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第四話 アンゲリカは戦場へ行った2

 未だ日の昇らない明け方。

 アンゲリカは自身の寝室の寝台を軋ませ、悪夢にうなされていた。


「……いせい。せいへい……!」


 その呟きはおそらく、誰かに救い求めている。死せる邪神や電気の羊を、ふたつの意味で夢見ているわけではない。


「おっ、願いで……すっ! だ、だ……れか!」


 白い薄布一枚越しに、彼女は軟体動物みたく身体をくねらせる。

 見るも妖艶だ。苦しそうな声を上げるたびに、白磁のような肢体がしなる。

 しかし突如、


「どこ、かっ! えい……衛生兵は!」


 彼女の上体は、ばっと起き上がった。

 掛けられていた薄布が滑らかな皮膚を滑り落ち、その下の裸体を露わにする。

 肌は、闇夜と明暗の袂を分かつ真白。筋肉質な肉体に余計な脂肪は少なく、肩周りや腹部には明暗を更に分かつ溝が走る。

 女性らしい艶っぽさを残すのは、ただふたつ。事後の妖婦が如く、疲労の呼吸を繰り返す傾国の美貌と、脂肪の豊かな円みを持つ、熟れた果実のような双丘のみ。


「はぁ……はぁ……夢か」


 獣のように肩を上下。安堵に顔を俯ける。右の髪束がはらりと前に垂れ、色素の抜け切った白髪が、柔らかいつららのように伸びた。

 彼女がその白い髪束を、細長い指先で擦るように撫でていると、


「んぅ……アンジェ……どーしたのぉ?」


 アンゲリカの左隣。褥を共にした、裸体の少女が瞼を開いた。


「ゾフィー……!」


 その『アンジェ』という呼称に、はっと首を回すが、彼女はゾフィーではない。背はやや低めで、顔つきは幼く、小動物のような雰囲気。ゾフィーとは全てが異なる。

 彼女は……レベカだ。


「ゾフィー? 誰のこと?」


 レベカは薄布を平めな胸の前で引き寄せつつ、身体を起こした。

 その瞳は睡魔に引かれ、半目のままだ。眼光厳しく見える。


「……昔の友人だよ、レベカ」

「ホント? アンジェのことだから嘘は付いてないと思うけど……」


 唇を尖らせ、顔をずいっと近づけるレベカ。

 アンゲリカの指先は、清流のようにさらさらとしたレベカの髪へと這う。レベカの立った腹と寝癖を落ち着かせるため、手櫛で彼女の髪を梳いた。


「本当だよ。……もう、五年も会ってないんだ」


 五年という、儚くも遠い年月。

 五年前に何が起きたか、何が終わったかを想起し、レベカは問うた。


「……戦友、ってやつ?」

「うん」

「何で会ってない……いや、会えてない? のかな?」


 一度首を傾げ、更に深い傾きを加えるレベカ。

 アンゲリカはどこか虚しそうな横顔で、ベッドの際を見詰める。


「自分は単純に、彼女の故郷を知らないんだ。だから会いたくても会いにはいけない……」アンゲリカは悔しさに、シーツを握する。

「感情の鈍化なんて言葉にかこつけて、友情を蔑ろにしたつけだよ。だからそれ以降、自分は仲間の故郷を聞くようにしてる」


 掴んだシーツに熱が伝わる。瞳の奥が薪をくべられた焚き火のように揺らめく。


「アンジェ……」

「……でも何故だろう。今なら分かるよ。本当は……会うのが怖かったんだと思う」


 あの怪我の後、会おうと思えばいくらでも会えたはずだ。

 ゾフィーは貴族の令嬢かつ魔術師だ。血は青く、高濃度の魔力が流れる。稀有な存在だ。人脈と手間暇を掛ければ、探し出すことは容易い。

 しかし、アンゲリカは動かなかった。戦中戦後の戦乱と感情の鈍化を言い訳に、のうのうと生きていたのだ……。

 今では彼女の息が気管を流れ、生き永らえているかさえ知らない。


「自分は愚かだよ……」


 今まで感じもしなかった自責の念に、アンゲリカは垂れた睫毛を更に下ろす。

 悲しみに打ちひしがれる彼女の白い身体。それをレベカは、そっと横から抱き締めた。


「そんなことないよ。アンジェほど優しい人なんていないよ」

「自分は優しくなんてない……ただの人殺しだ」

「大丈夫。アンジェが自分のことを否定し続けても、私はアンジェを肯定し続けるから」


 レベカの暖かい体温が、皮膚を通して臓腑に染み渡る。

 されど身体は冷めた夜気を求めてか、否定に喉を震わす。


「……違う」

「アンジェ。私、こう見えても人を見る目はあるの。それを否定するってことは、私の目を疑うってこと?」


 レベカは上目遣いにアンゲリカを見上げ、表情不満そうに装う。

 意地の悪い質問だ。アンゲリカは、モニカの眼識を疑ってはいないが、自身の人格を信じてはいない。だが、回答は必ずどちらかの否定に繋がる。この質問は、一種のジレンマだ。

 アンゲリカは答えを出せぬ、と口を噤み、顔を逸らす。

 対してレベカは抱き締める力を増し、喜色を満面に浮かべた。


「ほら、アンジェの優しいとこってそういうところ。私の目なんて信用出来るかわかんないのに、私を傷つけたくないから黙っちゃったんでしょ」

「いや、沈黙は金だから……」

「はいはい。何言ったってアンジェが優しいことに変わりはないから」


 レベカは目と腕の力を緩める。心底愛おしそうに、アンゲリカの肩に頬擦りし、


「私はそんなアンジェのこと、愛してるよ」

「……ありがとう、レベカ」


 一縷の感謝。と同時、日の出の薄明かりが窓より部屋に射し込んだ。

 未だ朝暉とは言えずとも、彼女らの芳体から闇夜を払うには十分。

 アンゲリカの首元に刻まれた紅の跡が、愛情を示して躍り出る。


「もう、朝か」

「……だね。あと……ひとつアンジェに言わなくちゃいけないことがあるんだ」

「なに?」


 レベカは腕を離し、俯く。言い辛そうに身じろぐ。

 数秒の逡巡の後、ばっと顔を上げ、言の葉を空に放った。


「もしかしたら、暫く会えなくなっちゃうかも」

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