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ヴィクトリア朝の暮らし  作者: 久我真樹
2/11

春、ひとり窓際で(Under the Blue Sky)

「アリス……元気かな?」

 視線の先にある二つ並んだ寝台。片方は、綺麗に片付けられている。見ないようにしても、いつの間にか、サリィの目はその空白へ吸い寄せられていく。

 一昨日まで、そこにはアリスがいた。

 同い年で、わがままで、食い意地が張っていて、負けず嫌いで、でも笑顔が素敵で明るかった彼女は、サリィに相談もしないままに新しい職場へと飛び出していった。

「ごめんね」

 その一言を残して。

 いつまでも一緒だと思っていたのに。

 仲良くなって、息が合って、気持ちのいい仕事が出来ると思ったら、いなくなってしまう。近いうちに、また新しいメイドが来るけれど、また最初から、やり直し。

 注いできた時間が消えていく。自分だけが取り残されたような孤独感に、押しつぶされそうになる。

 今までに何度も、この気持ちを味わってきた。

 理由はまちまちだが、ただ一つ言えることは、このミルワード家は給与が安く、屋敷も古ぼけて、社交とも縁遠く、若い使用人にとっては経験を積める以外、あまり魅力が無かった。

 だから、経験を積めば、去ってしまう。

 魅力的な、仕事場を求めて。

「――あぁ、お茶が飲みたい」

 かすれた喉から、そんな呟きが、漏れた。



 屋根裏部屋を出て、階段を下りる。日頃の習性か、普段も足音を殺してしまう。踊り場に差し掛かった時、静かな廊下に、扉が開く音が響いた。

「あら、サリィじゃないの。出かけなかったの?」

 上司のハウスキーパー、ミセス・ジェラードだった。

「――手紙を書いていました」

「あなたもまめね。ところで、一緒にお茶でもどうかしら?」

「喜んで」

 サリィは、微笑んだ。

 それだけで、気持ちが少し晴れた。

 腰にぶら下げた鍵束の音を伴って歩くミセス・ジェラードは、五十歳に差し掛かっている。しっかりと逞しいが、どこか寂しげで、その背中は、故郷に残した母を思い出させた。



 一杯の暖かな紅茶を飲み干し、ほっとするはずのひと時にも、サリィは背筋を伸ばして、かしこまっていた。階下にあるミセス・ジェラードの仕事部屋、という環境がそうさせるのだろう。この部屋の戸を叩くときは、失敗の報告が多かったから。

「――あなたも、ここにいて長いわね。八年目?」

「よく覚えていますね、ミセス・ジェラード」

「みんな覚えているわ。だって、私が採用したのだもの」

 空になったサリィのカップへ紅茶を継ぎ足しながら、ミセス・ジェラードは言った。

「アリスが辞めて寂しいでしょうけど、あなたも長いからわかるはずよ。この仕事は、その繰り返し」

 思わず、サリィは問い返さずにいられなかった。

「ミセス・ジェラードは寂しくならないいんですか?」

「寂しいわ。新しい子が入るたびに仕事の効率だって落ちていくし、使えるようになったら辞めてしまうから、いつまで経っても、仕事が楽になりはしないわ」

 愚痴でもなく、苦笑でもなく、淡々と告げてから、ミセス・ジェラードは目を細めた。

「明日、新しい子が来るわ。あなたと同じ部屋になるから、また面倒を見てあげて」

 サリィは何か言おうとして、言葉に出来ず、ただ頷いた。



 部屋の隅に置かれたブリキのトランク。そこから手紙の束を取り出して、サリィはベッドに寝転がる。辞めていった同僚の何人かとは今も文通をしていて、彼女たちからは近況が届くが、サリィは返事を書けない。書くべき内容が、思いつかない。

 変化といえば、同僚が辞めて、新しい同僚が入ってくること。

 この繰り返し。

 友人たちの世界は、色彩であふれていた。華やかな倫敦、今よりも高い給与、豪華な食事と舞踏会の様子。そして、洗練された同じ屋敷の仲間たちのエピソード。

 そこには、変化がある。

「――私も、本当は飛び出したいよ」

 もう三年も給与が上がっていない。役職も同じまま。ただのハウスメイド。新しいことを学ぶことも、刺激を受けることも何も無く、ただ年だけを重ねていき、焦っている。

 でも不安が大きい。

 外の世界で通用するの? 主人は優しく、緩やかな時間が流れて、居心地がいい屋敷を、眺めのいいこの部屋を、私は捨てられるの?

 捨てる決意はあっても、機会が無いんだ……

 私が辞めようと思ったら、誰かが辞めてしまう。

 サリィに出来ることは、新しい同僚が、いいメイドであることを、長くいるメイドであることを願うだけだった。その誰かに押し付けるまで、辞められないのだから。

「――はぁ」

 ため息しか、出ない。



 寝転がったまま、サリィは天井に向けて手を伸ばす。

 広げた指先は長く続けた荒れ仕事で、傷ついて。

 春の日に、ふと立ち止まって。

 陽光を浴びた穏やかな午後に、思う。

 私の人生には、他の選択肢が無かったのかと。

 寂しさの根は、単調な暮らし。

 いつか終わると思っていたメイドの仕事も、終わらない。いつか「ふさわしい人」に出会って、幸せに暮らせると、思い描いていた。けれど現実は違っていて、誰も彼女の元にやって来ない。

 仕事は楽しい。

 主人は優しい。

 あの貧しかった実家にいた時よりも、ずっと幸せなはずなのに。

 窓から見る景色は、ずっと、変わらない。

 七年間、同じ眺めを見てきたけれど、今日がずっと続いた百年後も、同じ風景なのかしら? その景色を眺めているのはメイドのままの私かもしれない……



 屋根裏部屋の窓際の、古びた椅子に腰掛けて見上げる空は、今日も怖いぐらいに青く染まっていた。その下に広がるのは、いつもと変わらない緑の世界。視界いっぱいに広がる庭園と、陽光に照らされて輝く木々の若葉。

 差し込む柔らかな光、肌に暖かな太陽の温度を感じながら、サリィ・ブライドヘッドは靴下を編んでいた。一人では広すぎる部屋、一人で過ごすには長い時間を、持て余して。

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