絶望の輪郭
十月十八日 AM 1:30
東京、鉄橋下。
周囲は夜の帳に包まれ、静寂が支配している。
そんな中、無骨にも一台の漆黒のワゴン車が周囲の静けさを打ち破るかのように停車する。
車内には若者が好みそうなクラブミュージックが、けたたましく鳴り響いているのが
外からでもはっきりと伝わる。
窓には一面スモークが貼られていて、中の様子を伺うことは難しい。
これでもかといわんばかりに近寄りがたい雰囲気を作り出されたワゴン車。
中に乗っているのは、若い男女。
その雰囲気から、これから何が起こるのか・・・言わずともわかるだろうか。
特に20代前後と見える女は、これから自分がどうなるのかというのを、嫌というほど理解していた。
運転席に腰を据えるは、疲れたサラリーマン風の男。
目の下にはどういう生活を送っているのかを物語るかのように、濃い隈がくっきりとこびりついている。
サラリーマン風の男はバックミラーを時折覗き、女の様子を確認する。
後部座席には、女を逃がすまいと別の男がドアの隣に座っている。
金髪、耳に付けられたピアス、腕に彫られたタトゥーなど、柄の悪さがにじみ出た男だった。
「ねー、九条ちゃん」
ガンガンとけたたましく鳴り響いている曲を遮るかのように、後部座席の柄の悪そうな男がゆっくりと口を開いた。
「どーすんの、この娘。」
そんな問いかけに対して、サラリーマンのような男−九条と呼ばれていた男だ−が、
少々めんどくさ気に口を開いた。
「…売るんですよ。近くで若い女性を買う知り合いがいましてね。」
それを聞いて、金髪の男はクククッと口を歪ませて、女の顔を覗きこむ。
「うっわー…カワイソー。ねー、君。売られちゃうんだってー。どんな店か分かる?ねぇ?
聞いてる?ねぇ、オイ?聞いてんのかよ、なあ」
ニヤニヤと、愉快で仕方ないといった表情で問いかけるが、女の口から何の言葉も聞こえてこない。無視された事に苛立ったのか、男の徐々に口調が荒々しく変わっていった。
そして、女性の頬を何度も何度も叩く。
力は一切込めてられていないが、その動作一つ一つが、女性を脅すには十分効果があった。
「…た…助けて、助けて…ください…」
まるでこの世の終わりを見たかのような表情を浮かべて、女は口を開いた。
言葉一つ一つが震え、頬には涙の跡がくっきりと残っている。
「えー。どうしようかなー…やっぱり、ダメ。言われなかった?
女の子は夜中に出歩くなって。俺らみたいな、悪い人がいるからってさぁ」
ひひひ、と下卑た笑い声をあげる。
「ねえねえ九条ちゃーん、ちょっとくらいさー、いいでしょ?なぁ、どうせ取引まで時間あんでしょ?」
勢いをつけて九条の座る運転席と、空いた助手席の間に上半身を乗り出した。
それに合わせ、ぐらりとワゴン全体が揺れた。
九条はと言うと、そんな男の様子など見向きもしないで、フロントガラスにじっと視点を合わせたまま口を開いた。
「……はあ…。分かりました。でも、売り物にならないようにはしないでくださいね。あと殺したり、失禁や脱糞もさせないでくださいね。シートについたら決定的な証拠になるので」
「だってさ。せめて取引まで、俺と遊ぼうねー」
男は厭らしくニヤついた表情で胸元を強引に掴んだ。
「嫌ッ…イヤァァァッ!!お願い助けて、助けてェェッ!嫌ァァッ!!!許して!許してェェェッ!!!」
後部座席から聞こえる繊維質のものを無理やり破くような音。
ボタンが容易くはじけ飛ぶような音。
女の、まるでこの世の終わりを見たかのような叫び声。
その様子とは全く正反対の、獲物をもてあそぶような、悦ぶ声。
まるで、後部座席で起こっていること全てが他人ごとかのように、騒音をまるごとシャットアウトして、男・・・九条は、フロントガラスに映る光景を眺めながら大きくため息を付いた。
自分でも分かっている。最低の男と組んでしまったと、自分でもそう思う。
品のない。
まるでサルそのものだ。
この知性の欠片も感じられない下品な男とは早々と決別してしまいたいと、何度思っただろうか。
しかしながら、あの男が簡単にどこかへ消えてくれるとは思えない。
ならばどうするか。
答えは既に出ていた。イヤというほど明確に、はっきりと。
消えてくれないなら消せばいいのだ、と。
ポケットに入れられた、銃の無機質な感触を確かめながら、九条はそう思った。
殺して、どうしようか。ああ。そうだ。家のコーヒーを切らしていたのだった。
女を売って、男を殺して。どこかに棄てて、その帰りに近所のスーパーでコーヒー豆でも買って帰ろう。
男はもう一度深いため息をつくと、目を瞑りながら頭の片隅でこの後の計画を練り始める。
フロントガラスは、まるで男たちの心を中を映すかのように、深く底知れぬ暗黒を湛えていた。
夜は、まだ始まったばかりだ。
*****
「オエエエエ、オッ・・・・オエェェ・・・」
「ったく、さっきからオエオエうるせえぞお前。何年警察やってんだよ」
白髪が混じったボサボサ頭から、50代前半程度と見える男が、白い手袋をはめながら、
電柱に手をついて嘔吐を繰り返し続ける若手に向かって悪態をついた。
「だってこんなのグロすぎっすよぉ・・・」
涙目涙声で文字通りボロボロの若手警官は、事件現場であろう、
黒いワゴン車を再び視線を戻したかと思えば、再び嘔吐し始めた。
既に胃の中身を全て吐き出したのだろうか、オエオエと苦しそうな声を上げるばかりである。
「ったく使えねえなお前。・・・いいからパトん中で休んでろ。いいか、中で吐くんじゃねえぞ。」
苛立ち混じりの声をかけると、スンマセンと一言残し、若手の警官はパトカーへと
重い足取りのまま歩き始めた。
「で、現場はアレか」
気を撮り直すべく、黒いワゴン車を指さした。
車体の前方はめちゃくちゃにひしゃげていて、あたりには車のパーツやガラス片が散乱している。
その光景が、どれだけ大きな事故だったのか物語っている。
よっこいしょ、と一声あげて車内に乗り込む。
音楽―クラブミュージックというやつだろうか―が、大音量で、ワンフレーズを狂ったように何度も何度も流し続けている。
「オイオイ、なんだよコレ。どうやったらこんな風に顔がフロントガラスにめり込むんだ?
グチャグチャじゃねえかよ」
運転席に座っていただろう男は、フロントガラスに顔面から突っ込んでいた。
突っ込んだ部分を中心に、ガラスには細かく深い亀裂が走っており、その一つ一つが、大量の
血液で赤々と染め上げられていた。
更に、フロントガラスのあちこちには肉片がこびりついていて、どれだけ激しく
顔面が叩きつけられたのかが窺い知れる。
めり込んだ顔をガラスから引き剥がそうと試みたものの、顔がこびりついていてなかなか離れない。
ギリリ、という車体のいびつな音を立て始めたのを見て、無理やり引き剥がすのを諦めた。
「ひでぇな・・・こんな場所で何キロだして走りゃこうなるのか教えてほしいもんだ。」
車から出ると、目頭をぐいぐいを押さえながら、先程から口呼吸でしか息をしていなかった分、鼻と口から息を吸う。
「で、被害者は一人だけか」
「いえ、後部座席に男の死体が一人・・・・折り畳まれていました」
口を開くと同時に、検査官がこちらにかけつける。
検査官はこちらに顔を一切向けず、代わりに手元にあるボードを眺めながら話し出した。
もう一つの遺体はまだ確認出来ていないが、報告によれば「骨を折り、無理やりコンパクトにした」ようだという。
ワゴン車の中には、金属バットやレンチなど多くの武器となり得るものが、
また、ダッシュボードには合成カンナビノイドやサルビノリンA、5MeO-DMTなど
ケミカルドラッグ、デザイナーズドラッグから脱法ハーブなどが無差別につめ込まれていたりなど、
何が起きても不思議ではない環境だった。骨を折る事など、容易いだろう。
「脱法ドラッグばかりですね・・・」
車の中から大量に出てくる薬物を見て、隣の後輩がつぶやいた。
「ああ、今なんか脱法ドラッグが主流よ。だって普通のヤクの密売なんてやった所で割にあわねーもん。安価で手に入って流通しやすい、脱法ドラッグ。だがな。脱法ドラッグって
何もかも正体不明なんだよ、基本的にな。何がブチこまれてるか分かったもんじゃねえ。
規制が掛かる度に妙な進化を遂げているしな。」
ブルーシート上に陳列される、いかにも怪しげなパッケージの数々を眺めながら、そう口を開いた。
「で、折り畳まれた男の方は、殺して無理やり詰め込まれた、って感じかねぇ。で、運転席の犯人は死体を隠そうとして猛スピードを出した所で事故にあって死んだ・・・・ってところか?」
「のように見えるのですが・・・」
そう、その言葉では片付けられない、いつくかの問題があった。
一つ目、普通事故で死んだ場合顔ではなく、頭から突っ込んで死ぬこと普通だ。
顔から突っ込んだなど、どれだけのスピードを出せば可能なのだろうか?
二つ目、これほど激しくぶつかった場合、相手も運転不可能な程のダメージを負っているのは明らかだ。
ならば、その車はどこへ消えたのか。現場にあるのはひしゃげたワゴン一つだけ。
もし運転可能であったとして、路上に出れば嫌でも目立つはずなのだが、そんな目撃情報は
一切届いていない。
ならば、装甲車や戦車にぶつかったとでもいうのだろうか?
三つ目、地面に散乱している部品やガラスの量が少なすぎる。
どう考えても、ここに散乱しているのはワゴン車一台分のものしかない。
衝突相手のパーツはどこへ消えたのか。
どうも、辻褄が合わない。
事故と一言で片付けるには、あまりにも不自然で、あまりにも異常な状況。
パトカーのライトに照らされ、光を帯びる地面のガラス片をじっと眺めながら、
男は考えていた。