の言葉を遮って、「用事が済んだら家に帰してやる。嘘じゃない。言っとくが、俺は嘘が大嫌いなんだ」と言ったので、それ以上何も言えなくなってしまった。
ついてこいと言われ、観念しておとなしくおじさんの後からついていった。
この時も、逃げようと思えば出来たのに、最初におじさんから言われた、「逃げたらお前は一生終わりだ」という言葉が、呪文のように僕の自由を奪っていた。
おじさんが向かったのは、お寺の入り口にある売店だった。線香の匂いがする。
赤ちゃんをおぶった店の女の人は、僕らの姿を見つけると、聞こえる声で、「こんにちはー、いらっしゃいませ」と言ってにこにこした。
店の前まで来ると、おじさんは僕の背中をちょんとやって( さあ、渡して )と言った。
僕は緊張しながら( これを? この人に? )と、おじさんの顔を覗き込むと、( 他の誰に渡すんだ? そうだよ、この人にだよ )と答えた。
僕は意思がふにゃふにゃで( 二本とも?)と、おどおどしながら聞くと、おじさんは( 二本ともに決まってるだろ )とため息を吐いた。
慌てて両手に持った牛乳をおばさんの前に突き出すと、おばさんは、小鳥のようにククッと笑いながら、「今日は可愛いお手伝いさんが一緒なのね。ありがとう」と言って受け取った。
おばさんはおじさんに頭を下げて、「ほんとうにいつもありがとう。感謝してもし切れないわ」と言った。
その時、下の方から視線を感じ、見ると、幼い女の子がお母さんの足にしがみつき、おっかない顔で僕を見ていた。
おばさんはすぐに分かって、「ごめんなさいね、うちの子人見知りなのよ。でもね、最初だけなの」と言った。
「いつものでいいかしら?」
おじさんはこくりとうなづいた。
店の人は、手際よくプラスチックの籠につやつやのバナナの葉を敷いて、果物、お菓子、草、蝋燭と線香を綺麗に盛り付けて台の上に置いた。
「今日は……それももらおうか」
おじさんは、吊るしてある白いジャスミンの花輪を指差した。
財布から札を何枚か出して、「これで足りるかな」と聞くと、「花の分はいらないわ。いつもよくしてもらってるから」とおばさんは言ったが、おじさんは頑として払うと言って聞かなかった。
結局、店の人が折れて、代金を受け取ってから、「それじゃ、せめてこれをあなたに。おばさんから。はい。」と言って、僕にカードをくれようとした。
僕は横目で( もらってもいいの?)とおじさんに聞くと、おじさんは小さく肯いて(もらっておけ)と言った。
僕はお辞儀をしてからカードを受け取り、すぐにポケットにしまった。
おばさんは、両手を合わせ、「女神様の祝福がありますように」と言った。
+
店を後にし、寺院の山門をくぐった。
おじさんから、「これはお前が持て」と花輪を渡された。
輪っかを手首に掛けて歩くと、歩く度にジャスミンのいい匂いがした。
その匂いがあんまり素敵なので、僕は一瞬、怖いのを忘れた。
なにもかも初めて見る景色だった。
僕は自分の住んでいる所から、ほとんど外へ出たことがなかった。
お寺の中は、外から見た時よりもずっと広かった。
僕とおじさん以外に人はおらず、辺りはシーンとして、自分の鼻息の音しか聞こえなかった。
建物の前まで来ると、おじさんは僕にこう言った。
「この奥には、女神様が祀ってある。いいか、よく聞け。女神様の前で二度と盗みはしませんと誓うんだ。上っ面だけで言うんじゃないぞ。ここで(と胸に手を当てながら)心の底から言うんだ。世の中には人のものを盗んでもなんとも思わない連中が大勢いる。だが、そいつらは何も分かってない。誰も見ていないから大丈夫だと思ったら大間違いだ。神様にはな、千の手と、千の目と、千の耳があるんだ。隠れようが何しようが、何もかもお見通しなんだ。いいか坊主、お前もこれから大人になって色々と経験すれば、俺の言ったことが嘘じゃないと分かるはずだ」
僕は、千の手と目と耳がついた神様の姿を想像し、身震いした。