妖しい雲行き
「イレサイン・メルーナー」
地下深くで、男の声が静かに響く。
「はい」
答えたのは、あの日から少しも変わっていない、青年だった。青年の周りがぽう、と明るくなる。
「お前はフェリア狩りに協力すると申し出たそうだが、その根拠は。お前は王女と知り合いなのではなかったか」
青年の瞳が昏く光った。
「確かに、俺はスリンと知り合いだよ。だけど、スリンは王女になった途端、俺たちとは連絡を取らなくなってしまった。だから、俺はフェリア狩りに協力しようといったんだ。お前たちにとっても俺の力は必要だろ」
男は愉悦の表情をにじませた。
「そうか。そうか」
男の哄笑が地下に響いた。
「あっはっは。これはいい。けっさくだ」
男は青年の視線に気づき、咳払いを一つすると、こう答えた。
「協力を認めよう、イレサイン・メルーナー。ただし、お前が王女様たちに協力しているとわかった瞬間、この刃がお前を貫くことになる。それでもか」
青年は首肯した。それを確認すると、男は地下から地上へと向かっていった。青年もそれに続いた。光の下へと。
スリンが帰った後、ディオネはこれからどうすべきかを考えていた。自分ではやれることは限られている。ディオネが得意とするのは体術。どうしても精霊の力を使うスリンや、魔術を使うメルーナーにはおとる。
「学長、何かお困りですか」
それを見透かしたようにイグノアがディオネに声をかけた。普段ならば決して引っかかることのないディオネも、先ほどの衝撃でいくらか消耗していたのだろう、イグノアの言葉にうなずいた。たしか、偽の魔術師は真の魔術師に勝てないのではなかったか――。ディオネは、イグノアに事の詳細を話し始めた。
すべてを聞き終わると、イグノアは目に妖しげな光をともした。
「お望みのままに」
イグノアが行ってしまうと、ディオネは再び物思いにふけった。先ほどのスリンの言葉があまりに衝撃的すぎたのだ。
「イレサイン・メルーナー、か。やっかいなものが関わってきたものよ」
ふと振り返ると、そこにはここに来てからのディオネの親友、ナレシだった。
「ナレシ。いつからそこに」
ディオネは驚いて思わず尋ねた。そしてすぐに赤面する。
「そんな質問は不要だろう」
ディオネは頷いた。
ナレシもフェリアだ。フェリアを使って自身を移動させることなど造作もないだろう。スリンとは全く別の種類のフェリアだが、彼の力も文句なしに強い。
「イレサインのものがからんだものがろくなことになったためしがないからな」
僅かに嘲笑を含んだ声で、ナレシは囁いた。
「そんな言い方、」
しなくてもいいだろうという言葉は胸の中にしまう。
ナレシはかつてイレサイン家から拷問を受けた。それがなぜなのかはまだディオネも知らない。いつかナレシが話したくなったら話してくれるだろうとディオネは何も問うことはしなかった。この学舎の前で二人が出会った時から。
「ああ、別にその事は気にしなくていい」
からりとナレシは笑う。
まるでかつて彼らからどんな扱いを受けたかを忘れたかのように。
「少なくともわたしは気にしていないから」
そんなこと、あるものか、とディオネは考えたが、ナレシならありうるかもしれないと直ぐに思いを改めた。
「お前の心の広さには感服するよ」
ナレシは軽く笑った。
「私の心が広いわけじゃない。ただ諦めているだけだ」
ディオネはにわかに信じられなかった。
杖をついた青年は微笑んだ。
「イレサインは私の足を奪った。そして父は発狂し、母は絶望のあまり死んだ。だがそれはもう全て終わったこと。今更恨んだところで私が歩けるようになるわけでも、父が元に戻るわけでも、母が還ってくるわけでもないから、無駄なことに時間を費やす必要はない」
何処か諦観した様子のナレシに、ディオネはどう声をかければいいのか分からなかった。