3
朝。
小鳥たちのさえずりが響き始め、段々と日の光が森の中にも差し込んでくる。
ガリューは既に起きて、朝の稽古を始めていた。
勿論片腕を無くしているガリューには、今まで通りの稽古はできない。あくまで軽い運動のようなものである。
槍を握り、振るう。
片腕ではバランスがとりづらいこともあり、その動作はかつてとは比べられないほど慎重で、ゆっくりとしたものだったが、肉体は熱を発し、汗がじわりじわりと流れている。
やがてそれはだんだんと速くなっていき、呼応するように振るわれる槍の風切り音は鋭くなっていく。
巌のような筋肉が隆起し、渾身の力が籠められる。
「―――フンッ!」
爆発的な速度で振るわれた槍は、目の前にある樹の幹を貫いた。
(この程度か…)
ガリューは内心で落胆する。
やはり隻腕であることのデメリットは大きく、以前のような戦い方はできない。
スパルティアの戦士は盾と槍を持って戦う、攻防ともに秀でた戦い方を主としていたが、今のガリューにそれはできない。
(鍛え直しだな…)
「……ぅん」
傍らから小さく唸るような声。
布にくるまれ穏やかな寝息を立てていた少女が、ガリューの稽古の音によって目を覚ます。
「起こしたか。まだ休んでいてもいいぞ」
「だい、じょうぶです」
少女はいそいそと体を起こし、自分の体に巻かれた布に気づく。
「これ…」
「包帯と呼べるほど上等なものは無かったが、ないよりマシだろう」
各所に怪我をしていた少女に巻かれた包帯代わりの布。少女が昏倒している間に、ガリューが巻いたのだ。
無論、ガリューに丁度良い布の持ち合わせなどないので、少女と共に倒れていた商人たちの馬車から拝借したものである。
「改めて名乗ろう。俺はガリュー。戦士だ」
「せん、し」
「名前を聞いてもいいか?」
「……ルクル、です」
たどたどしくもはっきりと、少女は名乗った。
「北方風の響きだな。良い名だ」
「……」
「よし。起きたのだから、朝食にしよう」
槍を地面に刺し、鍛錬の汗をぬぐう。
傍らの木に、鍛錬の前に狩っておいた猪が吊られている。
右手のみでどうやったのか、器用にも血抜きが済まされ、毛皮が剥いである。
「今火を起こす。待っていてくれ」
ガリューは石を打ち合わせて火種をつくると、手慣れた様子で焚き火を準備する。
「喉も乾いているだろう。飲むといい」
差し出したのは小綺麗な水袋。
馬車が横転してなお無事だったものの一つだが、死人に口なしである。
水袋を受け取った少女は素直に口をつける。
こくこくと飲む姿を見て、心配していたガリューは安堵して微笑む。
「肉もすぐに焼ける。それまで…そうだな、互いのことでも話そうか」
ガリューは、まず自分のことを話した。
戦士であること、戦いに赴き、気づいたらこの森で目覚めたこと。
ルクルのような幼い少女相手でも伝わるよう、難しい言い回しはせず、自分が何者であるかをわかりやすく説明した。
話している内に警戒心も薄れてきたのか、ルクルの方からもぽつぽつと自分のことを話し出した。
彼女は、何処にでもある田舎の農村に生まれた。
父と母はともに農業に勤しむ平凡な家庭で、ルクルは彼らの初めての娘だった。
ルクルは両親や村の人々に可愛がられたが、村は盗賊に襲われて壊滅した。
父は殺され、母は犯されて殺された。
ルクルはそれを、床下から見ていた。
両親は彼女を隠すために、食料の保存に使っていた床下の小さな収納に押し込んだ。
結果、彼女は盗賊に見つかることなく生き残った。
それから彼女は当てもなく彷徨った。
愛する家族や故郷の村を失い、生ける屍のようになったルクルは、とある山中で、とあるものと出会ったという。
その時のことはよく覚えていないらしい。何か黒いものが目の前にいたと思ったら、いつの間にか消えていた。そしてその日から、ルクルの体には痣が浮かび上がったのだという。
「痣?打ち身ではないのか」
ルクルはふるふると首を振る。何も怪我をしていないのに、まるで何かの紋様のように、心臓を中心とした胴全体に黒い痣が浮かび上がったというのだ。
「良ければ見せてくれるか?少しでいい」
ルクルは恥ずかしいような落ち込むような表情を見せるが、やがて身に纏っていたぼろを捲って、その腹部を露わにする。
「なんと……」
ルクルの白い肌には、黒い蛇がのたうち回ったかのような跡が、途切れ途切れに浮かんでいた。まるで素人が見様見真似で入れた刺青のようだった。
「無理を言ってすまない。もう大丈夫だ」
ガリューは布を捲っている手を下げさせる。
「喉が渇いただろう」
水袋から水を飲ませて、一息つかせる。
凄惨な過去を話したというのに、ルクルの話しぶりには大きな変化はなかった。
何も感じていないわけではないだろう。彼女自身の心が壊れぬように、麻痺してしまっているのだと、ガリューは思った。
「休むか?」
たとえ心が麻痺してしまっているとしても、辛かった過去を思い返すのは負担でない筈がない。
そう思ったが、気丈にもルクルはその首を横に振る。
「わかった。無理はするな」
再びルクルは話し出す。
痣ができてから、ルクルは自分がおかしくなったのではないかと思った。
山の獣もルクルに興味を示さず、ただ遠巻きに見られているだけだった。
自らの変化に気づきながらも、どうしようもないままあてどなく歩いたルクルは、元いた村から山一つ向こうの村へとたどり着いた。
村人たちはぼろぼろのルクルを助け、食べるものを与えた。
ルクルは村が盗賊に襲われたことを話した。村人たちは盗賊のことを教えてくれたルクルに感謝し、領主へ使いの者を出そうと話し合っていた。
その時だった。
村一番の年寄りだという老婆がルクルを見て、血相を変えて叫ぶ。
―――その娘は魔王の残滓を宿している。魔王の娘だ!
いきなりのことでルクルの理解が追いつく前に、老婆はルクルの服をまくり上げた。
そこには恐ろしげな黒い痣。呪いのように禍々しい痣を見た村人たちは、老婆に問いかけた。魔王の娘とは何なのだと。
―――先の戦争において、勇者さまが滅した魔の王。
―――その存在は消えど、その闇の力だけは世界すべてにばらまかれた。
―――稀に闇の力を宿す生き物が現れた。それこそ魔王の子ら。未だ消えぬ災い。
―――その娘を置いてはいかん!この村にも災いが降りかかろうぞ!
ルクルは村を追われた。
優しい何人かの村人は庇おうとしたが、戦争の頃からの生き証人である老婆の発言力は強く、ルクルを村に置くことは不可能だった。
それからは、おおむねガリューの予想した通りだった。
人攫いに攫われて、奴隷となった。
村の老婆のように詳しい者は多くはなかったが、気味の悪い痣を持つルクルを買う者は、ほとんど現れなかった。
やがて悪徳な商人に買われ、蔑まれながらも生きて、今。
森の中で、一人の戦士と出会ったのだ。
話し終えたルクルに再び水を飲ませる。
ガリューは考えていた。
ルクルの話にあった、老婆が話したという戦争。
勇者と魔王の、戦い。
魔王。戦士たちと共に戦った、あの魔王の右腕のことではないのか。
確証はないが、魔の王などと呼ばれるような存在がそうごろごろいるとも思えない。
(勇者か…神話に謳われる通りだな……我らスパルティアの犠牲は…無駄ではなかったか……)