第90話
「はぁ……」
半ば専用のベンチとなりつつある校舎裏のベンチへと訪れた俺は大きく息を吐きながら腰を下ろす。
すると途端に全身から力が抜ける感覚に苛まれた俺はベンチの背もたれに背中を預け、気力の抜け切った表情を浮かべながら空を見上げる。
「…………」
青い空をゆったりと漂う雲を眺めながら俺はこれまでのことを漠然と思い返す。
大精霊演武祭という一大イベントを優勝という形で終え、まるで英雄のような扱いを受けながら学院へと帰還した俺たちを待っていたのはユートレア学院の後援者である貴族たちによって行われる祝勝会を始めとした各種のイベントだった。
堅苦しいものは聖都で嫌という味わったというのに、学院に戻ってきても気疲れするパーティを連日繰り返す羽目になった。
「ああいうのは本当に慣れないな……」
入学当初に比べれば耐性は付いたと思うが、それでもあの煌びやかな空間は居心地が悪くて仕方なかった。
恐らく今後一生、あの場に慣れることは無い気がする。
「はぁぁ」
「ん?」
ボーっとしていると覇気のない声が耳に入り、視線を向けるとノロノロとした足取りでこちらに向かってくるリリーの姿があった。
「どうした、リリー」
「……疲れた」
「ハハハ、お互いに苦労するな」
隣に座るなり膝に倒れ込んでそう呟くリリーに苦笑を浮かべながらその小さな頭を撫でる。
リリーも今回は優勝の立役者の一人としてパーティに参加させられたり、学生達の質問攻めにあったりと俺と同様に周囲に振り回されていた。一年の頃に比べれば随分とマシになったとはいえ、元々が人見知りでコミュニケーションを取るのが得意ではないリリーにはなかなかに堪えただろう。
「もう無理、何もしない」
「心配しなくても面倒なイベントはもう無いよ。後はいつも通りの日常に戻るだけさ」
イベントの大半が片付いた以上、この熱狂も遠からず落ち着きを取り戻すだろう。
そうすれば後は今までと変わらない日常をまた繰り返すだけの筈だ。
———本当に?
「…………」
「ローク?」
本当にこのままいつも通りの日々に戻れるのだろうか。
『君には素質があるのに』
『邪霊と、闇と繋がった者はいずれこの世界から排斥される。確実に、間違いなく』
邪霊と契約した者達の言葉が脳内で反芻する。
彼らの発言、どうやら俺のことについて何かしら知っているのは確実だが、一体何を知っているのだろうか。
「……ローク」
簡易契約とはいえ、邪霊と契約できるこの身の上に加えて大精霊演武祭で力を貸してくれた誰かの声。
我が身のことながら不気味なことが多過ぎる。
「ローク」
それにユーマが最後に残した四凶復活の言葉。
念のため、ミーシャや先生たちに伝えはしたが俄かに信じがたい。邪霊との契約云々以前にあんな強固な封印を解くことなど彼らにできる訳が————。
「ロークッ!」
「ん? あ、ああ」
リリーに膝上から叫ばれ、思考の海から帰還した俺は慌てて視線を下す。
すると案の定と言うべきか、頰を膨らませて不満げに俺を見上げるリリーの姿があった。
「やっと反応した」
「すまんすまん、ちょっと考え事してたんだ」
「むぅ」
咄嗟に謝るもリリーの機嫌は治らず、尚も不満げな表情を浮かべながら俺を見つめ続ける。
参ったな、完全に拗ねてしまっている。
「俺が悪かったから」
「…………」
ポンポンと頭を軽く撫でながら再度、謝ってみるがリリーは返事をせず、ふくれっ面のまま黙り込んでいた。まずい、このままでは膝が壊死するまでずっと膝上で待機されそうだ。
「……何を悩んでるの?」
「えっ?」
この状況をどうやって打開しようかと考えていた俺はいきなりリリーにそう尋ねられ、困惑する。
見れば既に頰は元の大きさに戻っており、先程の不機嫌そうな表情とはどこへやらクリクリとした瞳をジッと向けてきていた。
「なんだよ、いきなり……」
「ここ最近、ずっと悩んでる」
「いや、悩んでるのはいつもの事だけど……」
振り返ってみるとユートレア学院に入ってから今日まで、寧ろ悩んでいない日の方が圧倒的に少ない気がする。
「…………」
今までよく病まずにこれたな、俺。
「なら、いつもより深刻」
「深刻……か」
自覚は無かったが、確かにそう言われると普段よりも思い悩んでいる気はしてきた。
「で、何を悩んでるの?」
「何をって言われてもな……」
尋ねてくるリリーに理由を説明しようとして口籠る。
一体どう説明すれば良いのか。そもそも悩んでいることが多く、言語化が難しかった。
「……まぁ、強いて言えば自分についてか」
「…………」
少し悩んだ末に俺がそう答えるとリリーに無言で両頬を引っ張られてしまう。
「なにをするりゅ」
「…………」
何やら回答がお気に召さなかったらしい。ジッとこちらを見つめるリリーは抗議と言わんばかりに俺の頰を弄り続ける。
「……ほら、もう満足したろ!」
「…………」
暫くされるがままになっていたが、いい加減煩しくなった俺はその細い手首を握ってリリーの動きを強制的に止めに入る。
リリーは特に抵抗することなく、頬を弄るのを止めたが代わりに身体を起こすとその顔を近付けてくる。
「え、なになに?」
普段からよく分からない行動が多いリリーだが、今日の彼女は普段にもまして理解できない行動が多い。
と、そんなことを思っている内に俺の額とリリーの額がコツンとぶつかり、彼女の瞳がジッと俺を見据える。
何だが変な緊張感を覚えながら身構えているとリリーがゆっくりと口を開いた。
「だいじょーぶ」
「………!」
予想外の言葉に驚く俺にリリーは微笑みながら続けて言う。
「ロークはローク。悩むことなんて無い」
「……リリー」
その言葉で今更ながらリリーが彼女なりの方法で俺を元気付けようとしていたことに気付く。
どうやらリリーに心配を掛けてしまったようだ。
「……そうだな、ありがとうな」
「ん」
感謝の言葉を述べながらわしゃわしゃと頭を撫でるとリリーはくすぐったそうな表情を浮かべながら笑う。
「……元気になった?」
「ああ、お陰でな」
リリーの問いに俺は頷く。
気付けば頭の中は先程よりも随分とクリアになっている。決して悩みが消えた訳では無いが、リリーと話していて気分は軽くなった。
「よし、お礼に飯を奢ってやろうッ!」
「……ッ!」
俺の言葉にリリーの目が輝き出し、俊敏な動きで膝上から降りて手を引っ張ってくる。
「言質は取った。早く行こう」
「分かったから慌てるな。ちゃんと奢るから」
さっきまで疲れがまるで見えないリリーの様子に思わず苦笑を漏らしながら俺は彼女に引っ張られるがままに従って後を追おうとしていると見知った顔が姿を現した。
「おや、二人とも。もしかしてデートにでも行くところだったかな?」
「そんなんじゃねぇよ、分かってるだろ」
揶揄うような口調でそう尋ねてきたガレスに俺は呆れ気味に返す。
「なぁ、リリー?」
「………」
「あれ?」
リリーに同意を求めるように声を掛けるが返って来たのは沈黙だった。
というか、俺の気のせいで無ければこの一瞬でリリーの機嫌が非常に悪化している。何故だ。
「本来なら君たちの痴話喧嘩を見届けた後に快く見送って上げたかったんだけどね。残念ながらデートは一旦、中止にしてくれ」
「どういうことだ?」
どこか険しげな表情を浮かべながら話すガレスに嫌な予感を覚えていると校舎の方を指差しながら言われる。
「ミーシャ様から緊急で呼び出しだ。すぐに生徒会室に向かってくれ」
******
「失礼します」
「お待ちしていました」
ガレスに言われて足早に生徒会室に足を運んだ俺を出迎えたのは部屋の主人であるミーシャとアルベルト先生だった。
「ミーシャ、それにアルベルト先生も」
「やぁ、待っていたよ」
ソファに腰掛けながら片手を上げて挨拶をしてくるアルベルト先生に頭を下げながら「そちらへ」と誘導されるがままに俺もソファへと腰掛ける。
「…………」
何気なく生徒会室をぐるりと見回すとトロフィーや賞状が飾ってある棚の一角に今回の大精霊演武祭で優勝した時に手に入れたトロフィーと賞状が新しく飾られていた。
そのことに僅かに口元を緩めた俺は対面に腰掛けるミーシャの真剣な表情を見てすぐに意識を切り替える。
「それで俺を呼んだ理由は?」
「単刀直入に言いましょう。四凶の一体、闇冥龍アペプスの封印が解かれました」
「…………は?」
ミーシャの言葉に俺の喉から声にならない言葉が空気となって力なく漏れた。
「……い、今、なんて言って」
気付けば俺はミーシャにそう聞き返していた。
ミーシャがなんて言ったのか、理解できなかった。
……いや、違う。彼女が発した言葉を理解することを俺の頭が拒んだのだ。
「受け入れ難いでしょうが、事実です。まだ公にこそなっていませんが、ドラゴニア王国の辺境、四凶封印の地である龍湖洞が何者かの襲撃を受けて封印が解かれたという連絡が父上からありました」
そんな俺にミーシャはどこか申し訳なさそうな表情を浮かべながら封印地が何者かの襲撃を受けた連絡を教えてくれる。
「……その襲撃者って」
「恐らく貴方の予想した通りの相手でしょうね」
ミーシャの言葉を聞いて背筋に冷たいものが走る。
俺の脳裏に再びユーマの言葉が浮かび上がり、いい知れぬ恐怖と不安な襲われる。
「まさか、そんな……」
「ロークから話を聞いた時は正直、冗談だと思っていたんだけどね。流石に笑えなくなってきたね」
困った様子のアルベルト先生はそう呟くと静かに息を吐いた。
「…………」
先生の言う通りだった。
俺もユーマの言葉に警戒心こそ抱いていたが、四凶の封印を解くことなんて半ば無理だと思い込んでいた。
それそこ、こんなすぐに封印が解かれることになるなんて……。
「……ッ! アジ・ダハーカの封印はッ!?」
この短期間での襲撃。
嫌な想像が次々に湧き上がってくる俺は気付けば俺はソファから立ち上がりながら叫んでいた。
「今のところ、そちらは大丈夫です。前の襲撃から王国精霊師団の精鋭を派遣してビブリア廃神殿一帯の警備を強化していますが、現状襲撃の様子は無いということです」
「そうか……」
「羅刹鬼士の方の封印他も既に警備を強化しているとの話ですので、すぐに破られることは無いでしょう」
「加えて言えば、アーサーの封印から解かれたアペプスも完全な状態とは言い難い筈だ。少なくとも今すぐ何かが起こるということはまず無い」
ミーシャとアルベルト先生の言葉に安堵すると共に力が抜けた俺は再びソファに身体を預ける。どうやら想像しうる最悪の状況はまだ来ていないようだ。
「……ミーシャ、何か俺にできることはあるか?」
とはいえ状況は緊迫している。
これ以上の事態の悪化を防ぐ為にも俺は何か手伝おうとミーシャに尋ねるが、彼女は首を横に振る。
「事態には既に王国精霊師団が対処に当たっています。気持ちは有難いですが、今の貴方にできることはありません」
「……なら、どうして俺を?」
「情報を頂いた貴方には報告義務があると思ったからです。とはいえ、混乱を避ける為にまだこの情報は公にはしていません。貴方も無闇に情報を流すことは止めて下さい」
四凶の復活。
確かに下手に情報を流しても恐怖と混乱を生むだけだろう。
「……分かった。けど、これからどうするんだ?」
「とりあえず私たち教師陣はこの学院と学院都市の警備強化に務める。君たち学生は普段通りの学院生活を送りなさい」
「ですが……」
—————こんな状況で普段通りに学院生活をするなんて……。
そんなこちらの考えを読み取ったかのようにアルベルト先生は微笑み浮かべがら俺の頭を撫でる。
「大丈夫、前回の時のようには決してさせない。だから危ないことは大人に任せて君たちは今しかない時間を謳歌しなさい」
「先生……」
「アレアス君、それにミーシャ様も不安は多いだろうが、まずは学生の本分を果たしなさい」
アルベルト先生は最後にそう優しく告げながら締め括るのだった。