序章
ピーーーーー……
留守番電話、一件。
「佐藤さんのお電話でしょうか。わんにゃん動物病院です。ハナコちゃんの容体が急変しました。至急ご連絡ください」
この用件を削除する場合は……
蛍の光がフロアに流れ始めた。定時の合図だ。
佐藤旭はパソコンを閉じた。帰りますというアピールである。
今年で27歳。
仕事運に恵まれず、彼氏をつくる暇もなく転職を繰り返し、今の職場は入社して一年目。まだ率先して一番に帰るには少し勇気がいるが、今日はどうしても今帰らなければ間に合わない。
「佐藤さん、ちょっと」
「はい、課長」
嫌な予感がした。課長の「ちょっと」はちょっとでないことが多いからだ。
「先日の催事が大変好評でね。次の企画も君に頼みたいと、先方からの依頼があった。また企画案出してくれるか。とりあえず資料はメールで送ったから、明日までに3案。よろしく」
(明日までに…)
「課長〜先にお店行ってますよ〜!あ、佐藤さんお先でーす」
今から飲みにでも行くのか、同僚の何人かは課長に声を掛け帰っていく。
「じゃあ佐藤さん、私もこの後用事があるから。失礼するよ」
引き受けたら、今日は帰れない。
いつもであればこれも仕事と二つ返事で引き受けたが、今日だけはどうしても帰らなければならないのだ。
「待ってください、課長!私も今日は所用がありまして、催事の企画案の件は、お時間いただけないでしょうか」
課長は予想外の「はい」以外の返事に一瞬たじろいだが、すぐに落ち着いた様子で「はぁ〜あぁ」と声に出るくらいのため息をついた。
「婚活か?焦る気持ちも分かるが、この企画は出世のチャンスだぞ!頑張りなさい」
まさに時代遅れのモラハラ、パワハラの応酬だが、得てして本人は全く悪気がないのだから救われない。
(ペットの猫が危篤なんです。病院へ行かせてください)
そう言ったところで、課長に気持ちが伝わるとも思えなかった。
「承知しました………」
旭はデスクに戻り、再びパソコンを開けた。
やっと会社を出られたのは、時計の針が23時を回ったころだった。
会社の最寄り駅から電車で20分、徒歩10分のわんにゃん動物病院をめざしオフィス街を走った。
仕事用のパンプスで速く走れないことがもどかしい。
留守番電話は2件あったが、確認していない。急いでいるのもあるが、怖くて聞けなかったのだ。
ハナコは14歳の三毛猫である。
里親で迎え入れてから、これまで大きな病気をしたことがない健康優良児だ。
そんなハナコがぐったりと横たわったまま起きてこなかったのが3日前の日曜日。心配になり受診、そのまま入院することになった。
人間でいうと約70歳。今、寿命と言われればそうなのかもしれない。
しかし、14年の歳月をともに過ごした家族の死を、ただの寿命と言われて納得できる飼い主が、どれほどいるというのか。
(ハナコ。もうすぐ行くから、頑張って…!)
一瞬でもいい。最後になったとしても、生きてる姿でもう一度会いたい。
(入院なんて初めてで怖かっただろうな…
今日は一日、苦しかったかな…
ハナコ、もうすぐ会えるからね)
動物病院まであと5分ほどの距離にさしかかった。
歩道橋を一つ飛ばしで駆け降りる。
正面からは中年のサラリーマンが階段を上がってきていた。男はひどく酔った様子で、足元がふらついている。
旭はすれ違いざまに男を大きく避けたが、同時に男は足を踏み外し身体をのけ反った。
「危ない…!!」
旭は咄嗟に男の腕をひいた。