竜の階段
僕の名前は、チャンドラ。
おととい僕は九歳になった。
僕はきょうだいの真ん中で、五つ上の兄と、三つ上の姉、下に半年前に生まれた双子の弟がいた。
毎朝僕は、父さんのお経を唱える声と、咽せるようなお香の煙で目が覚める。
家の中には、ラクシュミー女神様の小さな祭壇があり、父さんは朝晩のお祈りを欠かしたことがなかった。祭壇には女神様の絵が飾ってあって、見れば見るほど母さんにそっくりだった。
もしかしたら父さんは、母さんに似てるから女神様が好きなのかも知れない。
母さんは家の太陽のような存在だった。明るくて優しくて、面白くて、何でも出来た。
母さんは歌も踊りも上手だったが、その中でも特に上手いのは、物語を話すことだった。
王子とお姫様、兵隊、魔物や猿まで、登場人物によって声を使い分け、まるですぐ目の前にいるかのようだった。
僕が寝る前にお話を聞いていると、兄さん達は、その話はもう何十回も聞いたと言いながら、おまえ一人でずるいぞと言って、観客に加わった。
兄さんと姉さんは二人ともしっかり者で、朝まだ暗いうちに起きて、野菜を売る仕事に出かける。この仕事はもっぱら子供の仕事だった。車が赤信号で停まっている間に、走って行って野菜を売るのだ。採れたての野菜は、市場で買うよりも新鮮で値段も安く人気があった。
姉さんは母さんに似て美人のせいか、他の人より稼ぎが良いらしい。
仕事は早い者順で締め切られてしまうが、運が良ければ、売れ残りの野菜や半分傷んだ野菜を貰うことが出来た。
一度だけ、姉さんがパンを貰ってきたことがあった。
外国人に貰ったそうで、姉さんは三人で食べようと言って三等分にして食べた。
中には茶色いクリームがたっぷり入っていて(その時はそれがチョコレートクリームだとは知らなかった)とろけるように甘く、僕は一瞬で食べてしまい、もっとゆっくり食べれば良かったと後悔した。
今までは小さいからだめだと言って僕は連れて行ってもらえなかったが、九歳になったので、今度父さんに僕も行っていいか聞いてみようと思っている。
僕は今から決めている。外国人の車が来たら、誰よりも真っ先に走っていく作戦だ。
父さんは、あちら側の食堂で働いていた。
この辺の人達は皆んな仕事がなくて困っていたが、仕事があるだけでも幸運で、それとこっちの人間が向こうで働くなんてあり得ないらしく、姉さんの話だと、店のご主人と父さんが同じ村の出身だと分かり、特別に雇ってくれたそうだ。父さんの仕事は鍋や皿を洗う仕事で、水でびしょびしょになるから、夏はいいが冬は冷えて大変だと言っていた。
父さんは毎日、店の料理を持って帰ってきてくれた。
僕はそれは店で余ったのだと思っていたが、実は店で出された賄いで、父さんはほんの少し食べて、後は残して僕らのためにとっておいてくれたのだと、ずっと後になってから知った。
父さんは時々僕に故郷の話をしてくれた。
母さんと父さんは同じ村の出身で、母さんは小さい時から目立っていて、男子の憧れの的だったらしい。
村は南にあって、田んぼや畑が多く、一年中なにかしらのお祭りがあるそうだ。
話を聞いていると、そこは、此処よりもずっと良い所に思えた。
それなのに、どうしてこんな所に住んでいるのか僕は疑問に思ったが、なんとなく聞きずらい雰囲気だった。
兄さんのよく使う、大人の事情があるのだろう。
僕の家のある場所には、びっくりするくらい大勢の人が住んでいる。
どの家も狭くて日当たりが悪く、部屋は一年中じめじめしてカビ臭い。嫌な虫と鼠さえいなければ、家で寝るより外で寝た方がよっぽどマシな気がした。
だから、僕たち子供は、朝から晩まで暗くなるまで外にいた。
毎日だと段々飽きてきて、僕らは親の忠告を聞かず、ちょくちょくへ遊びに出かけた。
あっちの人に見つかるとすぐに追い払われるが、それもまたスリルがあって面白かったのだ。
誰が一番先に逃げて帰って来れるかを競うのである。
僕は大抵、二番か三番で悔しい思いをしていた。
向こうに行くには、“竜の階段”を上らなければならない。
階段は全部で398段あり、途中で二箇所ジグザクになっている。
階段は傾斜がきつく、大雨が降るとすっかり見えなくなる。
僕はまだ本物を見たことがないが、滝のようだと父さんが言っていた。
竜は滝を登るそうで、それが名前の由来らしい。
*
その日も、外でぶらぶらしていた時、
そうだ、今日は僕一人であっちへ行ってみようと思いついた。
九歳になったのだし、いつまでも仲間と一緒じゃだめだ。
気が変わらないうちに、僕は竜の階段へ向かった。
幸い、仲間の姿はなかった。
僕は大きく息を吸い込んで、一気に階段を駆け上がった。