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森の中を歩いていると、ふとガリューの鼻に馴染みのある匂いが入ってきた。
(血の匂い…獣ではないな、人か)
それは戦場で幾度も嗅いだ匂い。鉄臭い血の匂い。
誰かが獣か、山賊にでも襲われたのだろうか。
(今は情報がいるな)
焦らず一歩ずつ、匂いのする方へと歩いていく。
ガリューは激戦の直後であり万全ではないが、それでもそこらの獣ならば対処できるだろうと考えた。
匂いの正体はすぐに分かった。
少し歩いたところに、横転してボロボロになった馬車と、原形を留めていない人らしきものがあった。
ガリューは馬車の周囲を見渡して、気配を探る。
(木に爪痕がついているな。熊にでも襲われたのか)
周囲にそれらしき気配は感じなかったが、決して油断せずに槍を握る力を強めて、馬車に近づく。
商人だったのだろうか、馬車の付近には売り物だろう品々が壊れた状態で散乱している。
そして気付く。散乱した商品の中に倒れている、一人の少女がいた。
「この商人の娘か?いや、それにしては」
その少女はまるでぼろ雑巾のようなありさまだった。
纏っている服なのかただの布なのか分らぬほどのぼろ。髪も肌も薄汚れている。
体のあちこちに擦り傷のようなものが見受けられ、それが自然に出来たものであれどのような扱いを受けているかは一目瞭然だった。
「奴隷か」
髪に隠れて見えなかったが、少女の首には武骨な金属の輪がついていた。奴隷の首輪だ。
(それにしても…この少女だけ大きな傷がない。運よく見逃されたという事か?)
「生きているか?」
少女に近づいてその体を起こすと、やはりというか獣に襲われたような傷がほとんどない。
小さな傷は転んだりしてできたものだろう。
「…ぅ」
か細い声。少女の口から発せられたそれは、意味のある言葉ではなく唸るような声だったが、まだその命が尽きていないことを示していた。
襲われたようには見えないのに衰弱しているのは、おそらく日頃からひどい扱いを受けていたからだろう。
「むごいことだ」
ガリューは槍を地に刺し、右手で首輪を掴む。
「ふんッ!」
力を込めると、硬いはずの金属の首輪が、まるでバターを握りつぶしたかのようにぐにゃりと歪んだ。
「片手では力が入らんな」
更にもう一度。戦士として鍛えられた筋骨に物を言わせて、力任せに首輪を引きちぎった。
重い塊が首から外れたからだろうか、少女の寄せられていた眉根が少し穏やかになり、体から強張りが抜けた。
「よし」
ぱちぱちと燃えた木のはぜる音。
目を覚ました時、ルクルは自分が暖かいものに包まれていることに気づいた。
視界に入ったのは、時折火の粉を飛ばすたき火と、その傍らに座っている男性。
「起きたか」
低く芯に響く声。
目を向けると、男性がこちらを見ていた。
自分と同じで―――否、自分以上に―――その外見はひどく傷ついていたが、その声は穏やかで優しかった。
「食欲はあるか?肉は食いづらいだろう。いくつか食える果実を採ってある」
差し出された木の盆には、紫色の木の実が積まれていた。
それを見て、匂いを嗅いだ時、ルクルの意志とは無関係に腹の音が鳴る。
「…ぁ……」
「腹は減っているようだな。食え」
目の前の木の実に視線が行く。
今しがた摘まれたようにつやつやとしてとても美味しそうな木の実。
食べたい。手を出したい。しかしルクルの記憶は、軽率にそれをすることを止める。
今まで何度もあったこと。自分だけろくな食べ物を与えられず、食べられたのは残りかすのような残飯ばかり。
たまに普通のご飯を与えられたと思ったら、勝手に食べたと言われて罰を受ける。
食べたい。お腹が空いた。痛い。痛い。どうせまた―――
「言っておくが」
低い声が響く。その声には強さと、怒りのようなものが込められているように感じた。
そして、同じくらいの優しさも。
「お前を殴るような奴はもういない。食べたければ、食べていいんだ」
心臓を鷲掴みにされたようだった。
その瞳はまっすぎにこちらを射抜いている。飾り立てることなく、ルクルの心に刺さっている。
震える手を伸ばす。
積まれた木の実の、その一粒だけを指でつまむ。
恐る恐る口に運ぶと、その小さな木の実を咀嚼する。
「……………………おいしい」
もうひとつ、ゆっくりとつまむ。食べる。
もうひとつ、つまむ。食べる。
気が付けば、手が止まらなかった。
甘くて、すっぱくて、とてもおいしい。
こんなにおいしいものを食べたのはいつぶりだろうか。それとも生まれて初めてだったか。
ルクルは涙を流しながら頬一杯に木の実を詰め込んだ。
「…うっうっ……ひぐ…ふぐ……」
「慌てるな。すべて食べていい」
投げかけられる声はあくまでも優しく、傷つき疲れたルクルの心をほぐした。
結局ルクルは、盆の上に置かれていた木の実をすべて食べた。
「よく食べたな。えらいぞ」
大きな手のひらが頭を撫でる。
ごつごつして、とても暖かい手のひら。
ふと、まぶたが重くなる。
久しぶりにお腹いっぱい食べたから、また眠気に襲われているのだ。
うつらうつらと舟をこぎながら、ぼんやりとした視界のまま、目の前の人に問いかける。
「…おじちゃん……だれ……?」
「俺はガリュー。戦士だ」
幼子は再び眠った。
だが先ほどまでとは違い、その表情は穏やかなものだ。
できる限り多く採ってきたとはいえ、所詮木の実。普通であれば腹が膨れるほどではないだろう。
だがこの少女はそれで満足したかのように眠気に負け、今は穏やかな寝息を聞かせている。
食事事情がよくなかったのだろう。スパルティアではそうそう飢える民などいなかったが、僧の修行として断食を行う者もいるためガリューは満足に食事をとっていない者の対処も聞き及んでいた。
それゆえガリューは、少女に消化の良い木の実だけを食べさせた。獣の肉などは、胃の腑が弱っているときには吐いてしまうこともあるからだ。
「ゆっくりと休め。弱きものを守ることが、戦士の本懐だ」
戦いの果てにこの森で目覚め、未だ何もわからぬ隻腕の身。
それでもガリューは、己の芯を見失うことなく、戦士として在る。