美しい人
あくる日。メガネの人は目の下に立派なクマをぶら下げて再度図書館に籠もり、わたしは彼女を連れて洋館の中を冒険した。わたしはアリスの仕事を観察したり、構ってほしそうな様子の美ヶ原さんとじゃんけんで遊んだりした。彼女と楼珠さんとお風呂に入ってみた。収穫はなかった。
またあくる日。メガネの人は昼まで起きなかった。のち図書館。ぐったりしていた彼いわく、そろそろめぼしい本はチェックし尽くした、とのこと。わたしは楼珠さんと彼女とお茶。途中でちょっと元気のない美ヶ原さんが乱入してきたから、ふたりで裏庭に出てラジオ体操をした。夕刻、図書室に様子を見に行くも、集中している彼に話しかけることはできなかった。虹色の頭骨は今日も赤で青で黄色でその他いろいろだったが、収穫はなかった。
さらにあくる日。メガネの人は食事も摂らず朝から図書室。ちょっと心配。一方のわたしはと言うと、昼食後に彼女を迎えにいこうとしていたところを美ヶ原さんに呼び止められた。
「花子ちゃん。この後、お茶でもどうかな。もちろん、骨の彼女も一緒に」
わたしは彼女を迎えに行ってから、美ヶ原さんと共にダイニングスペースに戻った。
「美ヶ原さん、急にどうしたの?」
アリスが用意してくれたアールグレイの香りをかぎつつ、わたしは隣の椅子に陣取った美ヶ原さんを見遣る。彼は微かに笑うと、いつもよりずっと落ち着いた低い声で話し出した。
「花子ちゃん、彼女を見せてくれないか」
軽く組まれた長い脚、甘くやさしい声、柔らかい視線にどぎまぎしながら、わたしは彼女を箱から出してあげる。最初のように手が震えることはなくなったが、それでも人である彼女の尊厳を守ろうと思う気持ちゆえに、この取り出しの一瞬が最も緊張する瞬間である。これだけは、最初の日から変わりない。わたしはおそるおそる彼女を美ヶ原さんの前に差し出し、じっと相手の反応を待つ。美ヶ原さんは彼女に触れようと手を伸ばしたが――触れることなく、すぐに指先を引っ込めてしまった。
「はは、やっぱり不気味だ。それに、彼女はとても美しい」
「え?」
一瞬、彼の言葉の意味が解らなかった。真っ白になったわたしの頭を、美ヶ原さんの困ったような笑顔が埋めていった。
「彼女はここに在るだけで君と僕の心を動かせるんだよ。たとえそれが不吉や不気味さを連想させるような、マイナスの意味合いであったとしてもね。ほら、世界的に評価されているような名画でも、どうしても受け付けられない、でも目が釘付けに……ってことがあるだろう。ああいうのと一緒だよ。見る人がその名画の『不気味さ』に囚われた瞬間、不気味さはその絵の『美しさ』に転じるんだ」
彼は愛おしそうに虹色の頭骨を見つめると、無理を言ってごめんと悲しく笑う。最近少し様子がおかしいとは思っていたけれど、いつも底抜けに明るいはずのこの人は、いったいどうしてしまったというのだろう?
「花子ちゃん、あのね、僕は美しい」
「は、はあ」
この発言だけはあまりにも普段の彼すぎて、ちょっと拍子抜けしてしまう。彼はすっと目を閉じて、ため息交じりに、ぼやく。
「でも、ただそれだけなんだよ、花子ちゃん。見た目が他人より整っていて、目立つだけ。奇矯なことで気を引かなければ、誰も僕の相手なんてしてくれないさ。今だって、もったいぶった話し方で君をつなぎ止めているに過ぎない」
再び、青い目が開かれた。
美ヶ原さんは彼女を箱に戻すように促すと、また悲しそうに笑った。相変わらず言動はうっとうしいが、言葉の端々からシリアスな何かが伝わってくる。わたしはテーブルの上のお茶のことも忘れて、彼の話に聞き入ることしかできなかった。
「僕には骨の彼女と出会ってからの君が、とても輝いて見えるよ。彼女を追いかけて、行動を共にして、彼女のことで頭がいっぱいになっている君のことが。僕は存在だけで君を惹きつける彼女がうらやましい。いや、妬ましいんだ」
美ヶ原さんはわたしの頭をぽんぽんと撫でた。温かく、大きな手。わたしは彼の手に、生身の人間の血の巡りを感じた――それを意識すると不思議と照れくさくなって、目の前のお兄さんは何だかんだとかっこよくて、わたしはただ、耳を真っ赤にしてうつむくことしかできなくなった。
「もっと言えば、僕は君にさえも妬いている。君はとても平凡だけれど、僕よりずっと美しい。今や、この洋館の誰もが君のことを見守っているんだよ。気づいていないかもしれないけれど、骨の彼女を得てからの君は、ただ座っているだけで僕たちの心を惹きつけてやまない存在に変わったんだ。僕が欲しいものは上辺だけの美しさじゃない。そういう、もっと深いところに根差した――」
「あ、あの、美ヶ原――さん?」
「――ごめんね、花子ちゃん。僕の屈折した自分語りに君を付き合わせて。骨の彼女を利用して。僕は彼女と君に、ただただ嫉妬しているだけだ。以前の、本当に平凡だったころの可愛らしい君を、主人や住人のみんなを、僕に向くはずだった視線を根こそぎ盗られてしまった気がしてね。ばかな話だろう」
美ヶ原さんは手を止め、わたしの顔を前に向かせた。彼の透き通った瞳が、わたしの意識を縛り付ける。息苦しいけれど心地良くて、ずっと見られていたくて――もう、お茶なんて心底どうでもよくなった。ごめんね、アリス。廊下の方から誰かの足音もするけど、別にいいや。ごめんね、廊下の誰かさん。
「あ、あの」
「おい、女子高生――」
誰かの声がした。この声、誰だっけ。ちょっとぼんやりする。こんなの初めてで、このままどこかに連れて行かれてしまいそう。わたしどうなるのかな。お兄さんの手が、わたしの頬に触れて――そのままわたしは、勢いよく左右に引っ張られた。
「いっ」
「ははは、花子ちゃんのほっぺた、よく伸びるんだね。スライムみたい」
痛みによって、わたしの意識が一気に現実へと引き戻される。霧が晴れた世界で見る美ヶ原さんは、やっぱりいつもの軽くてうっとうしい美ヶ原さんだった。彼はちゃらちゃらと笑い、少しだけ影を引きずりながら言った。
「ただ僕は、誰でもない僕になりたい。美ヶ原颯弖という、むやみやたらに立派な名前に恥じない僕になりたいのさ」
美ヶ原さんは、満面の笑みを浮かべてわたしから手を離した。わたしは恥ずかしいやら痛いやらで下を向くのだが、彼の放った言葉が頭に妙に引っかかっていた。
「名前――?」
わたしと誰かが、同時につぶやいた。
「えっ?」
改めて『誰か』の存在に驚き振り返ると、ダイニングの入り口にはメガネの彼が棒立ちで佇んでいた。もしかして、美ヶ原さんとのやり取りを聞かれたり見られたりしていたのだろうか。
「やあ、頑張り屋の君。後は頼んだよ」
美ヶ原さんはすっと立ち上がり、軽い足取りで歩き出した。そのままメガネの人の肩をぽんと叩き、ただのひとことだけを残してどこかに去っていったのだった。
「この世界一素敵な女の子を、支えてやってね」
わたしはしばし呆然とした。しばらくしてからはっと気がついて、慌ててメガネの人の方を見る。視線の先で彼は腕を組み顎を撫でながら、深刻そうな顔で考え込んでいた。
「美ヶ原さん……? いったい何だって言うんだ……」
彼はどうやら、美ヶ原さんの思わせぶりな言葉を咀嚼しようとしているらしい。つまり、わたしが照れたり頭を撫でられたり照れたりしていた現場は、
「しかし、顔がいいと人生変わりそうだよな。少しだけおもしろそうではある」
――完全に見られた。わたしはいたずらっぽく笑っているこの人を相手にひとしきり暴れた後、話があるという彼と共に裏庭に繰り出すことにした。先程のことを思うとあまりにも恥ずかしくて、わたしはもうあのダイニングにはいられなかった、というのもある。