主の呼び出し
わたし…女子高生。花子。一号。あなた。
彼…メガネの人。太郎。零号。あなた。
楼珠…朝食係。風呂好き。日によって年齢が変わる不思議な女性。
美ヶ原颯弖…庭園係。自己と美について考えるうっとうしい美形。
アリス…メイド。存在が分裂気味。
天ヶ瀬めぐり…洋館の主人。銀色の髪をした女の子。
わたしには名前がありません。神様、そんなわたしは誰なんでしょうか?
*
今朝はいつもより少しだけ早く目が覚めた。わたしは最低限の身支度を整えると、空っぽのおなかを携えて階下のダイニングスペースへと降りていった。階段を下っていくにしたがって、段々と朝食のにおいが強くなっていく。同居人の楼珠さんの作る、今まで食べた中で最高においしいお味噌汁。それはわたしにとって、慣れない洋館の生活での楽しみのひとつだ。
わたしはしばらく前から、この古びた洋館での生活を余儀なくされている。これは本当に不思議な話であるし、こんなこと誰からも信じてもらえないかもしれないけれど。
わたしはある朝、この洋館のベッドの上で目を覚ました。いつの間にか用意されていた、決して狭くはない心地のいい部屋の、柔らかいベッドの上で。
あの朝、目覚めたばかりで寝ぼけ眼のわたしを、この洋館の主人が冷たい視線で見下ろしていたのだ。後から聞いたところによれば、それは主人なりの歓待のポーズだったらしい。そんなことがあって以来、ろくな説明もないまま、わたしはここの主人の『持ち物』になった。ここにはわたし以外にも同じような境遇の人が何人もいて、お互いに得意なことを活かして共同生活を送っている。たとえばわたしは探し物が得意で、住人――ほかの持ち物たちや主人のお使いを頼まれては、そのたびに森を抜けた先にある街の方まで出かけている。そのほかにも朝食作りが得意な住人や、庭仕事や生け花が得意な住人、あとは本の管理が得意な住人がいる。おまけに家事全般が得意なすごいメイドさんがいるけれど、彼女が主人の持ち物の範疇に入るかは微妙なところだ。彼女だけは、わたしたちとは少し違う空気をまとっているように見えている。理由までは、判らないけれど。
わたしは階段を降りきって、その先に伸びる廊下の右手側にある三つ目のドアを目指して歩いた。ドアの先は、この洋館のダイニングキッチンだ。見れば重々しい木の扉はすっかり開け放たれており、足元をがっちりとしたゴム製のストッパーで固定されている。こうなっているのは、朝食係の楼珠さんが食事の支度をしているしるしだ。一層はっきりと食欲に訴えかけてくるお味噌汁のにおいに心を躍らせながら、わたしはダイニングに飛び込んだ。そして、そのままの勢いで奥の立派なキッチンを覗き込んでみる。そこではわたしの期待通り、ひとりの美しい女性があくせくと働いていた。
「おはよう、花子ちゃん」
「おはよう、楼珠さん」
彼女――朝食係の楼珠さんは、わたしににこりと笑いかけた。彼女が口にした『花子ちゃん』というのは、わたしのあだ名のようなものであって本名ではない。それはあくまで、楼珠さんや一部の同居人たちが勝手に呼んでいる名前にすぎなかった。しかも、そのような扱いの住人はわたしひとりだけではないのだ。
楼珠さんは目尻にうっすらと笑いじわを作りながら、炊事をする手を止めてにこりと微笑んだ。彼女はすらりと背が高くて、とても美しい人だった。おまけに心根もやさしくて、今ではすっかりわたしの憧れの人になっている。ただ、彼女に関してはひとつだけ気がかりがあった。初めて会ったときはどう見てもおばあさんだったはずの楼珠さんが、何故か日に日に若返っているということだ。今ではすっかり、どう高く見積もっても三十半ばくらいにしか見えなくなっている。一方で、見た目年齢が少し上がっているような日もあって、なんだかよく解らない。でも、そんなことを考えても仕方がないし、仮にも他人の容姿や年齢に関することなのだから、いくら不思議とはいえ詮索するのは失礼にあたる気がする。そんな思いゆえにわたしは、いつのころからかそのことを考えなくなっていた。多少は引っ掛かりを覚えていたはずなのに、これまた不思議だ。
わたしはダイニングの定位置に身体を据えながら、仕事に戻った楼珠さんとの会話を続ける。彼女の背中には、三角巾から飛び出た、赤みのあるつややかなポニーテールが垂れ下がっている。
「花子ちゃん、今日は早いのねえ」
「なんか、すっかり目が覚めちゃって」
そう、と楼珠さんは明るく笑った。
「まあ、そういう日もあるわね。すぐに用意するから、少しだけ待っていてね」
「はあい」
ほどなくして、彼女が用意してくれた朝食が目の前に並べられる。白米、お漬物、そして洋館自慢のお味噌汁。洋館のわりには内容が和風だが、シンプルでどこか懐かしさを感じさせるそれらのメニューを、わたしは『いただきます』の号令と共に口に放り込んでいく。
「おかわり!」
「はいはい」
あっという間にお茶碗をあけてしまったわたしを、半ば呆れたように笑って見守る楼珠さん。わたしが二杯目をきれいに平らげたころ、ドタバタとダイニングに駆け込んでくる人影があった。
「おはようございます、一号さん! 朝からあれですが、お嬢さまがお呼びですよ」
長いスカートを翻してあわただしい様子で現れたのは、この洋館のメイドを務めているアリスという女の子だ。彼女はおそらくわたしと歳の近い、二十歳にも満たない若い使用人……だと思う。小柄な体格もあり、楼珠さんをはじめとする年長の同居人たちからはとても可愛がられている。そんなアリスは、少々ワーカホリック的なところがある変わり者(あるいは天性とでも言うべきか)のメイドさんだ。アリスといえば、かつて楼珠さんに朝食の仕事を取られたときはしばらくの間とても不機嫌だったと聞く。わたしなんかは何事も面倒に思うような怠惰な若者なわけだから、自分の仕事が減ったらうれしいだけなのだけれど。アリスの働きぶりを見るにつけ、きっとわたしは彼女のようなメイドさんにはなれないタイプなのだろうと思う。
話を戻そう。
「めぐりちゃんが、わたしを呼んでる? こんな朝から?」
「はい!」
わたしはいつになく妙な展開に思わず首をかしげた。その真正面で、アリスは肩で息をしながら屈託なく笑う。おそらく主人の部屋からここまでの全力疾走の弊害だろう。呼吸のたびに揺れる、ふたつの長い三つ編み。それがちょっと生き物じみていて愉快だ。
彼女の言う『お嬢さま』――それはすなわち、この洋館の主人、天ヶ瀬めぐりを指している。主人、すなわちわたしの『持ち主』たるめぐりちゃんがわたしを呼びつけるのは珍しいことではない。そうだとしても、こんなに朝早くの呼び出しというのは初めてだった。何か急ぎの用事だろうか。主の思惑ははっきりしないけれど、わたしには彼女の部屋に行かないという選択肢が用意されていないことだけは明確だった。
「うーん、わかった。とりあえず、食べたら行くね」
「はい、お待ちしております」
わたしは残った付け合わせやお味噌汁を急いで空にする(こんなにおいしいものを急いで食べなきゃいけないなんて、実にもったいない)と、楼珠さんに朝食のお礼を言い、食器の片づけを手伝ってくれたアリスと共に食堂の外に出た。