序章 後悔するぞ
神と、星と、人間を裏切った青年は最後に一度だけ振り向いた。
「必ず、お前が殺した命を償わせるぞ! 〈フォーマルハウト〉が! 俺が! 星にかけて誓うッ!!」
それは人間にとって、最大級の決意を示す誓い。
それに青年は沈黙で答えた。もはや語るべき言葉はないと。
もう二人が同じ夜空を見上げることは、二度とない。
「お前、このパーティー抜けろ」
少しばかりばつが悪そうに、けれどもしっかりと目線は合わせて赤髪の青年がそう告げた。
刃を通しにくい生地の厚いベストに動きやすさ最優先のズボン。豪華さや華美とは無縁だが、機能性最優先のその恰好は一つの様式美であり、細身ながらも筋肉質、かつ高身長な青年によく似合っている。素の素材が悪くない。
告げられた側の黒髪の青年は一瞬驚いたように目を見開いたものの、すぐに眉根を寄せて不満を露わにする。
こちらは赤髪の青年とは対照的にゆったりとしたローブを纏っていた。白を基調に青で装飾されたそれは清廉さや神聖さを見る者に抱かせるが、それなりに着こんでいるのか多少白が濁っている。
「どうして、そんな、急に……」
よく通る赤髪の青年とは対照的に、少しくぐもったような声色。あまり人と喋り慣れていないのかもしれない。赤髪の青年の視線にも正面から向き合おうとせず、ふらふらと目線を動かしていた。中肉中背で大人しそうなその容姿は、こんな血気盛んな若者が集まる酒場より静かな部屋で読書しているほうがよく似合う。
実際彼は酒場が嫌いだった。それでも大事な話があるからと赤髪の青年は彼をここに呼びつけたのだ。
日も入り始めた夕刻。ここには一日の疲れを癒すために多くの人々が集まり、酒を酌み交わしていた。だが人の数こそ普段と変わらないにも関わらず、店内はいつもより静かだった。
「急じゃねぇよ。ミアとシャラとは結構前から相談してて、こうしたほうがいいんじゃないかってずっと話してた。んで、今朝の依頼をこの四人でこなす最後の依頼にしようって決めた」
名前が挙がったことで黒髪の青年がテーブルの左右へと順に視線を向けた。
黒髪の青年から見て左に座っているのがミア。深緑の髪を後頭部で一つ括りにした小柄な女性。格好は赤髪の青年の女性版といったところ。彼女に限らず、この酒場にいる多くの者が似たり寄ったりな服装である。目が合った黒髪の青年にコクリと頷いて見せる。
右に座っている鈍色の髪の短髪がシャラ。こちらも女性ではあるが、このテーブルを囲んでいる四人の中でももっとも筋骨隆々とした大柄な体躯をしている。その筋肉を惜しげもなく晒しているため他の者より軽装だが、色気を感じるにはいささか筋肉が邪魔をする。彼女はその浅黒い丸太のような腕を胸の前で組んで瞑想するかのように瞳を閉じていた。
「成り行きでパーティー組んだあたしたちだけどさ。ここまで周りから評価されるなんて正直びっくりよね。いまやメイシス王国で最高ランクの五ツ星パーティー! もうこの国であたしたちを知らない人なんていないんじゃないかしら」
ミアが慎ましい自身の胸に手を当て自慢げに語る。それも無理からぬことであろう。五ツ星とはこの国において最上級の名誉。そして憧れ。偶然や運だけでは辿り着けない実力の証明。この国で知らぬ者なしというのはあながち誇張ではない。
「なら、どうして……」
「だって、あんたいつも暇そうじゃない」
ぴくん、と黒髪の青年の眉が動く。図星なのか、それとも。
「ほら、あたしたちって全然怪我しないじゃない?だから神官のあんたはやることがなくて暇。なら、いてもいなくても同じでしょ」
「おいミア、ちょっとは言い方を考えろ」
赤髪の青年が窘めると、ミアはふて腐れたようにテーブルに置かれていたお通しの漬物に手を伸ばした。
神官。神に勤める者。黒髪の青年が身に纏っている白いローブはその役職を示す制服のようなものなのだ。
「でも、それは……」
黒髪の青年が何か言おうとしたが、口を開いただけでまた閉じてしまう。
何か言いたいことがあるのは明白。だが、その心根を青年は言葉にしない。それが赤髪の青年を失望させる。
「星にかけて。エリク、お前がここでちゃんと言い返してくれれば俺は考え直すつもりだった」
星にかけて。それはこの国で使われる慣用句だ。自身の守護星に誓ってその言葉が嘘偽りではないことを示す。
曰く、最初世界には何もない荒野が広がっていた。そこに空から十二柱の神々が舞い降りて、大地に命を与え、草木を生やした。神が荒野に放った命はやがて虫や獣となり世界に命を増やしていった。
しかし神々は頭を悩ませた。獣たちは本能のまま、互いに喰らい喰らわれて数を増やしていったがそこに調和や平穏はなかった。このままでは獣は全てを喰らい尽くし、やがて世界は元の荒野に戻ってしまうだろう。
それを危惧した神々は獣たちに『星』を与えた。一匹につき一つ、空にばら撒かれた『星』は獣たちの心を照らし、彼らの魂の成長の導となった。植物が太陽に向かって成長するように、獣の魂は『星』に向かって成長し、知性を得、理性を得、そして愛を得た。
そして一部の獣は人となり、互いに手を取り合って生きる術を得たのである。
神々は今も遥か空の果てから人々を見守っており、『星』は人々を人足らしめる導としてそこにある。これがこの国に伝わる創世神話であり、歴史であった。
黒髪の青年、エリクの様子に脱力した赤髪の青年はテーブルに頬杖をつく。
「お前はいつもそうだ。言いたい事があるのになんで言わないんだ。酒の席で本音を聞き出そうにも、誘ったところで来やしねぇ」
エリクは俯いて小さく舌打ちをした。あまりにも小さすぎて誰の耳にも届かないであろうと思われたそれは、黙していた一人の耳にだけ飛び込んだ。
「エリク」
ずっと黙っていたシャラがようやくその口を開いた。
「お前、某らのこと嫌いだろう」
ハッとしてエリクが顔を上げた。シャラは相変わらずの無表情でエリクを見ていたが、瞳は口よりも雄弁に彼女の思いを伝えている。
「ま、結局その一点に尽きるよな」
そう言って赤髪の青年も漬物に手を出した。葉野菜と塩だけで作られるそれは、この国では家庭でもよく作られる発酵食品である。
「すっぱ……。お前、他の酒場で店主に俺たちの陰口とかよく言ってるらしいな。いや、それはいいんだ。不平不満なんてないほうがおかしい。だけどさ、その一つでもどうして面と向かって言ってくれないんだ。それじゃ俺たちにもどうしようもないだろ」
言い返す余地のない正論にエリクが黙る。
否、何か思うところがないわけでもないようだが口にはしない。
「幸い、俺たちはお前がいなくても問題なさそうで、お前は五ツ星パーティーに所属していた神官だ。探せば次のパーティーなんていくらでも見つかる。嫌いなやつといつまでもパーティーを組む必要はない。そうだろ?」
「……………」
しばらく黙したままだったエリクは、やがてゆっくりと席を立った。赤髪の青年の言葉に納得したということだろうか。
誰も口を開かない。共に歩み、共に頂点へと登り詰めた者への労いの言葉もない。それほどまでに彼らの関係は劣悪だったのだ。こうなることは当然の結果と言えるのかもしれない。
だが、
「……僕がいなくなったこと、後悔するぞ。フォル」
押し殺したような酷く冷たいその声色に、一同が目を見開いた。あのずっと無表情だったシャラさえも。
驚きつつも、フォルと呼ばれた赤髪の青年は、
「お前がそうやってちゃんと本音を話してくれてたら、もっと早くに決着がついてたよ」
それが別れの言葉。
歩みさる青年の背中を一同は見送った。その背中が見えなくなってからようやくミアが口を開く。
「……あいつ、あんなことも言えるのね」
「いつも俺たちの前じゃなんも自分の意見言わねぇもんな」
「これでいい。これがお互いのためだ」
シャラがそう言ったことでようやくテーブルの上に蟠っていた陰鬱な空気が晴れた。一同が肺の中に溜まっていたその残り香を吐き出したところで、タイミングを見計らっていた酒場の店主が三つ分の酒が入った木製のジョッキを持ってくる。
「話は終わったかい。まったく、店の雰囲気が悪くなる」
「わりぃわりぃ。チップ弾むからさ」
しょうがないなと肩を竦めた後、禿げ頭の店主がトントンとフォルの肩を叩いた。
「ま、冒険者やってりゃいろいろあるさ。これからも期待してるぞ。五ツ星パーティー〈フォーマルハウト〉!」
その言葉を皮切りに、店の喧騒が見計らっていたように戻ってきた。
実際、他の客たちは皆声を抑えてこのテーブルでの会話に耳を澄ませていたのだ。
ただの一冒険者パーティーの解散話、ではない。この国に暮す者なら誰もが憧れる五ツ星パーティーの内部事情だ。同じ冒険者家業をしている者たちが集うこの酒場で気にならない者など一人もいない。
「――うし、暗い話はもう終わりだ!一仕事終えた所だし、今日はパーッとやろうぜ?」
フォルがジョッキを手にとった。他二人もそれに続く。
「そうね。これから報酬も三当分になって取り分増えるし!」
「今日は、ではなく今日も、だろう?」
「それじゃ、今回の依頼達成と〈フォーマルハウト〉のこれからに!」
「「「乾杯!」」」
それは幾度となく繰り返されてきた祝杯。
だが、この乾杯を彼が共にしたことは一度もなかったのだ。
だからこれはいずれ必ず訪れたであろう終わり。そして新たな始まり。
――長い長い、戦いの始まり。