ミルク缶
快調に飛ばして竜を制覇し、僕は上機嫌だった。
この先を行くと広場がある。
広場まではすんなり来れた。
一人だと見つかり難いのかも知れない。でも、こっちの人は僕たちをどうやって見分けているのだろう? 大人は服が違うからなんとなく分かるけど、子供はどこが違うのか僕にはさっぱり分からなかった。
周りに人がいなかったので、今日は先まで行ってみることにした。
人の多い表通りを避けて、裏道を行くことにした。
裏道へ曲がると、荷台に繋がれた二頭の真っ白な牛がいた。すごく大きくて綺麗だ。僕は動物が大好きだった。もっと近くで見たい。
僕はそうっと牛に近づき、「よし、よし、いい子だ」と、優しく牛を撫でた。牛も気持ちがいいのか、目を細めてじっとしている。
(可愛いなあ。何を運んでるの?)
荷台を覗き込むと、特徴的な形の金属製の入れ物が並んでいた。どこかで見たことがある……思い出した、ミルクを入れる缶だ。
その瞬間、母さんの顔がぱっと浮かんだ。
母さんはお乳の出が悪く、そのせいで、弟たちはお腹が空いて一日中ぐずっていた。この前、夜中に弟の泣き声で起こされた時、母さんは弟を抱っこしながら、「ミルクを買ってあげられなくてごめんなさい」と言って泣いていたのを見て知っていたからだ。
心臓の音がドクドクと鳴り始めた。
僕は普段は引っ込み思案なのに、この時だけは違った。
僕はミルクを盗もうと決めた。
悪いこととは思っていなかった。
困っている母さんと弟たちを助けるためにちょっと分けてもらうだけだ、と僕は自分に言い聞かせた。
素早く荷台によじのぼり、一番手前にあった缶を持ち上げてから気がついた。
ミルクの缶は僕の膝の高さほどあり、両手でないと持てない大きさだったのだ。
(こんなに大きなものをどうやって家まで持って帰るんだ?)
盗むことばかり頭にあって、そこから先のことは何も考えていなかったのである。
(どうしよう……このままじゃだめだ、何か小さな入れ物に移せばいい? でも、そんなものどこにある?)
その時だった。
「おい! そこの小鼠! 何してる!」
牛車の持ち主が戻って来たのだ。
びっくりした拍子に、僕は缶を落っことしてしまった。
ミルク缶は荷台から転がり落ちて、ガランガランと大きな音を立て道の端で止まった。
落ちた衝撃で缶の蓋が外れてしまい、僕は思わず、「あ!」と声を上げてしまった。
だが、ミルクは溢れなかった。
空だったのである。
主は荷台を塞ぐように手を広げ、低い声で、「逃さないぞ」と凄んだ。
心臓が飛び出そうだった。足がガクガクし、唇がぶるぶる震えてきた。
おじさんは僕を睨み、「坊主。自分のしたことが悪いことだって分かってるよな?」と言った。
怖くて武者震いが止まらなくなってしまった。
「おい。返事をしろ!」とおじさんは強い口調で言った。
僕は声にならない声で、「はい」と答えた。
それを合図に涙のスイッチが入り、僕はしゃくり上げて泣いた。
しかし、おじさんは冷静だった。
「泣いたってだめだ。俺の言うことを聞くんだ。そうしたら許してやる」
「乗れ!」と言われて僕はおじさんの隣に座らされた。おじさんは僕の肩に圧をかけながら、「逃げようなんて思うなよ。逃げたらお前は、この先一生終わりだ」と言った。
おじさんが二頭の牛に鞭を入れると、白い牛はのろのろと歩き出した。
速度は歩くより遅かったかも知れない。飛び降りて逃げようと思えば逃げることも出来たかも知れなかったが、その時の僕にはそんな知恵も気力も残っていなかった。
地面の凸凹の度に体が上下左右に振られた。
肋あばらが浮き出ている牛の腹を見ながら、この世の終わりだと思った。