鹿島のディメンジョンシフト
これは夢だ。たちが悪い夢だと、分かっている。
こんな夢を見るのは、久しぶりだ。
その夢に、自分は降り立ってしまった。その意味を、痛いほど理解している。
ここは、中つ国。愛する地。父神と母神が生みたもうた、美しい国。
その美しい地が、どうしてこんなに真っ黒なのだ? そんなの、きまっている。
血や争いや汚染といったあらゆる事象が原因となって生まれた『穢れ』が、そうさせているのだ。
穢れに侵食された地は毒されて、やがては腐って、生き物が暮らせなくなる。
夢の中の中つ国は、その一歩手前の状態だった。
木々は枯れ、海は干上がり地は濁る。生き物は息絶え干からびる。
穢れから生まれたおかしな生き物――『異形』が死体を食っている。
なんだここは。なんなのだ。
夢の中を呆然と突っ立っている建御雷神――鹿島は、その先にいる神に気づいた。
自分の胸程しかない小柄な少年、白藍の装束と空色の羽衣をまとった、その神は、建御名方神。鹿島が諏訪と呼ぶ、風神だ。
その青色の瞳には、いつもの真面目で素直な純粋さがみじんとしてあらわれていない。
あるのは、憎悪と怒りだけだ。
怒りを静かに宿すその瞳が、純粋に怖かった。
その頬からぱらぱらと落ちたのは、乳白色の鱗か?
様子がおかしい。諏訪の足取りはふわついている。まとっている風が、彼の足を地につかせない。
諏訪の周囲には、『異形』とおぼしき化け物の死骸が散らばっている。黒い液体は、『異形』の血のようなものだろう。だいぶこっぴどく殺されているようだ。
そう、諏訪が殺した。この『異形』たちを、嫌悪でもっててひどくやったらしい。
――違う。あいつは、そんなことができる奴ではない。敵にさえ慈悲をかけることができる、そんな奴なのに。
諏訪なら、こんなひどいことはしない。……普段の諏訪ならば。
周囲を確認する。穢れに侵食された地上、曇天のせいで、高天原を仰げない。地上の神々が、見当たらない。ここにいる神は鹿島と諏訪だけだ。
覚醒した諏訪の瞳は冷めている。妙に落ち着いていて、憎しみやうらみつらみを静かに燃やしている。
「ああ、鹿島か」
まだ幼さの残る声が、今日はどこか大人びていた。
自分らしくもない表情をしていたと思う。諏訪を見つめる自分は、驚愕だけでなく悲痛に染まっていた。
冷やかに笑う諏訪が、なんだか怖かった。真面目で堅物で義理人情を重んじるあの諏訪が、こんなに恐ろしい微笑をうかべるとは。
「諏訪。おまえ」
「なんてことはない。地上を侵した穢れを葬っただけのこと。……なぜか誰もいなくなったけどね」
「ここまでするか? おまえなら、どんな敵にも情けを忘れるこたあなかっただろうが。殺すんなら一瞬で楽にして、それ以上の深追いはしない。なのに、なんで今回に限って……」
「天から確認していなかったのか? この異形を生み出したのは、人間だよ。それが異国のものならばまだ許せただろう。だが、故意に異形を創り出したのは、まぎれもなく中つ国出身の人間だ。全員ではない。ごく一部の、生まれた国を憎むという奇異な人間たちが、この国を穢そうという悪意によって創り出した。おまえが私の立場ならば、それらを許せるか? 慈悲をかけ、死さえも楽に迎えさせることができるのか、建御雷?」
言葉は通じるらしかった。交わした言葉から、諏訪の豹変ぶりがよくわかった。
他人行儀に、『建御雷』と呼ぶ。いつもは憎らしさと親しみを込めて『鹿島』と呼んでくれるのに。
口調が堅い。感情が断ち切られている。
「……おまえ、人間にも手を掛けたのか」
「そうだよ。この地を穢そうとする者に、相応の祟りだ。安息などくれてやるものか。死後も己の犯した罪に焼かれ裂かれるだろうよ。罪びとに罰を与えることに、何の疑問があろうか?」
「こんなの、祟りじゃない。ただの、暴挙だ」
「卑怯者の建御雷からいさめられるとは思わなんだ。……さて、残るはあと一人。おまえと世間話をしているいとまはない。ここへ引きずり出して、祟らなければ」
まずい。鹿島から興味が外れた。そして、自分のなすべきことを思い出してしまったらしい。
止めなければ。これ以上の暴挙を働かせたら、諏訪はもう今までの諏訪に戻せなくなる。
風神でも武神でもなく、ただの祟り神になってしまう。
止めなければ。取り返しのつかなくなる前に、最悪の道を回避するために。――自分は、そのために生まれたのだから!
「待て、諏訪! 止まれっ!」
「っ?」
ふわついた足取りの諏訪の肩を、鹿島は無造作に掴んだ。華奢な肩。すこし力を入れれば、外すことはたやすい。
ここで鹿島が行うべきは、諏訪を元に戻すこと。諏訪を祟り神にさせることは、この地の大きな損失だ。
もし、完全に諏訪が覚醒してしまったら? その時は、鹿島が責任を持って彼を『隠さ』なければならない。
「待てや、おい。ここにいる建御雷様をさしおいて罪人にかまけるたぁ、舐められたモンだなあ? 人間祟るんなら、俺と遊んでからでも遅くはないだろ?」
「邪魔をするなら、おまえも祟るぞ?」
「できるものならな。安くはねえぞ」
「こちらも、たやすく倒れるほど弱くはない」
いざとなれば、本来の力を使わなければならない。強すぎるから、乱用は避けろと天照や経津、鳥船から釘をさされていた。今はその戒めを守っている余裕がない。
祟り神一歩前の諏訪に、手抜きが通じるわけがない。
諏訪が生みだした風が、鹿島を襲う。頬と腕を風が裂く。思ったより深い。
地に足つかない諏訪を引き止めるようにして、鹿島は諏訪の腕を掴む。
諏訪の腹部に、右手を当てる。そこから、ためしに力を抑えた雷を流し込む。びくん、と諏訪の体が少し跳ねただけで、全然効いていないようだった。
「それだけか、雷神?」
「……祟り神ってこえぇー」
苦笑してみたが、何の意味もなかった。
鹿島の手から逃れた諏訪はふわりと浮かびあがる。これは好機だった。
本気の力で、諏訪に雷を落とす。手抜きではない、手加減もしない。本気で、本来の力で、雷の力を借りる。
周囲にも被害が及ぶから使わずにいた力だが、諏訪と自分以外誰もいないので問題はない。
「落ちろ!」
諏訪に、本気の雷を落とした。
轟音が響き、地を揺らす。迸る雷が、一瞬だけ枯れた地上を光で包み込む。
諏訪のいたであろう場所から、風がふきすさぶ。自分を害するものを、吹き飛ばしたらしかった。
そして鹿島の視界から一瞬消えた諏訪が再び現れる。
その顔には苛つきがにじまれている。
「生意気な」
まったく、雷が効いていなかった。こうなっては、本気で諏訪を仕留めるしか、選択肢がなくなった。
鹿島は覚悟を決めた。情も道理も捨てて、理性と合理だけを残す。
「く、……」
「建御雷、おまえは卑怯者の汚名をかぶって、あえて本気を出さずにいたのだったな。だが、これも本気ではあるまい? 本気であるならば、とんだ笑いものよ」
「言ってくれる……」
「次は私の番だ」
ひやりとした微笑で、諏訪は地上へ降り立つ。一瞬で鹿島との間合いを詰めた。鹿島は速すぎて対処に遅れた。だから、諏訪の反撃を許してしまった。
「……な」
「この程度で雷神とは。拍子抜けだな」
諏訪の華奢な腕が、鹿島の胴を、刺し貫いた。
自分が、諏訪に後れをとるなんて。諏訪のことを見くびっていたわけではない。自分の力に驕っていたわけでもない。暴走した諏訪を、自分の力で抑え込む自信は確かにあった。
だが、祟り神となりかけている諏訪の力をはかりそこねて、こちらが押されている。
「あ……ぁ……」
喉から、血がこみあげてくる。ようやく痛みを認識した。鹿島にもたれかかるようにして立っている諏訪が、こちらを冷めた目で見上げている。見くびられている。見下されている。
ずるり、と手が引き抜かれた。そこから、だらだらと血が流れ出る。神にも、血液はあった。
負傷自体は問題ない。神というものは、誰かの記憶に一つの欠片でもとどめられている限り死なない。
だが、力を奪われる。負傷すればするほど、諏訪を止める力が弱くなるのだ。
「残念だったな、雷神。もうおまえが私を止めることはできない」
「いや、まだ……だ」
鹿島は笑う。まだやれる、と自分を奮い立たせるには、笑うのが一番だと知っているからだ。
諏訪の華奢な両肩に手を置いて、逃げられないようにする。
「離せ」
「嫌だね。悪い子にゃお仕置きだ」
肩に置いた手を通じて、雷を諏訪の体に流し込む。その雷に強さは関係ない。諏訪が祟りをやめさせる分の力があればいい。
「……っ!?」
諏訪の目が、驚愕に見開かれた。がくがくと、足がおぼつかない。宙に浮くこともできない。風をまとうことも、できない。
「なにを、した」
「『敵』に手の内をさらす馬鹿がどこにいるよ」
鹿島は諏訪の目を右手で覆った。さしたる抵抗もなく、諏訪はそれを受け入れた。そして、ぼすんと鹿島の胸に倒れ込んだ。
諏訪は眠っている。風をまとうこともなく、祟りを起こす気力もなく、自分の力で立つことすらできない。
鹿島は、自分の右手のひらを見た。鈍く輝く鱗が貼りついていた。さっき、諏訪の顔に触れた時についたのだろう。
「もういい。おやすみ、諏訪」
鹿島はそのまま、後ろへ倒れ込んだ。傷はそのうち癒える。だが、穢れた地上ではその進行も鈍い。ひとます、高天原に戻った方がいい。力の弱った神々は、穢れにも抗いにくくなる。
このまま寝転がっていれば、いずれ鹿島も諏訪も穢れに食われる。
「それも、いいかもなあ」
取り返しのつかない状態は避けたい。鹿島と諏訪の損失は、鹿島の思った以上に大きな問題なのだ。まだ安全な高天原に行かなければ。諏訪を連れて。
だが、体が動かない。諏訪の一撃が、はるかに強かった。力をほとんどそがれていた。
「最悪だ……」
静かに眠る諏訪を胸に抱き寄せ、鹿島は笑う。
これが、最悪の道か。
穢れが近づいてくる。飲まれる。食われる。
取り返しのつかない、最悪の状態。
「……っ!!」
はっ、と目が覚めた。
汗がじっとりと、額や背中ににじんでいる。
ああ、そういえば、これは夢だったのだ。たちの悪い、いやな夢。
鹿島は上半身だけ起こし、前髪をかき上げる。隣には、諏訪が丸まって静かに寝息を立てていた。
反対側には、迦具土が眠っていた。
黄泉の国にいる迦具土に会いに行って、それを聞きつけた諏訪が来て、一晩泊めてもらっていたんだった。
「どうした、鹿島」
迦具土が、こちらを向いた。赤銅色の髪を揺らし、赤色の瞳が心配そうに鹿島を見上げている。
「……ぁ、あ。迦具土?」
「ずいぶんうなされていた。『また』かい?」
「そんなとこだ」
迦具土は、鹿島が見た夢のことを知っている。
鹿島は生まれて今の姿になってすぐ、おかしな夢を見た。
それは、この国が『最悪の道』をたどったというものだ。人間たちは敵国の人間に支配され、神々は封じられているために人を助けることも祟りを起こすこともできない。地上は汚染され、人々の心を侵食していく。そんな最悪の道にたどったのは、矜持や誇りに固執しすぎたために、敵に足もとを掬われて、とある戦争に敗北してしまったからだ。
夢というにはあまりに鮮明すぎて、鹿島は別の世界に『飛んだ』と感じている。
その時に初めてみた『夢』が強烈過ぎて、いつか中つ国がそんな『夢』の道をたどってしまうかも知れない。そう恐れた鹿島は、敗北を何より嫌い、畏れ、誰よりも勝つことにこだわるようになった。だからたとえ卑怯と罵られても、負けることを許さなかった。
突拍子もないことだから、鹿島は迦具土以外にはこのことを話していない。迦具土を除く神々は、鹿島が卑怯なのは単純に強すぎるからだと思っている。
「いままでは一度も『飛んで』いなかったんだろう? 今回は二度目かい?」
「そ。嫌な夢だよ。俺も諏訪も穢れに呑まれそうになったとこで目が覚めた」
「今度の『最悪の道』はそうなのか。今になって『飛ぶ』のなら、それが近いうちに辿るかもしれない未来だということだろうな」
「はは。あって欲しくねえわな、そんな……」
髪を掻き上げていた手を下ろす。言葉が止まった。
ふと、右手のひらに、光る何かが貼りついているのに気づいた。
鱗だった。あの夢で、諏訪に触れた時に張り付いた、諏訪の鱗。
鹿島は、右手をぎゅっと握った。その手は、少しだけ震えていた。
ちょっとネタを頂きまして、突発的に書き上がりました。タイトルのごとく、別世界にいっちゃうお話です、はい。