おばりよん
少年は悪だった。
未成年は法律で守られている。酒を飲んで酔った未成年が街角で無差別殺傷事件を起こしたというニュースを見たとき、少年はそれに気付いた。
悪事を働くのなら、今のうちだ。
猶予はあと七年だ。
夕闇の濃くなる逢魔時、少年は悪事の帰りだった。成人なら懲役刑だが、少年は捕まったところで児童相談所止まり。といっても少年も捕まりたいわけではないので、隠蔽工作も口止めもしてある。
しかしそこは子どものやること。特別に総いわけでもない少年の犯行は当然穴だらけで、被害者が訴え警察が介入すれば容易に彼の仕業だと露見するだろう。
それでも少年は反省しない。児童相談所に行っても、年を重ねて未成年でなくなっても、少年は犯罪を繰り返す。 より大きな犯罪を、より多くの犠牲者を。
少年の死罪が確定する日は国民が祝杯をあげる。少年の刑が執行される日は国をあげての祭りになる。
いずれ少年は大悪になる。
しかし、怪異の多くは善悪に因らない。
ただの自然現象として、己の怪異性に触れる条件を充たしたものに見舞う。それが妖怪。
「おぶってくれ……」
黄昏時。かつての小高い山としての前景を残した上り坂。周囲に人影はなく道行く人は少年しかない。だというのにその声は確かに少年の耳朶を打った。弱りきったような男の声だった。
少年は周囲を見回す。やはり人の姿は見えない。道の両脇に草むらはあるが、いずれの草も背が低く、人が倒れていたとしても見えなくなるほどではない。だというのに声の主の姿がない。
「おぶってくれ……」
また聞こえた。聞き違いではない。
「誰かいるんですか?」
少年は薄闇に声を投げる。声の主を慮っての行動ではない。少年は悪行を重ねるつもりで、人を探していた。そこにあっての人の声。しかも具合が悪そうだ。渡りに船と、少年は再度声をかけた。
「僕でよければ、おぶりますよ」
その言葉は待たれていた。
「うわっ……!?」
突如、たっぷりと重量を湛えたなにかが少年の背に取り付いた。四肢らしきものでがっしりと少年の胴を拘束している。驚き体を揺らした少年だが、背のなにかは小揺るぎもせず、張り付いたように動かなかった。
「な、なんだこれっ」
大きさははっきりとしない。子供であるような気もするし、大人であるかもしれない。確かなのは今少年の背中になにかが力強くしがみついているということ。首を巡らせてもなにかの姿は見えない。カーブミラーのひとつもない細道では、自分の背中を確認することはできなかった。
「くそっ、なんだお前!」
振り落とそうと悶え、体を振ってはみるものの、重さのせいで思うように振れない。あまり揺すっては転倒してしまう。それにこうもしっかりと貼り付かれては、多少振ったくらいでは落ちないだろう。
その後しばらく誰何を繰り返した少年だが、背中に乗ったなにかは口を利かず、ただ少年に疲労を与えるだけだった。
わけのわからない状況にあって、その解決を考えて、少年はごく当たり前の、平凡で幸せな解決法に至った。
「お父さんに取ってもらおう」
仕事で平日は家にいないが、週末には一緒にテレビを観る。たまに遊びにも連れていってくれる。時に叱り、時に誉め、お母さんに内緒でおやつをくれるお父さん。
「お母さんに見てもらおう」
おかえりなさいと行ってらっしゃいを言ってくれる。着る服を洗って畳んでしまってくれて、食事を作ってくれて、教育をしてくれる。優しく厳しく、いつも一緒にいてくれるお母さん。
困ったときは二人が助けてくれた。いつも自分の味方である両親に助けを求めよう。
少年は暴れるのを止めて坂道を登り始めた。
重い。一歩踏む度に足跡が押印されるかのようだ。自身の体内に骨の軋む音を聞きながら、少年は今までになく重い足取りで家路につく。
顔中に汗の玉を浮かばせ、荒く息を吐きながら歩く。頭の中には次第に呪詛の言葉が増えていった。
くそっ、くそっ、くそっ、くそっ、くそっ、くそっ、くそっ! なんで僕がこんな目になんで僕がこんな目になんで僕がこんな目になんなんだこれはなにがいるんだどうやって乗ったんだなんで僕がこんな目に他の奴が遭えばよかったのになんで僕がこんな目に………………。
しかしその呪詛もすぐに尽きる。疲労がたまり頭がボーッとする。ただ歩くことしか考えられなくなる。息も絶え絶えに、もはや機械的に足を動かす。背中のなにかはより重く、少しずつ重さを増していく。疲労によってそう感じるだけではない。確かに重量が増している。
肩を掴む手のようななにかが食い込む。胴を挟む足のようななにかが腹を圧す。重さを増していきながら、落とされまいとしがみついてくる。その力強さは少年に絶望を与えた。
家に着くまで自分は耐えられるだろうか。増していく重みが、一歩ごとの疲労が、少年の心に恐怖を挿す。
怖い。怖い。怖い。
母を想う。父を想う。友達を想う。学校の先生を想う。隣のおばちゃんを想う。通学路に立つ父兄を想う。おばあちゃんを想う。おじいちゃんを想う。いとこを想う。
これまでの自分の被害者達を想う。
助けて、と言った男がいた。大の大人が情けない、と笑った。
許して、と言った女がいた。初対面なのになにを、と笑った。
少年は乞う。助けて。許して。誰か助けて。全て許して。
理不尽とはこんなにも怖かったのか。理不尽とはこんなにも恐ろしかったのか。なんの脈絡もなく襲い来る意識外の脅威とは、こんなにも絶望的なものなのか。
自分はいままでなんてことをしてきたのだろう。こんなにも怖い思いを、いったい何人の人間に味わわせてきたのだろう。全ての人に謝りたい。その家族、友人に謝りたい。ごめんなさい。もうしません。これからは人のためになることをします。
そうだ。大きくなったら警察官になろう。悪い人をいっぱいいっぱい捕まえよう。許されなくていい。感謝されなくていい。ただ人の幸せを願おう。
家が見えて来た。居間の電気がついている。よかった、お母さんがいる。もうすっかり暗くなってしまったから、きっと心配しているだろう。お父さんが帰ってきたら二人に全部話そう。思い出せる限りの違法行為を明かそう。
きっと驚くだろう。怒られるだろう。悲しませるだろう。
だが、話さなくてはいけない。
それが贖罪のための第一歩。
少年は確かに改心した。将来大悪になるはずだった少年は、これまでの悪事の全てを悔い、これからは悪事を働かない。
背中のなにかの重さは、もはや巨岩のようだ。少年の足はがくがくと震え、もういつ限界が来てもおかしくはない。だが少年の家はもう目の前だ。
家に着いたからといって背中のなにかがどうにかなる保証などなにもないというのに、我が家を目前にした少年は、そこが天上の楽園ででもあるかのように救われた気分になった。
あと三歩。あと二歩。
とうに足は上がらない。靴底で地面を撫でるように歩いて行く。
あと一歩。
「あっ……」
少年の体がつんのめる。家の敷地に入る、わずかな段差に足をとられたのだ。
前倒れする体の背に重さは感じない。敷地に入った瞬間に背中のなにかが消滅したかのようだった。
怪異の多くは善悪に因らない。
少年の背に憑いたおばりよんという怪異は、そうではない。
悪人であれば頭にかじりつき、善人であれば家に連れると黄金に変わるという。
人とは違う点から物事に関わる怪異であったから、少年が改心するのが分かったのかもしれない。少年の善性を察し、頭をかじらなかったのかもしれない。
少年の体が地面に倒れる。数瞬遅れて、少年よりもずっと重い金塊達が、少年の小さな体に落下した。