1、伊吹の挫折を菫は見てる
退魔師と聞いて、現実に存在すると考える人間はいないと思う。
小説や漫画、アニメの世界の産物だと普通考えるだろう。
だけど、紛れも無く、私の家族は退魔師一筋何百年の歴史ある一族なのだ。残っている家系図を辿っていくと、四百年位前まで遡ることが出来る。
家族の歴史だって残っていて、子供の頃からご先祖様が恐ろしい怪物と戦ったお話を聞かされてきた。本としても編集されていて、本棚には何冊も我が家の歴史が書かれた本が日本史や世界史の歴史書と一緒に並べられている。
そして、今でもその力を私たちに受け継がれている……そうだ。私はまだ何も出来ないけれど、お父様は睨みつけただけで物を発火させて消し炭にしてしまうし、お母様は千里眼で無くし物をすぐに見つけ出せる。お兄様は遠見家代々に伝わる異能二つ共を受け継ぎ、後継者として申し分ない……らしい。私にとってはただの優しいお兄ちゃんなんだけどな。
私の家族が退魔師なら親戚だって退魔師が大勢いる。お正月とか特別な日になると何百人と人が集まってきて自分のお家なのに居心地が悪くなっちゃう。
我が家の周りの人だってみーんな退魔師一家。ここいら一帯のお家の表札は遠見か田口の二つに一つしかない。たまーに、違う名前の表札があったって血はどっちかの家系に繋がっているんだよ。これって、山の中の小さな村といえど凄い気がする。
ちなみに遠見家が我が家。で、田口家がお隣さん。田口家は遠見家と違って明治の頃から興った新興退魔師一家なんだけど、その異能が特別強力だったものだから一代にして退魔師界で名を轟かしたとか何とか。
でも、あまりに特殊だったから孤立していたところをうちのひいおじい様が誘ってあげたんだって。伊吹を見てて何も違ったところなんて分からないけど、何が特殊なんだろう。我が家に代々伝わる異能、【千里眼】と【発火眼】だって普通の人が見たらびっくりすると思うのだけど。
退魔師として私たちの一家は営々とその力を受け継いでいる。でも、それを街に住んでいる人たちは知らないし、教えてはいけないと教えこまれた。私のお父様やお母様はインチキ超能力者じゃないのに、どうしてって聞いた事がある。
そうしたら、退魔師が狩る魔之物は人に知られる事で強さを増してしまうからって教えられた。魔之物は知られる人が多ければ多いほど、強くなっちゃうんだって。だから、お父様やお母様が無事に退治して帰って来るには秘密にしておかなくちゃいけないのだ。
でも、私たちの知ってる人みーんな、退魔師を知ってる人ばっかりなんだけどな。伊吹はこの村にいる人なんて田舎だし日本の人口に比べたら凄く少ないから知っててもいいんだって言ったけど、じゃあどの位ならいいのかって聞いたら黙ってしまった。
確かに伊吹の言う通り、我が家があるのは田舎も田舎だ。コマーシャルに出てくるような高いマンションもないし、新幹線が通る立派な駅もない。
何かを買いたい時だって、コンビニエンスストアとか、スーパーマーケットとか、ショッピングモールなんて縁がない。食料品は契約先の人が届けてくれるのが普通じゃない? 服もおもちゃも、お父様に頼むと持ってきてくれる。
でも、伊吹のお家は服もおもちゃも買ってくれないらしい。私のお母様より優しそうなお母さんだったけど、お父さんが厳しそうに見える。いっつもむすっとしていていつも
優しく笑っててくれる私のお父様とは大違いだ。
噂をすれば何とかだ。伊吹がうちの塀を飛び越えて入ってきた。
「おはよー。今日も逃げてきたの?」
「逃げたんじゃない。先生の稽古を付けてるんだよ。僕を逃がすようじゃ魔之物との戦いで怪我しちゃうから、気を引き締めてもらわなきゃ」
「何それ、変なの」
伊吹とは赤ん坊の頃からの付き合いなんだそうだけど、そんな昔の事を話されても困る。私が覚えているのはもうすぐ三歳になる頃に、田口家に行って会ったのが伊吹との最初の思い出。お母様同士で仲良くなってお互いに訪問してたんだって。私たちが大きくなってからはやめちゃったみたいだけど。
四歳になる頃までは、伊吹ともほかの子たちともいっぱい遊んでた。でも、私が四歳を過ぎてから伊吹は急に忙しくなっちゃって、それでも時々抜けだしてきた伊吹とみんなで遊んでたんだけど、突然ほかの子たちは伊吹が来ると嫌がるようになって……それで私はほかの子より伊吹を選んでしまった。
といっても、お家に呼べなくなっただけでほかの子のお家にはよく遊びに行くんだけどね。私、女の子の遊びより男の子の遊びが好きだから伊吹の方が好きだし。
「それより! 録画しといたスーパーヒーローショー見る? 今日のは凄かったよ!」
「ふうん。見る」
伊吹の家にはテレビは一家に一台しかなくて、それも子供が見ちゃいけないらしい。だから面白いテレビも伊吹はほとんど見てないのだ。伊吹は勉強ばかりしてて難しい事言ってくるけど、テレビに出てくる難しい漢字クイズとかを出してやれば答えられない。つまり、私の方が頭のいい事が分かる。
「じゃ、来て来て!」
廊下から家の中に行くと、途中でお兄様に会った。高校生になったくせに、いっつもぐーたらでねぼすけ。もう十一時なのに、やっと起きたの? お父様たちは何も言わないけど、親戚の人たちはすっごいうるさく言ってくるんだよね。
「おっ! 今日も伊吹来てたか! どうだ、将棋でもしてくか?」
「ちょっとお兄様! 伊吹はスーパーヒーローショー見るの!」
「何だ、じゃあ一緒に見るか。おら、来い!」
いっつもお兄様は伊吹を見掛けてはちょっかいを出してる。持ち上げたり、肩に乗せたり。伊吹ばっかり、何かずるくない?
「おっと! 避けた! 僕の勝ち!」
「やるようになったな! だが俺には勝てないぞ!」
「うわっ! ずるい! おっきいくせに!」
伊吹の動きは最近よくなったけど、お兄様にはとても叶わない。だってお兄様期待のホープだもんね。退魔師が伊吹に負けてちゃカッコが付かないよ。
みんなでテレビの前に座っていると、お母様が果物を切って持ってきた。
「あ、お邪魔してます」
「ふふ、そんな挨拶いいわ。伊吹君いらっしゃい。ほら、美味しい林檎が届いたのよ」
「ありがとうございます」
「あれ、俺の分は?」
確かに。二皿しかないね。
「誠人さんには朝餉の時に出したじゃない」
「えー、じゃあ何で菫の分はあるんだよ」
何言ってるの。私はまだ子供なんだから、いいの。
「あの、どうぞ」
「お、やった! やっぱ伊吹は優しいなあ!」
「あら」
「あげなくてもいいのにね。お兄様さっき食べたんでしょ」
「うるせー。お、そろそろ必殺技来るな。雰囲気で分かる」
お兄様とお母様と一緒に伊吹と遊んで、きっかり一時間後。女中の佳子さんが申し訳無さそうに入ってくる。
「奥様。田口家の方がお見えです」
「あら。もうそんな時間なのね」
「じゃ、僕戻ります」
「何だもう一時間経っちまったか。今度来たらゲームしような」
「はい」
伊吹が自由になれるのは一時間だけ。抜け出してもいいけど、時間は守って帰ってくる。伊吹のお父さんとそう約束をしたと聞いた。
「またね、伊吹」
「うん。また抜け出してくるよ。行こう、清香さん」
玄関でお見送りしたら、途端に寂しくなってつまらなくなる。お兄様で暇つぶしするか。
「あれ、お兄様は?」
「修行だそうで、剛太様とお出かけになられましたよ」
え、いつの間に。ちぇ、せっかく遊んであげようと思ったのに。まあ私だって暇じゃない。テレビとかを見ていいのは、お勉強やお稽古をしっかりしてるから。あんまり楽しくないけど、伊吹だけ漢字が並んでいる本を読めたり物の数をしゅぱって計算出来るのって、ずるいもの。最近は魔力の正しい扱いまで習いだしたって言うんだから負けてられない。私も才能はあるってお父様言ってたし、テレビみたいに格好良く動いてみたい!
よし、やるかー。
六歳になると、小学校に通う事になった。と言っても、通うメンバーは幼稚園と変わらない。
何故なら、遠見家で私立学校を運営していてそこに通う事が決まっている。古くは江戸時代の終わりに設立された私塾を起源としていて、遠見家と田口家の補助金で村のみんなが無料の教育を受けられるようにしているとか何とか。
この学校が凄いのだ。鉄筋コンクリートで出来ていて、広いけど木と漆喰ばかりの我が家とは大違い。それに平屋の我が家と違って三階建てで、屋上もある。
勉強は幼稚園からの続き。でも、教室に並べられた机にみんなして座って教壇に立っている先生が黒板にチョークで説明するっていうのは新鮮でワクワクする。ただ、先生が幼稚園よりもずっと厳しいんだよね。優しく注意してくれない。ちょっと怖いかも。
授業でやっている内容はそんなに難しくない。でも、遠見家として範を示す必要があるから私は授業内容よりも先へ先へと自習していかなくちゃならない。友達に今ここをやってるんだよって言ったら、それって一年以上先にやるとこだよって驚かれた。
これなら伊吹にも追いついたかなって思ったけど、甘かった。難しい問題を聞くと、スラスラ教えてくれるって事は私のやっている範囲は伊吹にとって何でもない問題って事になる。一つ下のくせに見上げた奴だ。
「伊吹はさ、辛くないの?」
「何が?」
私たちが会える時間もめっきり減っちゃったように思う。学校に通って、放課後はずっとお勉強にお稽古。学校のない日曜日だって遠見家主催のお茶会とかイベントだらけで休める時間があんまりない。時々お友達と遊ぶ機会があってもそれは両親が作ってくれた時間で、女の子同士になりがちだ。
「だって社交界とかに出されたら何々ですー、とかありますのよー、って口調変えなきゃだし、勉強とかお稽古とかで遊ぶ時間全然ないしさ。私たちを怖がってるのか知らないけど近寄ってこない子たちいるじゃん。そういう関係ない子たちはいっぱい遊べてるんだよ。何か羨ましくならない?」
「その代わり、僕らにはやるべき事が決まっている。退魔師になって平和を守るんだよ」
「決まってるのっていいのかな? やりたい事が別に出来たりしない?」
「菫にはやりたい事があるの?」
やりたい事か。そう聞かれると退魔師しか浮かんで来ない。でもこれって、退魔師しか知らないからじゃないかな。もっと世の中には色んなやる事がある気がする。
今はまあ、退魔師も悪くないって思う。世の中に隠れてひっそりと魔之物退治っていうのも格好いい。
「今はまだ分かんない。伊吹は?」
「僕は田口家をまた盛り上げなきゃいけないんだ。姉様が失敗した【物質創造】を僕がやり遂げないと」
「そう言えば、田口家の人ってよくそういう事言ってるね」
伊吹こそが田口家復活の星だとか、伊吹の代から田口家はまた往時の力を取り戻すのだとか。伊吹ってそんな凄いのかな。
「僕が田口家で一番魔力量が多いんだって。それで、姉様も魔力量が結構多かったからその傾向に期待を寄せてるらしいよ。よく分からないけど、僕が頑張らなきゃいけないんだ」
そうは言うけど、伊吹の魔力量って私の半分でしょうに。田口家の人は相当魔力量が少ない。
「小学生になってから、私はちょっと大変だなあって思ってるけど伊吹はそう思わないの?」
「疲れるよ。でも僕がやらないとだから」
「ふうん」
使命に燃えてるヒーローみたいだけど、伊吹にはスーパーパワーもないし超能力も持ってない。それに何かこの話題になってから伊吹の表情が暗い。
本当は辛いけど、我慢してるんだ。私よりもっともっと忙しい伊吹に愚痴を言っちゃいけなかった。
「せっかくだし、遊ぼうよ。何かある?」
「おもちゃはないなあ。何が出来るかな」
伊吹の部屋には物がほとんどない。文机に座布団だけで、後は全部押入れの中にある。伊吹は押入れを開けて何かないか探しているけど、二段になった押入れの上半分は布団と衣類。下半分も本ばっかりだ。
「いいよ伊吹。お話しよっか」
「それしか出来ないんだけどね」
苦笑する伊吹は分かってないね。今じゃ畏まらずに喋れる相手は伊吹しかいない。テレビを見てる子もいないし、いや伊吹も見てないけど、スーパーヒーローの話なんて一度しようとしたら馬鹿にしてたからね。思わず話題を思いっきりずらしてあれ以上馬鹿にされるのを回避したけど、あの時は怒りを抑えるのに苦労したなあ。
「そりゃ私だってねフィクションだってくらい分かってたよ! でも糸が見えるとかフェンスが切れないとか何で馬鹿に出来るかな? みんな必死で平和のために戦ってるんだよ!」
フィクション……信じられないよ。あの戦いが偽物だったなんて……。
「その馬鹿にしてた子って本当は見てたんじゃない? 見てないとフェンスが切れないとか分からないでしょ」
「え? あ、そっか!」
という事は優香さんは……いやでも、おもて切って話してもはぐらかされるだろう。弟が見てただけかもしれないし。後で探り入れてみよっと。
「それに正義の味方が公共財を壊したらまずいでしょ。無意識に手加減したのかもよ」
「は、ははは……ありがとう」
悪役が思いっきり攻撃しても切れてなかった場面とか結構見つけちゃったんだよね。気付いてなかった時は全然気にならなかったけど、一度指摘されると目に入っちゃう。
その後も一時間はお話した後、私はお家に戻った。あーあ、これからお稽古だよ。嫌になるね!
九歳になった。この頃になると魔力の扱いについても本格的になって、【身体強化】で大人並みの力を出せるようになり胸の高まりが抑えられない。
同時に力の扱い方についても教え込まれた。無闇に力を使っちゃ駄目。一般人を力に任せて言う事を聞かせちゃ駄目。当り前の事なのに、改めて注意される必要あるのかな。お父様によれば、他家ではもっと精神が成熟するまではこんな事を教えないらしい。
確かに、それとなく周りの友達に聞いたけどまだ概念レベルでしか魔力の扱いは習っていないようだった。
性格によっては魔力の扱いを教えすらしないっていうから、私はそこら辺まともって判断されたようだ。伊吹は私よりも大分前に魔力についても訓練していたようだけど。
「伊吹様、どうかされました? お加減がよろしくないので?」
「菫か……何でもない」
嫌な予感がしたので学校で伊吹の教室へ行ってみると、暗い表情で机に座る伊吹の姿があった。普段は取り巻いている田口家分家連中は普段伊吹に畏まっているくせに今は嫌な笑いを浮かべている。表立って何か言う勇気はないけど、陰口は聞こえるか聞こえないかで喋るなんてひどい奴ら!
最も、伊吹は陰口を耳に入れる事さえも出来ない位ショックを受けているように見える。
あちゃあ、これは昨日の噂が本当だったのかな。
昨日、伊吹が田口家固有の異能【物質創造】を発現したとお家の人たちが噂していたのだ。だけど、その発現した異能がしょぼかったらしい。
周りの大人たちが伊吹に期待を掛けて私より何倍も厳しいお勉強やお稽古をさせて、さあ【物質創造】が発現したら見放したって訳だ。
陰口連中は睨みつけて蹴散らしたけど、放課後に様子を見に行っても伊吹は黙って下を向いたままだった。
何とかゆっくり話せないだろうか。そう思ったけれど、私にもやる事はたくさんある。どうにか都合を調整しても、二週間が経過していた。
「いらっしゃい菫さん。よく来てくれたわ」
出迎えてくれたのは伊吹のお母さん。若くて綺麗でしかも優しいと三拍子揃った素敵なお母さんだけど、今日は何だか心労を抱えてるように見える。十中八九、伊吹関連だろう。
「伊吹に会う前に、私とお話してくれないかしら」
「ええ。構いません」
案内されたのは、お母さんの私室。伊吹の部屋に負けず劣らず物が置かれていない。流石に化粧鏡とかは置かれているけど。
「最近伊吹に元気がないのはご存知よね」
「はい」
やっぱりそれだよね。女給さんから頂いたお茶を啜りつつお話を伺う。
「あの子には重荷を背負わせてしまったわ。本当は背負う必要なんてなかったのに……凛の【物質創造】発現からずっとね」
「凛様と何か関係が?」
お母さんは全てを話してくれた。
田口家は【物質創造】という異能を発現した事で今の躍進がある。
しかし、【物質創造】が再現出来る物質の種類は代を経るに従い制限されつつある。
田口家初代が発現した【物質創造】は見た物を何でも再現してみせた。だが、二代目である伊吹の祖父は触れた物を。そして伊吹の父の善臣様は金属だけを。祖父と父の能力は当時の世代の中で最も強力なものであった事で次世代当主に選ばれている。
このままでは田口家は衰退してしまうのではという危惧が一族全体に広がりつつあったそうだ。
それなのに伊吹のお兄さんである烈様の【物質創造】はというと、摂氏一千度を上回る金属が対象だった。義臣様の能力の劣化版とみなされた。また、烈様が発現した【物質創造】は曽祖父がもうけた四人の子の内三人が発現したレベルと大差がなかった。
そういた危惧の中、凛様が初めて【物質創造】を披露した時、田口家は驚喜した。何故ならば、久しく現れなかった多種類の物質を創造出来る異能を発現したからだ。
義臣様の劣化版に過ぎない烈様と違い、凛様こそが田口家の次期当主とはばかることなく主張する者すら現れた。
だけど、数週間に及ぶ能力の検証で百キロを上回る重量物が【物質創造】出来ないと判明した際、周囲の落胆は大きかった。
その際、次の期待の星に祭り上げられたのが……伊吹だ。
凛様は伊吹が生まれるまで田口家最大の魔力を有し制限はあれど様々な物質を【物質創造】して見せ、その次の子は田口家で魔力が一番大きいときた。成長すれば最強の力を持つのではないか、制限のない【物質創造】が再度見られるのではないか。
「それで伊吹には酷な事をさせてきたわ。でも、二週間前の仕打ちは……」
伊吹のお母さんの顔に怒りが浮かぶ。でも、それはすぐに消えて私へ微笑む。
「あの子は裏切られたのね。今まであの子が頑張っていたのは周りの大人の期待に応えるため。それなのに失望の罵倒を受けて……私も止めなかった。私では傷を癒やす事は出来ないみたい。でも、菫さん。あなたなら出来るかもしれない」
伊吹の部屋へ案内される。ここに来たのも久しぶりだ。半年振りかな。
襖を開けて中に入ったが、中は代わり映えがしない。座布団に文机、それ以外目立った物は置かれていない。
「や、久し振りだね」
「学校では会ってるだろ」
いつもはこうして会うと笑ってくれるけど流石にそんな余裕がないみたいだ。口ぶりは平静を装っているのに、表情には陰が見える。
うーん、まさかいきなり気にするなっても言えないよなあ。ここは世間話で場を和ましてからでしょう。
「いやあ! こうして会うのも久しぶりだなー! 懐かしいぞ!」
「何だよいきなり。重いって」
座ってる伊吹の背中にのしかかっただけじゃないか。そんな嫌そうな声を上げるなよー。
「いいじゃないか。鍛えてるんでしょ……あっ」
いけない。鍛えてるとか今は禁句だ。誤魔化さなきゃ!
「変に気を使わなくていいよ。聞いてるんでしょ」
「あ……その、うん」
「あれ以来楽になったよ。お稽古とか、戦闘術だって訓練日数が大分減った。のんびり出来て最高だよ」
どう見ても無理してるのは伊吹の方だ。でも、私には慰めの言葉をどうかけていいか分からない。
下手に声を掛けたら逆に傷付けてしまいそうで、口を開いても声を出せない。
「何も言わないで。こんな時言いそうな言葉くらい見当が付くよ。気持ちは嬉しいけど、言わないでくれた方がもっと嬉しい」
涙がにじませて強がる伊吹を見ていたら何だかたまらなくなって、気付いたら抱き締めていた。
「もういいよ。分かった。伊吹の言いたい事分かるよ」
泣き声は上げず、目を閉じて静かに伊吹は涙を流した。でもそれもたった数分だった。目を開いた時、乱暴に手で顔を拭うと伊吹はもういいよと私の手をほどいた。
「ありがとう。助かった」
恥ずかしかったのか、視線を左右に揺らしながら伊吹はそう呟いてそれ以降弱味を私に見せる事はなくなった。
それでも心配で、私は時間をやりくりして何とか月に一回はゆっくり伊吹と過ごせる時間を作るようにしたのだった。ついでに【身体強化】の訓練として毎朝三十分一緒に山中を走る約束も取り付けた。これ、伊吹のお父様にも了承を得たのはいいけれど、雨でも雪でも走らされるの辛いよ……。