ふたりのなくしもの
「話って?」
場所を移した先は、裏庭のいつもの木の下。彼とわたしと彼女は木漏れ日を浴びながら芝生に腰を下ろしていた。わたしは彼の隣、彼女の箱は今日もわたしの膝の上に収まっている。
「ああ、あの後もずっと図書室で調べ物をしてたんだけど」
知ってる。彼はメガネを外して目蓋をこすった。改めて、血行不良で青くなった目の下が露わになる。要するにクマさんだ。この様子から察するに、わたしが彼女を連れ歩いている間、この人は相当な無茶をしていたらしい。彼はこちらに向き直ったかと思うと、出し抜けにわたしに向かってこうべを垂れた。
「やっぱりあれ以上のものは見つけられなかった。ごめんな」
「……」
失望しなかったと言えば嘘になる。でも、こんなに手を尽くしてくれた彼を、わたしは先日と同じようになじることができるだろうか?
無論、答えは否である。
「そんな。わたしだって、彼女を連れて遊んでいたようなものだし……成果なんてないし……あなたを悪く言うなんて、できないよ」
わたしは彼に顔を上げるように言った。彼の顔は疲れと悲壮感に満ちていて、青い縁のメガネは斜めにずれてしまっている。よく見ればいつもピシッとしているはずのシャツもよれているし、肌荒れだってしている。わたしは改めて気づかされた――この人に正面から向き合って初めて見えてくることばかりだということに。一緒に暮らしているはずなのに、毎日会っているはずなのに、会話だってしていたのに。わたしは彼についてのあらゆることを、今の今まで見えないままの状態で過ごしていたのだ。
「いや、君が気に病むことはない。俺が勝手にやったことだ。勝手にがんばって、やりすぎて、歯止めが利かずに自滅したんだ」
わたしは何となく苦手だったり、取っつきにくかったりという理由だけで、彼に関するたくさんのことから目を逸らして見ないふりをしていたんじゃないだろうか。そう思わせるほどに、今の彼はこれまでの印象とは異なって見えた。何を考えているのか判らない、無口、ちょっと怖い、縁の細いメガネが似合わない。そんな理由で避けるなんて、わたしは何を考えていたのだろう?
だってほら、今のわたしは、目の前の彼と話せているじゃないか。苦手だった同居人なんて、今はどこにもいない。全部わたしの思いこみだったのではないだろうか。わたしは、わがままだった自分が恥ずかしい。
わたしこそ、この人に謝らなければいけない。わたしは自分の頭を低くして、今日のことも昨日のことも今までのことも、全部全部彼に。
「そんなことない! わたしこそごめんなさい!」
わたしは彼に言うべきことをいろいろと考えた。しかし、結局は『謝らなくちゃ』という単純な気持ちが、わたしの口を動かした。
「ひとりにしてごめんなさい。ひとりでがんばらせてごめんなさい。もうこんな思いはさせないから、明日から一緒にがんばろうよ」
わたしが何を謝りたかったのか。答えはわたしの心が知っていた。それは彼をひとりで闘わせたこと。変な意地を張って、彼と力を合わせようとしなかったこと。彼の手を取らなかったこと。どうして一緒にがんばれなかったのだろう? わたしと彼の目指すものは同じだったのに。名前も知らない彼を、支えてあげるべきだったのに。
「ねえ、あなたの本当の名前は、何て言うの?」
わたしは思い出したように尋ねた。美ヶ原さんの言った名前という単語が、先程から魚の小骨のように喉に引っかかって取れないのだ。
「判らない。君の名前は、何て言うんだ」
それは、彼も同じことだったらしい。太郎くんでも零号さんでもメガネの人でもない何か、あるいは花子ちゃんでも一号さんでも女子高生でもない何か。わたしたちは、そっくり同じものを失っていた。
「覚えてないの。でも――」
わたしたちが失ったのは、自分の名前。自分の誇るべき本当の名前。大切な大切な、その言葉、文字の列。
わたしは首を横に振りながら、自らの膝に視線を落とした。もし、彼の見つけてくれた手がかりが本当なら、わたしたちの捜し物はここにある。
「彼女がそれを知っている気がする」
わたしは彼女――虹色の頭骨を掲げた。赤、青、黄色、緑、紫、いろいろ。でも無彩色はない。いつ見ても派手で鮮やかな色合いが、わたしたちの視線を奪う。物言わぬ彼女に、わたしは改めて問いかけた。
「ねえ、あなたは誰なの?」
彼女はやはり何も言わなかった。その代わり、動揺する間も与えられずにわたしの視界は歪み、解けて溶けて――彼も彼女も、自分の手も、中庭の風景も――いつしか何も、見えなくなった。