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第四話 アンゲリカは戦場へ行った1

 自分が見ていたのは、夢だ。それも記憶を元にした夢だ。


 眼前、十数メートル向こうに聳え立つ、大きな木製の馬小屋。

 寂れた外観に反し、内側からはけたたましい幾人もの叫び声が、雷のように鳴り響く。


「…………」


 自分の名は……アンゲリカ・ミッターマイヤー軍曹。所属は第二独立魔術化大隊。現在は二重帝国軍が占領したセルビジャ王国の貧村に、同僚と共に派遣されていた……はずだ。

 何故か確信が持てず、周囲に目を遣る。すると、親を殺した殺人鬼を見るかの如く馬小屋を睨み付けるのは、軍服を着た無数の男達。顰めた顔は、非常に恐ろしい。

 叫声鳴り止まぬ馬小屋に、今にも手にしたライフルを構えそうだ。

 自分と同じ制服を着ていることが、こうも安堵を齎すとは……。


「……アンジェ? 具合でも悪いのか?」


 自分の名を呼ぶ女の声。すぐ左隣だ。馬小屋から顔を逸らすように、顔を向けた。

 そこにいたのは、滑らかな金糸で丁寧に編まれたかのような長い金の髪をしたひとりの女性。目鼻立ちのくっきり整った端麗な容姿に、怜悧な碧眼を覗かせる。

 百七十五センチほどの自分より、多少背丈が低い。とは言え、彼女も女性であることを加味すれば十分長身だ。その毅然とした立ち姿も相まってか、やんごとなき身分に見受けられる。

 名をゾフィー。爵位の高い、歴とした貴族だ。


「大丈夫です。少し考え事をしていただけです」

「いつまでたっても他人行儀だな、お前は」

「申し訳ありません」


 自分は謝罪する。しかし、それ以降ゾフィーから言葉は返ってこなかった。代わりに、中隊長らしき尉官が副官と交わす言葉が耳に届いた。


「これで全部か?」

「はい、敵対的なゴミ共は全員。そうではないゴミ共も、収容所行きの馬車へと乗せ終えました」

「ならば移送を急げ。しかし十分に気をつけろ、悪意は伝播する。陛下の陰口でも叩こうものなら二度と喋れないように喉を掻き裂け」

「はっ、了解です」


 副官は敬礼。馬小屋の近くに位置する自分達から少しばかり離れた場所で寂寞と佇む馬車へと駆け寄った。

 見れば、村から奪ったと思わしき馬車の貨物車には、村民であろう女子供。一本の糸のように肩を寄り合わせ、すすり泣いている。

 物悲しい。可哀そうだ。

 自分に共感性が欠落してさえいなければ、励ましの言葉でも送ったのやも知れない……。


「おい、そこの魔術師。そんなに馬車のほうを見て、どうかしたのか?」


 声をかけてきたのは先程の尉官。髭を摩り、疑うような瞳でこちらを見る。


「い、いえ。少し可哀そうだな、と思っただけです」


 包み隠さない。いや、包み隠せない。


「それは、吾輩の行為を咎めているのか?」

「いえ、滅相もございません」

「……ふん! 役に立つから大目に見てやってはいるが、あまりにも口うるさいようなら、それ相応の覚悟が必要になるからな。覚えておけよ」

「了解です」


 彼の聴覚の範囲内で、彼の意思そぐわない発言は控えるべき、と。

 頭によく叩きこんだ。発言には注意しよう。

 自分がそう心に留め置く間。軍服の男達は苛立つ尉官の号令一下、馬小屋の間近に藁を投げ積んでいく。

 そして、藁が馬小屋の足元付近を覆い尽くしたとき、


「燃やせ!」


 尉官の厳しい命令と唾が飛ぶ。

 男達の半数ほどは、嬉々とした笑みか怒気を孕んだ表情を浮かべ、松明を持って近寄る。その他にしても、上官の命令は絶対だ。残った男達も奥歯を噛み、銃を握り締める。

 あまりにも残酷だ。しかし、権利を持たない自分にはどうすることも出来ない。

 幾つもの松明の炎は藁中へと投げ込まれ、徐々に燃え広がっていく。

 熱と輝きは増し、それに呼応するかのように悲鳴も音量を増す。


「火だ! 火が投げ込まれたっ! 頼む! 頼む助けてくれ!」

「お願いぃ! 子供がいるの! 出してちょうだい……!」

「おぉ、神よ! どうか我々を救いたまえ!」


 懇願も、悲痛も、祈りも、全て届かない。

 藁の炎は馬小屋の木壁へと燃え移り、天を目指して一気に火勢を増す。

 ごうごうと燃える音と、ぱちぱちと弾ける音が悲鳴と混ざり、一切が溶けていく。


「出してくれ! 頼む! 俺達は何もしていない!」


 木板が打ち付けられ、開閉能力を失った入り口の扉が、どんどんという音と共に、微かに膨らむ。おそらく、内側から肩でもぶつけているのであろう。……無駄だ。

 幾人かの男達は手に持ったライフルを荒々しく構え、


「嘘をつくな! お前らセルビジャ人共が大公夫妻を殺したのだ!」

「バルカン……いや欧州の癌だ、貴様らは!」


 躊躇いなく、引き金を絞る。

 耳に響く発砲音と、鼻を掠める硝煙の香り。

 直後、扉の動きは収まった。


「はっ! ざまぁみろ! てめぇらが引き起こした戦争だ! 地獄で悔いな!」


 扉と地面の僅かな隙間から、紅々しい鮮血が外へと流れ出す。


「ははは! 望み通り出られたじゃねぇか! 身体は忘れてるけどな!」


 男の嘲笑につられ、男達は皆笑い出す。

 尉官は心底から愉悦を感じて口角を上げ、自分に聞こえるように語った。


「全ての人種、民族に生きる権利があるわけではない。汚物にも等しき劣等なセルビジャ人は消毒されねばならんのだ。それがデウシュ人たる私の義務だ」

「…………」


 悲鳴の小さくなりつつある馬小屋は大棟まで火が回り、完全に火の御包みに包まれた。

 自分は、肌でいくら熱をじりじりと感じようと、瞳がいくら乾き続けようと、決してその様子を捉えて離さなかった。

 魂を天へと運ぶ、立ち昇った火煙。

 黒焦げて軋み、裂ける柱。

 一息に焼け落ち、崩れる屋根。

 そして、有無を言わさず燃え盛る業火。

 これは罪の火だ、人類の。


「……アンジェ、行こう」

「はい」


 ゾフィーに促され、自分は踵を返した。


 と、その瞬間──唐突に景色が切り替わった。


「……ここは?」


 ハリケーンランタンの灯りと、小さな竈の焚き火が照らす、暗い箱形の室内。

 耳に入るのは、カードゲームに興じる女達の落ち着いた談笑と、銃火器を整備する耳慣れた金属音。


「まだやるか?」

「当然だ、やらなくちゃ取り返せないからな」

「ふっ、長靴を食われちまうぞ」


 自分は、まるで銅みたく重たげな身体を起こそうとした。すると、壁に背を付けて座り込んでいた身体が、不思議と勝手に揺れる。……そうだ。自分達は列車の貨物車に乗っていたはずだ。

 その貨物車の中で、自分はいつもの軍服の上から、防寒用の外套に包っていた。寒いからだ。更に少しでも熱を取ろうと、ゾフィーと一緒に、ひとつの毛布の中で縮こまっていた。


「ゾフィー……」


 目と鼻の先、ゾフィーは自分の肩に頭を預け、死んだように眠っている。それも、身が裂けそうなほどの寒さだと言うのに、額には薄すらと汗を浮かべている。

 顔はやつれ気味だ。セルビジャ戦線では辛いことも多々あったし、如何に第四世代とは言え、肉体と精神を戦争病に蝕まれるのであろう。

 自分が寝惚け眼でゾフィーを見ていると、


「起きたか、ミッターマイヤー曹長」


 椅子に腰掛ける恰幅の良い丸刈りの壮年女性が、声を掛けてきた。

 彼女は同じ部隊の人間だ。当然、自分は彼女が誰かを知っている。


「……おはようございます、中隊長殿」


 彼女は、人数を百人にも満たないこの小さな中隊の長である。


「あぁ、お陰様で中隊長に昇進したよ。セルビジャでは辛酸を嫌というほど口に注ぎ込まれたからな」と中隊長は冷静でありつつも、悪態をつく。

「しかも休む暇なく東部戦線だ。穀物の収穫に帰れた奴らが羨ましいよ」


 自分はあまり羨ましいとは……思わない。


「…………」

「……まぁ仕方ないさ。お前は確かウィンドボルンの中流階級の出身だったな、なら農民の気持ちは分からないさ」


 自分への皮肉か、同情を求めているのか、今の自分には分からない。故に、謝る。


「すみません」

「いや、いいんだ。なにも帰りたいのは百姓だけではないからな。むしろ貴族様のほうが、温かいスープと柔らかいベッドが欲しいだろう」


 中隊長は自分の横で不規則な寝息を立てるゾフィーへと、視線を飛ばす。

 ゾフィーは貴族、上流階級だ。自分はそこそこの中産階級ブルジョワの出だ。

 自分達は、死体のように冷え切ったスープなんて飲んだことは無かった。ライ麦パンのように硬いベッドで横になったことも無かった。

 無論、狭く暗い貨物車で寒さに震えるなんて体験したはずもない。

 自分の場合、家に帰れば母が暖かい手料理を用意してくれたし、求めれば父が柔らかいベッドを買ってくれた。だが、今はそれも叶わない。……それが戦争だ。

 換気用の小窓から外を見れば、闇だ。焚き火の灯に照らされ、微かに雪が舞っているのが見える。極めて劣悪な環境と言って差し支えないだろう。

 だが、あまり帰りたいとは……思わない。


「……」

「士官教育を受けに行けば、少しは後方に戻れるぞ。お前達は実績も学もあるし問題なかろう」


 中隊長の優しさ故の助言だ。しかし、


「いえ、この戦争が終わってから、士官教育は受けさせていただきます」

「……いいのか?」

「はい。戦うことが二重帝国のためになるのであれば、この身体ひとつ程度……捧げますよ」


 一瞬、逡巡した。自分の命を捧げる相手は誰なのか、と。

 正直、信仰心は薄い。こんな絶望的な状況故に完全に捨て去ることは難しいが、祈るくらいなら剣の腕を磨く。

 ハブスバルク王家への忠誠心は……そこそこ。新兵教育で王家や国家への従属心を叩き込まれた。魔術師は特に。しかし、自分には響かなかったようだ。

 なら何が自分を突き動かすのか。これが分からない。

 昔ならいざ知らず、第四世代魔石を摂取した自分には、人間として大切な『こころ』が欠落してしまっているようだ。

 だがそんな自分にも、ひとつ言えることがある。


「それに……ゾフィーや中隊の皆さんを置いては行けません。戦友ですから」


 彼女らは仲間だ。それも飛びっきりの。

 彼女らのためなら、自分は死ねる。断言できる。


「はっ。最高だ、ミッターマイヤー。ルテニア人の砲弾で動けなくなったら、真っ先に助けてやる」

「ふふっ、ありがとうございます」


 何故か笑みが零れた。嬉しいからだろうか。

 考え、意味も無くゾフィーに顔を戻したとき、


「いいこと言うじゃん、アンゲリカ。ゾフィーに位置を代わって欲しいくらいだよ」

「……お酒、いる?」

「中隊長が砲弾なら、あたしは銃剣だ。銃剣から救ってやる」

「近接戦闘でこいつが負けるわけないだろ。うちはこいつが斃れるなら地雷だと踏むぜ、地雷だけにな」


 自分達の元へ、何人かの仲間が寄ってきた。表情には微かな笑みを、手には酒の瓶やチョコレートの缶を持ちながら。


「皆さん……」


 あぁ、自分はかけがえのないものを持っているんだ。ウィンドボルンの高校や中流階級同士の交流では、決して得られないものを。


「へへっ、夜って概念を知らねぇ砲撃音と急な突撃命令のせいか、どうせ眠る時間は不規則なんだ。今夜は眠らせないぜ。覚悟しな、アンゲリカ」

「……えっちなのは、駄目」

「そうだぞ。こいつにはゾフィーがいるんだから、お前の出る幕は無いぞ」

「いやお前達、そういう意味じゃないからな」


 皆は自分達の前に座り込む。ひとりが質素な木の酒杯を配り、酒を注ぎ始めた。

 自分は楽しそうな皆の会話を耳に、再度ゾフィーへと顔を向けた。

 換気用の窓から迷い込んだ白い玉屑が、彼女の金髪に留まった。どこか儚かった。


 それが、新たな切り替わりの合図だった。


「……ジェ。……ンジェ! アンジェ!」


 鈴のように凛と響くゾフィーの声。自分ははっと我に戻る。


「ゾフィー……!」


 右横のゾフィー。短機関銃を片手に、自分の右肩を揺らす。

 覚束ない意識をはっきりとさせ周囲を見れば、ここは塹壕だ。

 横に延々と続く、深さ人間ひとり分の穴。足場は泥濘みの抜けきらない剥き出しの土と、その上を白く染める積雪。

 呼吸の度、口からは雪原に似付かわしい白い火気。あまりにも寒すぎて、震える手足の感覚は殆ど無い。

 仲間は砲弾で崩れた土嚢の上から射撃を繰り返すか、雪上で眠ったように積み重なっている。後者は死んでいるのであろう。口前の空気は白くない。

 そして、塹壕の遥か先からは聞き慣れた砲声と、こちらに向かって飛ばされる大地を割らんばかりの喊声。自分の心胆を身体同様、寒からしめる。


「ミッターマイヤー、フェルステル、来るぞ!」


 自分の左横で短機関銃を連射している仲間が声を荒げる。

 何が来るのか明白だ。敵だ。死を運びに走ってくるのだ。


「アンジェ! 大丈夫?」

「はい、問題ありません」


 ゾフィーは自分の肩から手を離し、腰嚢から魔石を取り出して口に含む。喉を上下すると短機関銃のレバーを引き、塹壕の際に向けて構えた。

 自分も同様に魔石を口に放る。しかし短機関銃は雪に捨て、腰の軍刀を素早く抜刀。銀世界の輝きを、鋼鉄の刃にて反照する。

 そして、待つこと数秒。永遠のように思われた時間は流れ、


「「「Ураааааааа?」」」


 塹壕内に何人もの男達が飛び込んでくる。

 彼らは銃剣を突き刺そうと、文字通り塹壕に飛び込んできたのだ。勢い凄まじい。まるで津波のようだ。しかし、突きだけの突撃は一辺倒。恐るるに足らず。

 自分は顔に向けて突き進んでくる鋼の槍を半身になって回避。

 青褪める男の首元に吸い込まれるように、右手一本で軍刀を横薙ぐ。

 相手は突撃の勢いで回避ままならず、むしろ勢いを活かされ、首元の頸動脈から血潮を噴き出す。


「……う、が、がぁあ!」


 男は膝から崩れ落ち、重ねた両手で首筋を抑えた。だが、血溜まりは着々と広がる。

 まずは一人目。状況判断のため、次いで周囲を確認する。

 右手では、短機関銃で相手の腹部を撃ち抜くゾフィー。脱力し、もたれ掛かってきた男の身体をのけ、再度銃を構える。

 左手では……死体となった先程の仲間。軍服と雪を紅く染め、地面に仰向けだ。そこへ、戦場の狂喜に取り付かれた敵兵士が、何度も銃剣を振り下ろす。

 次なる敵は決まった──自分は左手に駆け出した。

 首元を抑える男を跨ぎ、雪を踏み締め、軍刀は大上段。

 雪上を思い切り踏み込み、渾身の一撃を脳天に放つ。


「ぎゃぁっ!」


 短い悲鳴。厚手の帽子パパーハごと頭を斬り割り、一撃にして意識を奪う。

 男の身体はどさりと崩折れ、自分の仲間の死体の上に積み重なった。彼の頭皮はべろんと捲れ上がり、中の白骨と薄紅の血肉を極寒の外気に晒す。加えて傷口があるならば当然、下の死体の口へと延々と血を垂れ流す。

 あまりにも凄惨な光景だ。だが、既に見慣れた。

 踵を返すと同時、軍刀の血を払う。塹壕の壁に紅々しい線を移し、ゾフィーに加勢しようと走り出す。


「ぐっ!」


 ゾフィーは敵兵の突きを短機関銃の銃身で危うげにいなす。

 撃ち殺そうと銃を手際良く構えるが──遅かった。

 もう一人の兵士が奥から現れ、ゾフィーの左大腿を突き刺した。


「うぐっ……!」


 顔を歪ませるゾフィー。兵士はそこへ更に発砲。彼女の左足の力を完全に奪う。

 結果、ゾフィーの背中は雪を求めた。反撃とも言える射撃は天に放たれ、全くの無意味。されど、彼女の眼前には無傷の男ふたり。彼女の顔は痛苦と絶望に染まる。


「……ゾフィー!」


 名を叫ぼうと両脚は速まらない。距離はまだある。

 このままではまずい。ゾフィーはおそらく死ぬ。

 ……これは自分の選択ミスだ。死体を嬲る兵士を無視し、始めからゾフィーの加勢に入っていれば、こんな状況にはならなかったはずだ。

 最悪だ。心底悔しい。だが……諦めるには早過ぎる!


「たあああぁぁぁ!」


 軍刀を横に振りかぶり──投擲。一か八か、賭けに出た。

 手より離れて回転し、銀色の円を描く軍刀。殺傷力十分なそれは遠心力で切れ味を増し、ひとりの顔面を切り裂いた。


「うぐあああぁぁ?」


 見るも無残な裂傷は得た兵士はライフルを捨て、眼を両手で抑えて蹲る。

 真横の男は驚きに瞠目。しかし、彼は優秀だ。ゾフィーの大腿を踏み、銃剣を引き抜くと、軍刀の飛んできた方向へとすぐさま銃剣を構えた。

 自分は当然駆けている。武器と言えば握り締めた拳のみ。

 だがゾフィーのためにも両の脚に勇敢さを注ぎ、敵に肉迫する。

 そして、気が付けばあと一歩で銃剣の間合いの内。

 自分は一層腰を落として重心を低め、惜しげなく右足を踏み出す。男はそこへ、


「おおおおぉぉぉぉ!」


 全力の刺突。自分の腹部を貫こうと銃剣を前に突き出す。

 だが──自分は跳んだ。空に浮かび上がる豹の如き自身の肢体。銃剣は軍靴の下を通り抜ける。そこへ、全体重を掛けて墜下する。

 男の握力では抑えられぬ重量だ。ざん! とライフルは雪中へと銃身を埋める。


「うぐおっ!」


 冷や汗を浮かべ、目を白黒させるが、彼も手練れだ。

 痺れる両拳を握り、胸の前で構えてみせた。

 銃剣雪に落ちた今、次は拳の間合いだ。

 自分は駆ける。身体の背を伸ばし、男に向かって拳を振りかぶる。

 男は正しく手練れだ。自分の身体が丁度間合いに入った瞬間。的確に顔面目掛けて、最短経路のストレートを放つ。

 だが、自分の顔は既にそこにはいない。


「なっ……?」


 身を刹那にして屈めたため、拳は頭上で空を切る。自分の脚は止まらない。

 男の腹部に肩から突っ込み、肺の酸素を圧し潰した。


「ぐふぅ……ッ!」

 更に開かれた男の両脚の膝裏を引き刈り、無理矢理雪に押し倒す。

 慣れた身体捌きで馬乗りになると、暴れる男の鼻頭に握拳を一撃見舞った。

 威力に曲げられる首と、飛び散る鼻水交じりの鼻血。まだまだ止まらない。

 二撃目を叩き込み、鼻を殴り折る。三撃目は鉄槌を落とし、前歯を砕き折る。

 そうして何度も男の醜悪な顔面に拳を叩き込んだ。

 彼の顔が文字通りぐちゃぐちゃになり、両腕が抵抗力を失って始めて、自分は彼の身体から立ち上がった。

 拳は朱に染まり、皮膚が所々裂けている。凍てつく大気が痛覚を漸増する。

 しかし油断は許されない。軍刀を急ぎ拾い上げ、周囲を見回した。

 淡褐色の瞳に映るのは、折り重なる男女の死体と、痛みに悶える数少ない生存者。

 塹壕の底は紅い。だが、砲弾が遠くに着弾した衝撃で白雪の一部がぱらぱらと崩れ、彼らの上に撒かれる。……誰の払い除けはしない。


「……終わった」


 戦闘可能な敵はいない。全て倒し終えた。

 数瞬の安堵。それも束の間、自分は一散にゾフィーへと駆け寄った。


「はぁっ、はぁっ、ゾフィー!」

「……う、うぐぅ……! あ……アンジェぇ……」


 ゾフィーの重たい首をもたげ、傷口に眼を移す。酷い有り様だ。

 金創は兎も角、銃創は極めて深刻。位置的に骨が内部で砕け散っている可能性が高く、出血の度合いも激しい。細菌でさえ静謐な極寒の環境とは言え、勿論感染症のリスクもある。

 だが真残念ながら、自分は医療に精通した人間ではない。回復の魔元素は存在しない。

 なら、どうするか。答えはひとつだ。


「ゾフィー、安心してください。必ず自分が助けてみせます」

「……あ、ンジェ……っ」


 自分は包帯を取り出し、患部に最低限の止血処置を実施。

 荒い呼吸で死に近づくゾフィーの手を引き、持ち上げて背負い、


「衛生兵! どこかに衛生兵は!」


 塹壕内をさ迷い歩いた。

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