黒の日記帳
アリスが改めて用意してくれた青いワンピースを身につけ、わたしは楼珠さんと一緒にダイニングスペースに戻った。既に食器類や汚れたテーブルロスは片づけられており、大きなテーブルの上のみならず、空間そのものが閑散として見えた。そこには早くも夕飯の仕込みをするアリスと、ひとり残ってお茶を飲んでいるメガネの彼がいるだけだった。彼の姿を認めるなり、楼珠さんはにこりと笑って、
「太郎くん」
「はい?」
「後はお願いね」
こう言い残して自室へと戻っていった。今さらだが、太郎くんというのは、この人の洋館での呼び名だ。わたしと同様、やはり彼の本名も判らないらしい。
「お願いって、いったい何を……?」
彼は唐突な頼まれごとに顔をしかめた。しかし、直後にその表情をわずかに緩めて、わたしにテーブルに着くよう促した。わたしは食事のときと同じく、彼の向かいに座る。彼の射抜くような目つきに怯えつつ、話を聞くことにした。めぐりちゃんとはまた違うタイプでこそあるけれど、彼もまた強い目の持ち主なのだ。
「あなたはずっと、ここにいたの?」
彼は首を横に振る。
「――さっきまで、図書室で調べ物をしていた。その、『彼女』について何か判らないかと思って」
彼は、ためらい気味に頭骨を彼女と呼んだ。その言葉を発する彼の顔はまったく納得していないし、顔はまだちょっと険しいままだし、自分を取り巻くおかしさに辟易しつつも、現状に相対するために無理をしている――そんな感じが全身から溢れている。わたしはそんな彼の様子に少しおかしさを感じながら、敢えて何かを指摘することはやめにした。どうしてか、彼にはそのままでいてほしくなったから。
「それでだ、簡単に言うと、あれ――骨の彼女について触れている本が一冊見つかった。ここの家主の、古い日記だ」
「家主? それってめぐりちゃん?」
「人の話は最後まで聞いてくれ、女子高生。おそらく今の家主よりもずっと前の、男の日記だよ。あの子のものじゃない。それで、ここからが本題だが」
彼はそこで言葉を区切ると、大仰に一呼吸を挟んだ。
そして、わたしとの間に一冊の古いノート……その『昔の家主』の日記帳を安置した。わたしが読みやすいように、こちらに向けて。やや擦り切れてしまったその表紙には、流れるような筆致で『Noir』と書かれている。
「どうやら彼女は、随分と昔からこの屋敷に存在しているらしい。そして――俺にはいまいち理解できないんだが、あれと真に向き合うことによって我々は大切なことを教えてもらえるらしい。その『大切なこと』が、家主の言う幻想の文字列とやらを指すんじゃないのか?」
彼はそこまでを一息で言い切ると、肩の荷が下りたのか、ふう、と息を漏らした。しかし一方で、わたしは彼の言ったことをにわかに呑み込めなかった。それどころか、説明のあまりのざっくり加減に耐えかねて、つい文句が口をついて飛び出してきたのだ。
「大切なことって、また随分曖昧だよね……」
わたしは、彼を傷つけたいのだろうか。だとしたら、この言葉選びは大正解だったようだ。
彼は痛みをこらえるように眉間にしわを寄せた後、不自然なまでに平静を保ったままに言葉をつないだ。怒ればいいのに。人にそんなこと言うものじゃないって。この人が決して怒れないわけじゃないこと、わたしは知っているんだ。
知っているって、そんなこと、どこで知ったの?
「――そんな顔をするなよ。俺だって、よく解らないんだから。この後ももう少し、図書室を当たってみるけどさ」
「…………うん」
そこで、ぴたりと会話は途切れた。ひとまずわたしは、主人や虹色の頭骨と比べれば比較的どうでもいい彼のことをその場に置いて部屋に戻ることにした。虹色の頭骨を、ひとりぼっちで気の毒な彼女を迎えに行くために。彼本人は図書室に行くと言っているし、わたしよりよほど大人なんだし、こうしたって平気なはずだ。
――そう、思いたかった。いつの間にか、そう強く思うようにしていた。念じるように、祈るように。でも、わたしがそうしたい理由をわたしは知らない。
めぐりちゃん。どうやらわたしは、わたしの知らない感情に首を絞められているみたい。そういえば、彼の差し出した日記帳、きちんと見られなかったな。
わたしは部屋から木箱を持ち出し、気分転換も兼ねて裏庭に出ることにした。天気は快晴、今日は風が心地良い。芝生の敷かれた広い庭園の真ん中には、一本の大きな木があった。名前の判らないこの木の下が、わたしは好きだった。なんだか、自分と似ているような気がしたから。
木箱を傍らに、わたしは木の下に腰を下ろす。目線の先には敷地の終わりを表す洒落た塀と、その向こうに生い茂る森。これは、街とは反対側の方向だ。この森がどこまで広がっているのかを、わたしは知らない。
「大切なこと、か」
わたしにはそれが何のことやらさっぱり判らない。めぐりちゃんは特に期限を切るようなことはしなかったけれど、きっといつまでも待ってはくれないのだろうという確信めいた予感がある。先のことを思うと胸が詰まるなあ――ともかく、今のヒントはメガネの人の話だけなのだから、わたしはそれをあてにするしかない。頭骨と向き合うという言葉から連想できることといえば、この木箱から出して物理的に向き合うことにほかならなかった。
扉を開く手が震えた。曲がりなりにも、それは人だから。唾を呑んで一息に扉を開けると、そこには先刻と同じように鎮座する色鮮やかで人骨な彼女の姿があった。おそるおそるわたしは彼女を手に取って、木漏れ日の下に色彩を晒す。赤、青、黄色、緑に紫に、いろいろ。とても人とは思えない彩りの彼女はとても美しい。その存在を誰にでも見える形にしてしまう行為は、なぜかとても背徳的なものに思えた。
「あなたは、何なの?」
問いかけるも、彼女は応えてくれない。そんな骨にとって当たり前の反応が、わたしにはとても悲しく思える。次に、彼女の身体をすみずみまで観察する。文字が刻み込まれているならきっと痕跡が見られるはずだ。しかし、それも無駄足。そもそも簡単に見つかるなら、あのめぐりちゃんがわたしたちに頼むはずないじゃないか。
「お願い、答えてよ」
その後も、光にかざしたり木の根本に置いてみたり、それらしきことを一遍とおり試した。けれど全部無駄だった。彼女がただの虹色をした頭骨だということ以外は、わたしには判らなかった。
「はあ……やっぱり無理だよ、めぐりちゃん……」
わたしは彼女を膝に抱えたまま、洋館の最上階――主の部屋がありそうなところを睨みつけた。が、そもそも部屋の場所を正確に把握できていないのだから、そんな行動はただ滑稽でしかない。わたしは頭の左後ろに住む冷静な自分に心折られた。まるで敗走するようにそそくさと頭骨を仕舞い、傍らに木箱を置くと、再び膝を抱えて頭を埋めた。そうしている間、何度も美ヶ原さんの声が頭上を飛び交っていったが、徹底的に無視を決め込ませてもらった。
日が落ち始めるまでそうしてから、わたしは彼女を部屋に戻していつもどおりの夜を過ごした。