2、伊吹の成長と菫の退魔行
十一歳になった。相変わらず伊吹のために月に何回かしか時間を取れないが、それでも年々増えるお稽古や社交の時間を縫って時間を作っていた。三十分しか会えない朝の修行と称したお話の時間がとても貴重に感じる。
梅雨がもうすぐやって来る季節、私たちは九歳の頃から日課になってしまった【身体強化】で山中を駆けまわるルーティーンをこなしていた。
始めこそ数メートル間隔で生える木々にぶつかったり、舗装されていない剥き出しの大地に足を取られて転んだりしたけれど今は昔の話。会話をしながらでもちょっとした霧の中なら木々の間をすり抜け時速二十キロ程度で走り回る事が出来るようになっていた。
「最近は御符の製作を習ってさー、あれ退魔師として実地に行く人はポンポン使っちゃうけど結構大変なんだよねー。あ、伊吹は見た事あったっけ?」
「対人隠匿符を使ってたのはある。それ以外だとグレードの低い退魔拘束符とかかな」
「へー」
ん? 待てよ。退魔拘束符を使ってたのを見た事があるの? あれは、魔之物の動きを阻害する物だけど、まさか実物相手に使ったのを見たの?
「何に退魔拘束符を使ったの?」
「第四級の熊丙種二型だったかな。本当は第六級の予定が、思いの外強いのが出たんで拘束したんだよ」
私より年下の伊吹が何でもないかのように魔之物退治に行っている?
「な、何よ……」
「え?」
「伊吹魔之物退治に行った事があるのね!」
「いきなり肩を掴むなよ」
「いいから答えて! あるの? ないの?」
「あるけど……あ。まさか菫はないの?」
何て事だ。伊吹は行った事があるのに、私にはないなんて!
「次はいつ出掛けるか分かる?」
「十日後……って何処に行く!?」
「お父様に許可貰ってくる!」
全速力でお家に戻り、お父様の書斎へ飛び込む。
「良かった。いらっしゃったんですね!」
「おや、菫じゃないか。どうしたんだい」
「私を伊吹の魔之物退治に一緒に行かせて下さい!」
「またいきなりそんな事を……まだ菫には早い」
私には早い? 私より一つ下の伊吹はオッケーなのに? それって絶対おかしい!
「お父様。私は伊吹より年上ですよ! 何故私は駄目なのですか!」
「しかしね。伊吹君は菫よりずっと厳しい訓練を積んできたからこそだからね。年齢だけで決まるものじゃないんだよ」
「それは遠見家の訓練体制が生ぬるいって事ですか! でも私だって戦う訳じゃないし、付いていく位十分に出来ます!」
「伊吹君が例外なのだよ。彼は親類の無茶ぶりによく耐えたいい子ではあるが、あんな無茶を私は容認出来ないね」
「私の方が背も高いし、魔力量だって倍あるんですよ! いいじゃないですか、いいじゃないですか! 行きたいです行きたいです!」
「しかしねえ」
大概の言う事は聞いてくれるお父様も魔之物退治には危険は伴うから渋ってしまう。だけど、私にそんな態度を取っていいのかな?
「お父様の事、嫌いになっちゃうかもー」
「な!? そ、それは!? す、菫!?」
お。効いてる効いてる。全く感情が篭っていない言葉なのに効果は抜群だ。
「絶対無茶はしません。同行者の言う事を無視しません。危険と判断したらすぐに帰ります。ですから私にも行かせて下さい!」
「そうだな……伊吹くんの遠征行に菫と護衛を随伴させる形で考えてみるか」
「やったー! ありがとうございまーす! お父様大好き!」
「現金な奴め! この!」
と、言う訳で早速十日後の魔之物退治に同行出来る事になった。よし、伊吹にも報告してやろう!
こうして私は喜び勇んで伊吹のところへ報告に行った。
「伊吹! 今度の魔之物退治私も参加出来るって!」
「え? 幸久様の許可は?」
「いいって言ってた!」
あれ。あんまり嬉しそうじゃない。
「何よ、私と一緒が嫌?」
「そうじゃない。ただ初めてなんだろう? 気を引き締めないと怪我するぞ」
「そんなの分かってるよ!」
うーわ! たかが何回か他の退魔師に付いて行っただけだろうに経験者っぷりを見せ付けてきたよ! 年上は私なんだぞ!
心を踊らせながら準備をしていたらあっという間に当日になっていた。
主催者が田口家なので田口家の一室を借りて集合する。
「えー、本日の討伐行でリーダーを務める田口竜斗だ。よろしく。本日はここから車で半日行った先の管理区域で発見された第八級事案に対処する事になる。第八級という事もあり直接戦闘で死者が出る事はありえないが、場所が山岳地帯なので事故があるかもしれない。十分注意する事」
魔之物の起こす事案には特級~第十級までの十二区分があるが、第八級となると一般人でもぎりぎり対処出来るかも知れないってレベルだ。
その程度に田口家から二人、遠見家からも二人出すのか。私たちのための護衛でしかないね。
「油断するなよ」
「し、してないよっ!」
お姉さんを信用しなさい!
ワゴン車に全員搭乗して、四時間ほど経過してようやく現場に到着する。事前説明のあった通り現場は木々の生い茂る山岳地帯。針葉樹が数メートル間隔で何本も生えていて、見通しはあんまりよくない。
「では菫様に索敵をお願いしますかな」
「任せて!」
私の異能、【千里眼】を発動する。対象は魔之物……いた。猪を模した真っ黒い物体。ここから直線距離で六キロってところかな。そう伝えると、竜斗さんは地図で山の起伏を読み取って接敵ルートを決定する。
「歩いて二時間。【身体強化】して一時間でしょうかな。どうされます」
私にだけ聞くのか。伊吹の実力は把握済みって訳ね。
「大丈夫です。【身体強化】しましょう」
「では、対人隠匿符を使っておきましょうか。範囲はこれでいいですかな」
「猪ならそう移動もしないでしょうし、いいと思いますよ」
私の連れの退魔師、剛太叔父様は専用紙に符字を書いた御札を地面に置き効果を発動させた。これを発動させておくと最大で半径二十キロ圏内へ一般人が入れなくなり、圏内の人は直ぐ様その場から離れたくなる。
一応私の【千里眼】で人がいないか探って誰もいなかったから、今回は一般人の邪魔は入らないと思うけどね。
「では、行きましょう」
最前を竜斗様。最後方を剛太叔父様が担当し、私たちは木々の合間を駆けて行く。季節は夏に差し掛かっていて植物は青々と茂り、走っていると体が火照ってくる。
十分毎に魔之物の位置情報を更新しつつ走り続けて四十分。前を走る竜斗様が無言で停止する。全員が集まると、私と伊吹に手招きし一点を指さした。
「見えますか、あれです」
指を辿っていくと、見えた。【千里眼】で見ていたのと同じ、全身が真っ黒の猪の形を模した魔之物だ。おおよそ百六十メートル先という事もあり小さく見えるけど、辺りの木々などと大きさを比べてみると体長二メートル、体高一メートルもある大きな個体だと分かる。あれの突進なんてくらったら足が千切れてしまうかもしれない。
「今日はここで見ていて下さい。相二、お前がやれ」
「はいっ」
田口家の相二様は竜斗様に言われ、少し前に出る。かなり離れているけど、何をするつもりだろうか。
「え!? な、何!?」
一瞬の出来事だった。猪が突如として真っ二つになり、二分割された体も消えてしまった。
「こいつの【物質創造】は水です。今のは【物質創造】した水に運動エネルギーを付加して叩きつけてやったんですな」
「超音速の攻撃だから見えないのも無理ないよ」
凄い……凄いけど、何か呆気無いなあ。テレビと違って見せ場がない。安全第一なのは分かるけどさ。
「来た甲斐はあった?」
「魔之物が見れたのは収穫と思う」
遠くから直接あれを見たけど、遠く離れていても背筋が冷たくなるのを感じた。負の感情から生まれた化け物と言われたら素直に納得してしまいそうな位、おぞましい。
これ以降、何度か魔之物退治に連れて行って貰ったけれど隙を狙って一撃必殺が基本戦術みたい。テレビ番組の派手な戦闘とは全然違う。命が懸かっているから当然だけど、何だか考えてたのとは違うなあ。
「どんな戦いを想像していたんだ?」
「うーんとね、やっぱり肉弾戦が基本でね。何回か小手調べした後に必殺技を使って倒すの。でも違いましたね。退魔師って猟師みたいだなあって」
「ははは。まあ、そう考えてもらった方がいいかもしれませんね」
最初に魔之物退治に連れて行って貰ってから既に一年が経過していた。常連メンバーな竜斗様や相二様ともすっかり仲良くなり、伊吹は自分の【物質創造】が非力だから見切りを付け魔法を習いだし、私は私で遠見家代々の符の作り方を習っていた。
伊吹がハリソン魔法コード22140【雷撃】(三キロの肉塊を一撃で炭に変えてしまう雷撃を撃ち出す……と伊吹に聞いた)で百メートル以上先の魔之物へ何発か着弾させて倒したり、私の作った対人隠匿符で人払いしたりと大人の補助を受けながらも着実に経験を積んでいたときだった。
「今日は第六等級ですか。これだけ高い等級は初めてですね」
「確かにそうだ。でも一体だけだし、そう身構える必要はないさ」
「そうそう。俺たちがいれば大丈夫です」
今日私たちは怪我をした退魔師の代わりに魔之物を退治する事になっている。怪我をした退魔師は二人組で、命に関わる怪我は負ってないけど二週間は入院しないといけない。その間により大きな被害があっては困るため、私たちが出発したのだ。
襲ってきたのは第六級に分類される魔之物熊型。巨大な体躯と俊敏さを武器にしていて、怪我をした退魔師も油断したところをいきなり襲われたと報告している。等級から判断すると、平均的な実力の退魔師三人が集まれば正面対決して十分勝てる相手だ。
その程度の相手に私と伊吹の護衛役も含め五人の退魔師が召集されているので、万が一があっても不安はない。一人で第三級区分の魔之物と戦える剛太叔父様だっているしね。
現場は人里離れた山岳部で、七人の乗っているワゴン車はガードレールもない崖すれすれを走っている。対向車が来たらすり抜けられるか心配だ。
「前から来やがった! ハンドル頼む!」
え?
「くらえっ!」
前を向くと、運転手の相二様が車の前方にいきなり現れた漆黒の熊に超音速の水鉄砲をお見舞いしていた。体長三メートルはありそうな巨大な熊。どうやって隠れていたんだろう?
「やったぜ!」
熊の頭四分の一がごっそりと水鉄砲で抉られてしまっている。でも相二様、あの熊普通に動いてませんか?
「待て! まだ倒していない!」
やっぱり! 十メートルは離れていた距離を跳躍して……うわあ! このままじゃ車ごと潰されちゃうよ!
「させるか! 【防壁】!」
おお、流石は剛太様! 助手席から灰褐色の障壁を作り出し、こちらに飛びかかっていた熊を車の手前で地面へ落下させてしまった。
「俺と相二、輝雄はこいつをやるぞ! 雄図と和代は二人を守って逃げろ!」
剛太様の野太い声で指示された大人たちは返事もそこそこに素早く動き出す。
「伊吹!」
「ああ!」
雄図様と和代様と共に私たちは元来た車道を走って逃げる。魔之物と戦っている三人は私たちよりも遥かに経験も豊富で、第六級程度に手こずる人たちじゃない。むしろ私がいたら全力を出せなくて足手まといになってしまう。
「安心しろ! 剛太さんは退魔師やってうん十年のベテラン。あんな熊公にやられはしないよ」
「そうそう。だから安心しなさい……危ない!」
和代様に突き飛ばされた。一体何が起きたの? 受け身を取った後立ち上がると、和代様が体長二メートルの真っ黒な蜘蛛を蹴りで数メートル先にふっ飛ばしていた。
「留守にして三日でこうまで増殖するなんて! ここは私が!」
「分かった! こっちだ!」
田口家の人だからよく分からないけど、和代様だって退魔師歴は七年になる。あの蜘蛛程度に遅れは取らないと思う。大人しく私と伊吹は雄図様に従い、道を外れて針葉樹の生える森の中へと入っていった。
「……くっ。親玉はこっちだったか!」
針葉樹林に入って数十秒走ったところで、さっきの蜘蛛の二倍は大きな大蜘蛛を中心とした二十匹近い蜘蛛の群れに遭遇してしまった。
何これ、今までと全然違う。こんな、一刻一秒を争うような状況どうしたらいいの!?
「雄図様、わ、私たちはどうしたら!?」
「これは……逃げるしかない。二人共【身体強化】は使えるね? 走るぞ!」
背中を向けて大丈夫なのかなって言う余裕もなく私は伊吹に手を引かれ走らされた。【身体強化】して走っているから、木々が一秒に何本も目の前に迫ってきて少し怖い。
「いいぞ! そのまま真っ直ぐ走れ!」
何分走った事だろう。唐突に雄図様から止まるように言われた頃には息が上がり切っていて、頭が酸素を求めてキリキリと痛み始めていた。心臓もバックンバックン言っていて、呼吸も口をずっと空けてないと駄目。
木に背を預けて伊吹を見ると呼吸が少し荒い程度で、雄図様に至っては息すら平常通りだった。
「ま……撒けた?」
「そうだといいが」
辺りへしきりと視線を飛ばす伊吹の手には、【物質創造】した小型拳銃が握られている。
「こちら雄図! 山中を東に数百メートル進んだところ蜘蛛甲種一型が二十匹近い群れを成していた! 現在南へ逃走中! そちらにも向かっているかもしれない! 終わり」
『分かった。二人は無事か? 終わり』
「はい。【身体強化】も立派に使って付いてきてます。終わり」
『よし。こちらももうじき片付く。追いつくまで耐えてくれ。終わり』
「分かりました。終わり」
無線機を腰のポーチに仕舞った雄図様はこちらに笑顔を向ける。
「安心していいよ。蜘蛛型は足が遅いからね、これだけ引き剥がせばあと数分は追いつけないよ。伊吹君もそれ仕舞っときなさい。魔力の無駄になるよ」
「あ、はい」
「一分休んで菫様の息が整うのを待とう。それから後は小走りで走り続けて距離を保って逃げられる。うん、大丈夫だ」
私のせいで逃走が遅れて何か申し訳ない。罪滅ぼしに、今のうちに魔之物の位置関係を確かめておこう。
【千里眼】を発動させる。私の【千里眼】は最初に目的の物が写ってそれから徐々にカメラが引いていって相対位置が分かる感じになっている。そして、近い順から……ってこれ近すぎ!
「上! 上にいますっ!」
「何っ!? うわ!」
上から落下してきた自転車くらいの大きさの真っ黒な蜘蛛のうち一体が雄図様へ糸を吐きかけ、雄図様の視界を奪う。さらにもう一体が私のすぐそばに降りてきた。
こ、こんな初心者向けの魔之物! こんな奴程度に震えが止まらないなんて……!
蜘蛛がジリジリと近寄って来る中、【身体強化】すらせずただじっと見つめていると何発もの銃声が聞こえ、目の前の蜘蛛は霧散していった。
「大丈夫か!」
「伊吹!」
「自分が守る! まだこの周辺に隠れていないか【千里眼】で探れ!」
「わ、分かったよ!」
【千里眼】を使うと完全に包囲されている事が分かってしまった。一、二、三。三つの蜘蛛の群れが接近してる。
「あっちと、あっち。それとあっちからも来てる!」
「規模は!?」
蜘蛛に手を突き刺した雄図様は木に蜘蛛を叩きつけ霧散させてる。ご、豪快だなあ。
「菫様! 答えて!」
「あ、はい! あっちから五体。あっちが三体。で、あっちからは二十三体! 五体と三体はもうすぐ来ます! ほら、あそこ!」
私が指さした先には、木々を足場に跳躍しながら近付く三体の蜘蛛がいた。いけない、あそこからなら一足飛びに飛びかかられちゃう!
「伊吹左を狙え!」
「はいっ!」
伊吹は拳銃を連射し、雄図様は鋸状の金属製の円盤を【物質創造】して射出する。空中にいながらにして二体は真っ二つに切断され、一体は……って伊吹仕留めきれてないじゃん!
「このっ!」
「危ないっ!」
伊吹が倒し損なった蜘蛛はそのまま伊吹へ向けて突っ込んできた。だけど伊吹は【身体強化】して拳銃で殴り、地に叩き落とす。さらに止めとばかりに蹴っ飛ばすと、ようやく蜘蛛は消失。
「二体仕留めた! 一体そっちに行くぞ!」
「はいっ!」
伊吹が一体に手こずっていた間に五体の群れは雄図様が迎撃していた。十メートルは離れて戦っている場所から、一体の蜘蛛が足をしきりに動かしてこっちに来た! うっわ、気持ち悪い! それに意外に速い!
「消えろっ!」
伊吹が拳銃で発砲すると、五発が当たってようやく魔之物は形状を維持出来ず霧散した。あの拳銃六発入りなのに五発当てないと倒せないのか。【雷撃】なら一発で倒せそうなのにどうして拳銃に拘ってるんだろう。
「伊吹! それじゃ威力足りないんじゃない? 【雷撃】使ったら!」
「威力は低くても動きを鈍らせてくれる。弾数だって多いし。それより、もう一度【千里眼】だ」
「あ、うん……最後の群れがこっちに走ってきてるね。方角はあっち、距離は……六百メートル先かな」
「雄図さん! 聞いてましたか!」
「うん! さっさと逃げようか!」
「はい!」
それから私たちは走って距離を取りつつ、無線機で剛太様が群れを背後から急襲し壊滅させるのを聞いていた。