03 お爺さんと精霊たち
まずは、このページを開いてくださったことに感謝を。
少しでもお楽しみいただければ幸いです。
ジーチャは、VRMMOオールネンドワールドの、最年長プレイヤーである。
そんなお爺さんの、とある一日を紹介しよう。
年寄りの朝は早い。
真っ暗な中、冷たい水で顔を洗う。
嫁いだ娘が知れば電気をつけろと怒るだろう。しかし、慣れた住まいの中に自分ひとりとなれば、予想外の場所に物があったりはしないものだ。
玄関を出て、軽く伸びをする。バイクの音が家の裏手を右から左へ通り過ぎる。ゆるく腕を動かしながら深呼吸。今度は、左手からバイクの音が近づいてくる。いつも通りバイクのにいさんから直接新聞を受け取る。
寝室へ戻ると再び横になり、枕元においてあるVR機器を装着する。リストバンドのような物を両手首にはめて、目元をすっぽりと覆うグラスをかける。耳元の電源を入れると、穏やかな眠りに引きこまれ、ゲーム世界で目を覚ますことになる。
ゲーム世界は、現実世界の4倍の速さで時間が流れている。
ジーチャがログインしたのはネンドタイム11:37。昼近い時間。
場所はプレイヤーの個別エリア、『アトリエ』。
ジーチャのドールはかなり小さい。身長20ミージ程しかない。
ドールが起き上がったのは、平屋建ての日本家屋の広い縁側。目の前には日本庭園。普通サイズのドールで模型のように組み立て、細部を現在の小さなドールで作り上げた、趣味の城だ。
アトリエの初期サイズの半分がこの広い屋敷で、残り半分に通常サイズのドールが転がり、資材置き場にもなっている。
ジーチャのドールの外見だが、某ねずみの国版の白雪姫で眼鏡をかけた白いひげの小人を、思い浮かべてもらえば近いだろう。
「やはり庭園の左端に、どっしりとした感じの岩がほしいな」
ひとつうなずきジーチャは出かける準備にかかる。
納屋から手押し車を引き出し、庭の外の資材置き場まで運ぶ。途中で飼い犬? のポチが、矢筒を咥えてきて手押し車に乗せた。
ログアウトの予定時間をタイムパネルにセットして、視界の隅においておく。
アトリエから外界へ扉を開く。出現した地図で扉の出口を指定する。
付喪神のような弓のような、変なのが自力で裏木戸を開けて追いかけてきた。手押し車の上で飛び跳ね存在を主張する。
「ポチもくるのか? 行くのはフィールドでないぞ」
これを聞いて弓? はあわてて頭に矢筒のベルトをひっかけると、赤い長靴を履いた足でテッテケと家の中へ取って返し、すぐに手綱と鞍を咥えた子犬のポチが走ってくる。
この犬と弓、中身は同じソウルだ。
ネンドワールドはなにしろ、何でもかんでもネンドで出来ている。
ファンタジーゲームにありがちな武器のひとつ弓だが、ネンドで作った弦は、当然だが千切れて引けない。使える弓にするには、モンスター使役用の『テイムコア』を埋め込んで、生体武器にする必要がある。しかし動けないドールでは、元がモンスターといえども良心の呵責が伴う。そこで弓を使わないとき用に犬型のドールを用意してあるのだが、「モンスターを狩りたいわけでなし、持ち歩くのは邪魔だ」と、言われてしまい足が付いた。
作ったのは孫だ。暑さが厳しかった昨年の夏、お祖母さんが死んだ後、このゲームをお祖父さんに紹介したのも。
テイムコアをもうふたつ確保したら、矢筒と猫の一心二体のペットを作る予定だ。
さて、やってきたのは地下街の地下。ゴミ置き場。
ゴミというが、全てネンドなので悪臭はない。雑多なネンドが山になっているだけの場所だ。たまにコアやチップなどが間違って捨てられていたりと掘り出し物がある。
しかし、基本的には黒いネンドの入手場所と考えて間違いない。作りかけで放り出した物、なにかの残骸らしき物。複数の色のネンドが混ざり合ってゴミの山を形成している。
「あら、おじいちゃん。いらっしゃい。早いのね。向こうは早朝なのではなくて?」
「闇のねえさん、じゃまするぞ」
「えぇ、どうぞ。好きなネンドを持っていってくださいな」
声をかけた女性はニュクスという名で闇精霊。地下街に住まう特殊AIのひとり。ジーチャのドールよりもさらに小さい身長5ミージ。その名前だけは公式HPにしっかり載っているが、実際に見たプレイヤーはほとんどいない。
当たり前に挨拶を交わしているジーチャは、ここに来るたび会っているので、準GM権限持ちのAIだとは知っていても、稀な存在だとは思っていない。
ポチの背中にまたがって、ゴミ山の上を行ったり来たり。天井から降ってくるゴミはあっさりかわして、良さ気なネンド塊を探す。
形は後から整えることも可能だが、微妙な色の混ざり具合は狙って作れる物でなし、自然に混ざった趣きある物を探す方が容易い。
あれでもない、これでもないと、たっぷり迷いながら楽しい時間を過ごす。
ある程度目星をつけたところで、時間を置いてから見直すのが良かろうとゴミ置き場を後にする。
タイマーが鳴るには少し間があるが、きりがいいのでアトリエに戻ってログアウト。
窓の外が白んでいるのを確認して、起き上がる。電源を落としたゲーム機を、枕元に置く。
向かうのは近所の公園。三々五々集まった老人会のメンバーで、ラジオ体操とゲートボール。退職して以降、長年の日課だ。
余談だが、退職した仕事とは昔ながらの植木屋で、還暦過ぎても木に立てかけただけの梯子を上り下りする元気なお爺さんだ。そして亡くなったお婆さんは、庭木の刈り込みを定期的に依頼していた家の箱入りのお嬢さん。いわゆる逆玉の輿だが、ご近所で有名な恋愛話である。
一度家に帰って隣家へ、朝食は息子夫婦と一緒にとる。
息子夫婦が住むのは、お婆さんの育った家だが、古くて広くて掃除が手間だ。譲ったというより押し付けたが正しい。
庭の手入れだけは、今でもお爺さんがする。
休日出勤する息子を見送って帰宅、再びログイン。
今回アトリエから開いた扉の先は、地下街中央広場。多くのプレイヤーの交流の場だ。ゴミ置き場から螺旋階段を上った先になる。
中央広場を囲んで、北側に『役所』、南側に『教会』、西側に『銀行』がある。この3つがゲーム内の主要な施設だ。残る東側はイベント用の舞台があるが、使用料の高さから未だプレイヤーに使われたことはない。前回の使用はNPCによる新年のオープニングセレモニーだ。
そんな立地の中央広場は真ん中に噴水とベンチがあり、これを囲むように『クエスト掲示板』と呼ばれている大きな石版が4枚存在する。螺旋階段は石版のさらに外側を囲むように存在し、地下街の天井まで続いている。
ポチは噴水の側に伏せ、目を閉じる。ベンチと植え込みの間の、小さな隙間だ。
ここでしばらく休憩するのがいつもの習慣だ。
ドールには『乾湿度』というバロメーターがある。乾きすぎると古い土壁のようにぽろぽろ崩れ、水に濡れれば溶け崩れてしまう。
だからここの噴水も周りに水が飛び散るような物ではない。円盤状の受け皿を数枚伝って水が流れ落ちる形だ。地下街の中では湿度の高い場所なので、渇き気味の時にここに立ち寄る。
ジーチャは目の前にインターネットのパネルを開いて、新聞に記されていた今日の暗証番号を入力する。ゲームを始めてから紙の新聞を読むことがめっきり減った。
「こんにちは? それともおはよう?」
「どっちでも構わん。水のお譲」
噴水の円盤下の窓から声をかけてきたのは、水精霊のウンディーネ。
「ん。おじーちゃん、今日もげんき?」
「まあまあといったところか」
「そっか。今日の昼の明日と夜の明後日って何かある?」
「特にはないぞ」
「それじゃさ……」
特別な立場のAIが、ひとりのプレイヤーに構っていていいのかと言われれば微妙だが、ソウルの色を確認しない限りプレイヤーとAIやNPCの区別が付かない。大まかに言えば平凡な容姿服装のNPCと、いかにもな容姿の特殊AI。そして、十人十色な個性的なプレイヤードール。
と、あたりをつけるのだが、ジーチャの場合精霊たちと並ぶとたいていのプレイヤーから精霊の仲間と誤解を受け、公式に載っていないとSSを撮られはしても、文句を言われたことはない。SSを撮る際に断られればプレイヤーだとその場で言うし、無断で撮ったなら断りを入れなかったほうが悪い。
なにより、植え込みに潜り込むような場所にいる、ふたりに気付く者が少ない。
ウンディーネとたっぷり喋って夕方、ポチの背に揺られて螺旋階段を上る。テラスと呼ばれる小さな公園ほどの広さの、階段の踊り場の片隅。植え込みの下、緑のトンネルをくぐって進むと、大きな樹のウロに出る。大きなといってもテラスに生えるサイズだから、そこまで極端な物ではない。ジーチャのドールからすれば、大きいというだけだ。
樹の中に住んでいるのは風精霊のシルフ。
「風の譲ちゃん、届けものだ」
「あら、あら、まぁまぁ。あの子ったら」
届け物は、ウンディーネから。
「別に構わん。ここからの眺めんは悪くない」
「ありがとう、おじいさん。かわりにお茶でもいかがかしら?」
「残念だが、わしは飲み食いはできん」
この世界で飲み食いするには、ドールをカスタマイズしておく必要がある。
「ちょうど良かったわ。これどうぞ」
「ホールコアか?」
「落し物なのよ。出口がゴミ置き場なのは確認済み。この近くの地面に埋まってたのだけど」
「それは貰って構わんのか?」
「持ち主分からないし、私はいらないもの」
「まあよいか。せっかくだ」
受け取って持ち帰ろうと手を出すが、
「わたしが埋め込んであげるから、少しの間ドールから出てくださいな」
確かにこの場で埋め込んでもらえれば、そのままお茶をごちそうになれるだろう。素直にドールアウトしたジーチャだったが、横から抜け殻となったドールを掻っ攫った、たくましい腕があった。
「待て! おっちょこちょいのシルフにドールを任せるな。危ないだろう」
「ひどいわ。確かに私はちょっとドジなのがチャームポイントだけど、首筋にコアを埋め込むくらい出来るわよ」
「首筋に埋めてどうする? 埋めるのは喉の奥だ。それと口の中に防水処理も必要だろうが」
黄土色の髪に茶色い肌の青年は土精霊のノーム。ネンドの扱いにかけてはAIたちの中で一番の腕を持つ。
「ああ、確かに。防水もいるんだったな」
ノームの腕の中、再びドールインしたジーチャはシルフの手の中からコアを掠め取り、さっさと帰ることにした。
「これはありがたく貰っておく。土の兄さんもまたな」
「……おお。爺さんまたなー」
「今度はお茶しましょうね」
シルフの住まいから直接アトリエに扉を開いて戻って、ログアウト。
川岸の遊歩道をのんびり歩く。橋につながる道まで出たところで川から離れる。家からの経路としては大回りだが、ちょうど昼時になった。
向かいのコンビニでおにぎりだけ買って、老人会の寄り合い所へ。セルフサービスでお茶を入れて、将棋を指してるテーブルへ向かう。
「そこは、右下を先に……」
「教えるでないわ」
「言われんでも知っとる。ここから巻き返すんぢゃい」
「それは悪かったな。とりあえず授業料だ」
「あ、ワシの卵焼き」
のほほんとした昼食後、和菓子屋でひなあられを買って、住宅街を抜けまっすぐ家へ。ひなあられはとりあえず仏壇に供えておいて、ネンドワールドへログイン。
再びやって来たのは、クエスト掲示板のある中央広場。休日の昼過ぎとあって、多くのプレイヤーで賑わっている。
大きさ的に踏み潰されかねない、ジーチャがアトリエから出現したのは螺旋階段の手すりの上。
テラスから垂れている蔦につかまって揺らせば、掲示石版の上。いたずら防止のためか、石版の上に扉を開くことはできない。
後ろからドール全体をたわませて跳び移ってきたのは、今度こそ弓として役立つ予定のポチ。
ウンディーネから頼まれていた依頼書を探していると、悲鳴が聞こえた。
場所は役所の真ん前。ざわめきが広がり視線が集まる。
ひとりの青年が、少女を捕まえていた。
「バカが出た」
誰かがつぶやく。
アトリエを開く時は邪魔にならない位置で。というのがマナーだが、次々に遠慮なく込み合う広場に扉を開き、退避していく攻略組みのプレイヤーたち。
残ったのは野次馬の類。
「さあ、泣け喚け! 精霊を呼べ!」
「きゃーっ! ぃ……やめ……」
棘のついた黒い鎧のおそらくプレイヤーだろう青年が、NPCらしき地味なエプロンドレスをまとった少女の腕をひねり上げ、剣を突きつける。
「おい。やめろ」
「NPC泣かしたら雨が降るだろが!」
少女の涙を発動キーに『Sの守護』という特殊スキルが展開する。少女と青年を中心に、地下街だというのに大雨が降りだす。
「防水対策ぐらいしてあるけどさ。これマジ精霊見れるんかな」
「地下街の守護AIだっけ? 見たいよね」
「そらよ! これでどぅでい!」
青年が袈裟懸けに少女を斬り殺す。
「きゃー!」
「わー?」
「げっ、すげ……」
「やりやがった!」
無責任に歓声を上げる野次馬たち。不愉快な光景きわまりないが、そう思うプレイヤーはとっくに退避済みだ。ここにいるのはNPCを、レアキャラ出現のアイテムとしかみていない者たち。
弓で狙撃することが頭をよぎったジーチャだったが、事が急過ぎ、場所も悪かった。野次馬が多すぎる。
唐突に横に出現した同サイズな少年に腕を引かれ、テラスまで退避する。
「もう、遅い。あいつらは全員、自業自得」
そう言う少年は真っ赤な髪に、くりんと丸い目の幼い容姿。火精霊、サラマンダー。
アイテムホールから取り出すのは黄色いレインコート・長靴と傘。全部ふたつずつ。
「じいちゃんがあの子を助けようとしてたのは、見えてたから守ってあげる。上にいれば大丈夫だと、思うけど念の為これを着て」
アトリエに戻れば確実安全だろうが、気になるのも確かだ。サラマンダーとジーチャはおそろいの防水装備で、テラスの手すりに腰かけ見物体勢。
下では、事切れた少女に近くにいたNPCたちが取りすがり、嘆き悲しむことでスコールの範囲が拡大中。
NPCとはいえ殺されたことは悲しく、やるせなくは感じるが、死体を見た驚きなどはない。
傷口の断面は、骨も何もなく、ただのネンドだ。血も出ない。NPCの造詣は、動いていれば生きているように見える程度の容姿に抑えられているので、顔が半分だけつぶれるなどの状況でない限り凄惨さはない。
遅れて駆けつけた怒りをあらわにしたNPCが、地下街の天井に向かって叫ぶ。
「精霊様、力をお貸し下さい!」
噴水の水が突如として巻き上がり、水の竜巻がプレイヤーたちへ向かう。ドールに防水をしてあることが無意味な、力の本流。
竜巻の中心にいるのはウンディーネとシルフ。精霊を見たがったプレイヤーたちは、水越しのシルエットに気づくことも難しいだろう。
精霊たちがはじめから少女を助けることをしなかったのは、それがこの世界のルールだから。ゲームであるオールネンドワールドは、PKもNPKも禁止はされていない。ペナルティーとして他のNPCから嫌われるだけ。精霊たちは、NPCからの協力要請があるまで動けない。
「やあ。サラマンダー。風に煽られた水が飛んでるけど、君ここにいて大丈夫かい?」
ジーチャたちの座った手すりの後ろに、銀髪を低い位置で結んだ青年が現れていた。上品なスーツ姿で、優しげな顔立ち。一般的なサイズのドール。整った容姿はしているが、リアル街中にいても注目を浴びるほどではない。
「ん。気になるしね。そだ! じいちゃん、初めてでしょ。こいつ光精霊」
「はじめまして。お爺さん。名前はエルです。よろしく」
「ジーチャという。こちらこそ。お仲間にはいつも世話になっている」
のん気な挨拶を交わしている3人だが、広場を中心に水浸しの惨状は続いている。
不埒なプレイヤーはあらかた片付いているようだが、大雨にはしゃぐウンディーネが踊りまわっていて、それを止めようとシルフが追いかけ、まるで台風のようなありさまだ。
NPCたちは役所・教会・銀行の中へ退避済み。掲示用の石版はいつの間にか、ビニールっぽいもので覆われている。
「そろそろいいでしょう」
そう言ってエルがテラスから飛び降りる。降りた先はNPCの遺体のかたわら。少女の亡骸はSの守護により斬られ倒れたときの姿を保っている。
エルは複製アイテム、『コピー用紙』と同じ用途の、光精霊専用パネルを地面に開く。NPC一覧から少女のデータを選択する。
壊れたドールからコアを取り除き、身体・髪・服などパーツごと色ごとに解体、それぞれ破損のない状態に再現していく。ひとつ再現するごとに、周囲の光源から光が吸収され、ひとつふたつと街灯が点滅し消えていく。
再現したドールのパーツをつなぎ合わせ、コアを埋め込み、服を着せる。
さらに光を集め、NPCのソウルを修復し、ドールへと戻す。広場内の街灯が全て消えるのと同時にドールが動き出す。
NPCはドールに入った状態が普通で、ソウル状態では自我を維持できない。
もちろんドールイン・ドールアウトを自由意志で行なえない。彼らが怪我した時に訪れる外科医院のお医者さんは、スーツの上に白衣をまとっている灰色の短髪のエルだ。
「おーい、爺さん。ニュクスから聞いたが、選んだのがあるんなら先に持ってけよ。ゴミ置き場のネンドここの修復に使うぞ」
ノームがスコップを抱えて、階段を下へ向かうところだ。
「すまん。すぐに行く」
バキッ! ガゴン!
地下街が闇に閉ざされた。
「姉ちゃんたちまだ遊んでたんだ」
「あいつら! 誰が直すと思ってんだ」
台風で街灯が倒れたらしい。どこかでケーブルが切れたのだろう。
「それより条件が整ってしまいましたよ。彼女が本体で出現します。お爺さんこの依頼を受けてください。ここの修復の手伝いで、閉鎖中の地下街への出入り許可証になります」
「なんかしらんが、大変そうだな」
<<緊急連絡! 地下街にて事故が発生! ただいまより地下街が完全閉鎖されます! 復旧予定はネンドタイム24時間後! 繰り返します……>>
闇に閉ざされたと思っていた地下街だが、それがさらに暗くなる。視界が利くのはサラマンダーとエルの周囲だけだ。
地下街に住まう精霊は6体。この中でもっとも大きな力を持っているのは、闇精霊。小さな小さな彼女は、普段ゴミ置き場の闇領域から外へ出ることは適わない。
闇精霊が出現する条件は、理由がなんであれ、地下街が闇に閉ざされること。
出現すると同時に、その巨体の維持のため地下街全てのエネルギーを吸い上げるので、地下街の機能が全て麻痺する。NPCたちは眠りに落ち、役所や銀行も機能停止に陥る。各部署トップのAIだけではプレイヤーたちを捌ききれない。
殺人事件発生時に現場から離れた場所にいたプレイヤーは、天罰とも言うべき精霊たちの制裁から見逃され、テラスなどから見物していたが、ワールドチャットのアナウンスとともに強制的に移動させられ消えていく。
「おじいちゃん、ここの手伝いはいつでも結構でしてよ。先にご用事済ませてきてくださいな」
しゃべっているのは、教会の入り口に飾られていた、大きな女神像。黒いロングドレスにつつまれた足が台座から動き出す。これが闇精霊ニュクスの本来の姿。
「いつもの愛らしい姿も良いが、これまた美人だな」
「あら、おじょうず」
依頼書のおかげでこの場にいられるらしいジーチャは、とりあえずゴミ置き場へ下りることにした。サラマンダーから松明を貰うと、アトリエに退避させていたポチを、子犬の姿で呼び出しまたがった。
選んであったネンド塊を見直して、ひとつに決めるとアトリエの扉を開く。手押し車を持ってきてネンドを乗せ、扉をくぐった先の資材置き場で降ろす。庭への設置は少し形を整えてからだ。
手押し車を納屋に仕舞うため裏木戸をくぐる。結局、乗り物以外に出番のなかったポチが木戸を閉めて後へ続く。
ログアウトして、ひなあられを少しつまむ。
しばらくすると隣家から電話がかかってきて、夕食を食べに行く。
ついでに風呂も貰ってから、隣の家へ帰る。
戸締りを確認し、明かりを全て落とし、寝間着に着替えてログイン。
貰った依頼書の中身は、中央広場の植え込みの手入れ。
おしゃべり好きな水・風・闇の女精霊たちによって、ジーチャのリアルはあらかた把握されている。
ジーチャに向いた仕事がばっちり選ばれていた。
普段は使わない、一般的なサイズのドールの出番だ。
ネンドで出来ている木なので、いろいろと勝手の違うところもあるが、整える完成形のイメージは問題なく頭の中にある。渡された登録済みのコピー用紙各種を使い分け、伸び気味の低木を作ってから、硬いネンドで出来ている切れ味のいいハサミで刈り込んでいく。
水精霊との密会場所は、周りから見えないようにしっかり葉を茂らせ壁にする。ついでに座りやすい位置に枝を伸ばして、専用のベンチを足しておいた。
ネンド12:00・リアル21:00。
アトリエの縁側で子犬のポチにもたれて、昼寝する。
バイタルデータで睡眠が感知されると、そのままログアウト。翌朝、リアルで目覚めることになる。
とある一日の出来事。
最後までお読みくださりありがとうございます。
NPC少女の服装のエプロンドレスは、小公女や若草物語のような普段着のそれです。メイドコスではありません。