表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヴィクトリア朝の暮らし  作者: 久我真樹
1/11

擦り切れた膝(House-maid's-knee)

「……はぁ」

 ふとこぼれ出たため息の大きさと、目の前に広がったその白さに驚いて、エルは慌てて周囲を見渡す。

 いつもと変わらぬ光景。

 目の前、そして振り返っても、絨毯の敷かれた廊下は伸びている。

 床をこすろうとした手を止めて、エルは手にしたブラシを見つめた。

 長い間使った道具は消耗していた。ハウスキーパーのミセス・タウンゼントに、新しいブラシを頼まなければいけない……けちな彼女は、あまりいい顔をしないだろうが。

(仕事を続けないと)

 黙々と、エルは絨毯の上をこする。

 考え事をしている暇なんて、無い。



 廊下はしんと冷え切って、指先は冷たい。床に膝をついてブラシをかけるだけで、どんどん体温が奪われていく。

 ぴしっと、指先が割れるような感覚。ふさがっていたはずの、荒れた指先のかさぶたが再び開いていた。昨日は疲れ過ぎて、手に薬を塗るのを忘れていた。

 ひび割れた指先の痛みを忘れるように、一心不乱に手を動かす。

 感覚だけでなく、心まで麻痺したように、エルはひたすらにブラシを動かす。

 早く作業を終えなければ。

 早く作業が終わればいいのに。

 長く続いた暗い廊下は、ようやくその終端、一階へ降りる階段に到達する。ほっと一息、エルは掃除の終わった後ろを振り向く。主人たちの寝ている三階から、今ようやく二階が終わったのだ。

 でも。

 まだ階段と、一階の廊下が残っている。

 それに、階段を下りて今日の掃除を終えても、明日が来ればまた屋根裏部屋で起きてまた三階を磨いて、また二階を、一階を……

 階段に腰掛けて、エルはじっと暗がりを見下ろした。



(いつまでこんな人生が続くんだろう?)

 終わったと思ったら、次の作業がある。今日が終わったと思ったら、あっという間に明日がやってくる。遅くまで仕事をして、疲れ果てて、氷のように寒い屋根裏部屋に入り、毛布に包まる。幸せな眠りの時間は短く、気がつけば、朝がそこにやってきている。

 もう少し暖かい毛布の中にいたいが、それは許されない。

 Un-seen and Un-heard.

 その姿は見られず、その声は聞こえぬ。

 まるで幽霊のように、主人たちにその姿を見られてはならないハウスメイドは、主人たちが起きる時間よりも前の、日が昇ったか昇らないかの早い時間から、仕事を始めなければならない。

 毎日、毎日、週に一度の休みはあっても、エルは床を、廊下を、絨毯の上を、暖炉を、この家中を掃除してきた。それが彼女に与えられた役割であり、生きる糧だからだ。

 何度も、仕事を途中で投げ出したくなった。



 握り締めたブラシを、エルはもう一度見つめた。

(まるであなたは、私みたいね)

 手の中にあるそれは、エルの膝と同じく、毎日の酷使で磨り減っていく。

 「House-maid's-knee」と呼ばれる職業病がある。家中の部屋と言う部屋を掃除する彼女たちハウスメイドは、床に膝をつく為、その作業と一緒に、膝も悪くしてしまうのだ。

 エルにはまだその自覚は無いけれど、時々、膝は痛む。いつまでこの仕事が出来るのか、不安にもなる。働き始めた頃は元気だったのに、ここ数年ずっと、身体は本調子ではない。

 磨り減ったブラシは処分して、新しい品物に交換するように、やがて使い古されたエルは若いメイドに取り替えられてしまうのだろうか? その若いメイドも、同じようにいつかは……

 エルが働く前にいたメイドは、どこに消えたのだろう?

(その時が来たら、私はどこに行くのかしら?)

 わからなかった。

 ただひとつわかっていること。

 それは、まだ掃除が終わっていないと言うこと。



 自由になりたい。

 この暮らしから逃げ出したい。

 このまま、玄関を開けて、どこにでも歩いていくことは出来る。けれどエルにはその勇気も気力も無い。実家は裕福ではなく、エルの細々とした給金さえも、頼りにしている。エルは家族の生活も背負っているのだ。

 この職場を離れても、どこにも行く場所なんて無い。

 メイドの仕事以外に、何が出来るのだというのだろう?

 何をしていいかも、わからない。

 仕事の間はいつも、今日の仕事が早く終わればいいと思っている。でも、今日が終われば、明日の仕事が待っている。終わらないで欲しいと思えるほどに、今日は幸せではない。

 今日の終わりを望みながらも、明日の始まりは望んでいない。ならば、生きているのは辛すぎる……

(どこかに幸せがあるのかな?)

 幸せな自分の姿を、エルは想像できなかった。

 何が幸せかも、わからないままに、しゃがみこんだまま膝を抱えたエルは、磨り減っているであろう自らの膝を優しく撫で付け、軽く口づけた。

 ゆっくりと眠りたい。

 母親に起こされるまで眠っていた、あの子供時代に帰りたい……

 涙が、零れ落ちた。



(同人誌『ヴィクトリア朝の暮らし5巻 使用人の生活風景』:2005年制作より再掲)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ