此の人
此の人、年の頃は40前後。
毎日何が楽しいかというと、『アレとコレとソレ』
他人の問いに対し、即座にそう答えることができる。
『普通』というものに憧れるが、それを主張する相手がいるわけでもない。
その、家賃4万円以下のマンションで、窓越しに見える信号が点滅に変わるのを待ってから、眠りに就く日々。
こんな此の人には、20年ほど前に恋人がいました。
此の人はその間も、相手に何一つ主張というものをしなかった。
その為かどうなのかは今となっては分かりませんが、此の人の中ではそれが原因で棄てられたのだろうと、そう理解しています。
此の人は必ず朝6時半に目を覚まし、7時半にはマンションの部屋を出て、近くの工場へと出勤する。
マンションの階段を降りながら、真正面にある整形外科の看板を横目に、
今日も1日が始まるのだ
何も起こしませんように
そう一言呟くのが日課。
自転車に乗りながら、毎日毎日変わらぬ景色を眺め、
自分は今日も、乱れていない
変わらない
そう確認するのです。
そうして、味醂の匂いが漂うその職場に、8時前には必ず着く。
この会社には、残業というものがほとんどありません。
よって、大体17時半には退社することになる。
その後の予定のない此の人は、土日以外のほぼ毎日、18時には部屋へと戻るのです。
給料は月13万。
しかし此の人にとって、それは充分な数字。
静かに暮らせれば、それでいい。
この季節になると、部屋へ着く頃にはすっかり暗くなり、整形外科の看板はライトで緑色に光っています。
マンションの階段を上る前にその看板を見上げ、
今日も何も起こさなかった
ほぼ毎日、その感想を持ちながら部屋に入る。
そんな此の人には、ほぼ毎日することがもう一つあります。
食事を済ませた後、ベランダに出てそこに座り込み、夜空を見上げること。
しかし此の人には決して星を見る趣味などない。
目線は星よりも下。
じっと見つめるその先に、小さな山がある。
山の頂上は公園になっており、近所の小学生の遠足お決まりコース。
その公園の真ん中には、大きな木が1本聳え立っています。
此の人は、この木の名前など知らない。
が、此の人にとっては『思い出』の木以外の何物でもないのです。
ベランダから、遠目からでもその木の見えるこのマンションに、此の人は拘っている。
毎日、あの頃を思い出すために。
此の人には、土日に楽しみが一つあります。
それは数年前に近所にできたカレー屋で、食事を摂ること。
土曜日の夜
日曜日の昼
日曜日の夜
この3食を、このカレー屋で済ませるのです。
しかしある時から、此の人はこのカレー屋で気づくことがありました。
自分がテーブルに着くと、社員だかアルバイトだか分からないそこの従業員たちは、何かしらの目配せをする。
こういう空気に遭遇すると、此の人は何の躊躇もなく疑い、考えるのです。
……きっと、あだ名を付けられているな
そう思いながらも、週末ごとにこのカレー屋に通う。
この習慣に対しても、此の人には躊躇がなかった。
規則的な生活は『疑い』を晴らす、と。
そう確信して。
此の人には、特技と言えるものが1つあります。
消防車
救急車
パトカー
これらのサイレン音が、どれだけ遠くであろうと耳に入れば聞き分けられること。
消防車に対しては、このマンションの前を通過しようが1ミリの反応も示さない此の人は、しかし救急車とパトカーのサイレン音が近づくと、
静かにしろ
心臓も止まれ
そう願い、サイレンが過ぎ去るのを息を潜めてじっと待つのです。
此の人は、仕事でのミスが少ない。
此の人は就寝の前に、曜日ごとのシミュレーションをする。
業務用の食材を部屋にも置いており、時間のある時には実際に仕事と同じ作業をしてみる。
しかしその日、此の人は仕事でミスをした。
上司から30分以上の説教を受けました。
たくさん他の社員がいる、その前で。
イライラが此の人の中でどんどん膨らんでいく。
が、それは決して上司に向けてのものではなく、自分に対してのもの。
目立つな
目立つな
目立たすな
目立つな
完全に遮断された此の人の鼓膜には、上司の説教は届かない。
ただただ帰宅するまでの時間、此の人は自分を責め続けるのです。
そして部屋に帰るとまち針を取り出し、自分の指先にプスリと刺してみる。
ミスをした時、此の人は必ずこの行為をする。
傷から出てくる液体が『赤』ということを確認し、その指をペロリと舐めた後、此の人は思うのです。
この爪先から何千キロか離れた国では、国からの命令で人殺しをしている人たちがいる
それを成し遂げ、褒められることはあっても罪に問われることはない
そう思い、此の人は自分に保険をかける。
自分の性格が暗いか明るいか、そんなことはどうでもいい。
それ以前の問題。
そうして、自分の存在に対する異議を唱えることを、いったんここで止めるのです。
今、欲しいものは何?
そう尋ねられると、此の人は「100万円」と答えます。
此の人は大変に人混みが苦手。
何ヶ月かに一度、実家へ帰るための電車が苦痛で仕方がない。
今なら合格するかも。
何年も前に期限切れになった、普通免許の取得。
それを考え、100万円が欲しいのです。
個室はいい
とても、いい
誰に言うでもなく、1人呟く。
しかしその日はやってきます。
苦痛と酔いに耐え電車に揺られながら、此の人は実家へ帰る。
何ヶ月ぶりかに、家族全員が実家に集まるのです。
兄から手渡される土産に対する此の人の感想は、
これはもう、食べ飽きた
しかしそれを口にすることはありません。
此の人の目には、兄も妹も明るく見える。
父も母も、明るく見える。
この父と母は、此の人にとてもやさしいのです。
それは昔から変わらず行われてきた、此の人に対する行為。
そして思う。
こうなると、自分が失敗作なのは、この人たちの責任ではない
全て、自分が外で学んだことだ
それを思い、悔しみと哀れみの目で自分を見つめる。
そうしてまた苦痛と酔いに耐えながら、ゆらゆらと電車に揺られ、いつものあの日常に戻るのです。
その日も此の人は、あの山の上にある大きな木を、マンションのベランダから眺めています。
薄笑いでもなく、ほくそ笑んでいるのでもなく、満面の笑みで。
この日、此の人は小学生が長い列を作って、あの山に登っていくのを見かけました。
それを思い出しながら、黄昏時に似つかわしくないその笑顔で、此の人は思うのです。
今日は寂しくなくて、良かったね
ある日、此の人はふと気づきました。
自分の靴下に穴があいている。
5足の靴下を、洗濯を挟みながら順番通りに履いている此の人のそれは、触れれば壊れそうなものになっています。
此の人の靴下はどうしても5足、必要なのです。
此の人にとって、1週間は5日なのです。
知り合いに会う日が、5日なのです。
重い腰を上げ、此の人は買い物に出かけることにしました。
いつも後悔する、あの心境を忘れて。
此の人は最短のルートを決め、繁華街へと向かいます。
目的地へ着くと、何足何円の靴下のみを手に取り、代金を支払い、用件のみを済ませてあの部屋に帰ろうとする。
しかし、
毎回起こる、あの症状が頭の中で渦を巻くのです。
ショウウインドウに映る自分の全身を見て、此の人は思う。
こんなに足が短いのか
こんなに顔が大きいのか
こんな自分に、あの人は ――――…
ここで此の人は、思考の方向を変える。
違う
こんな自分が格好をつけて、靴下なんか必要なのか?
そしていつもより速い速度で、広い歩幅で、あの部屋へ逃げ帰るのです。
帰りに、ついでに買おうと思っていたトイレットペーパーのことも忘れて。
此の人は決められたことが好きで、そうでないことが苦手。
あの、買いたての白紙のノートに見入る、放心の感覚に陥るのです。
まず表紙に『算数』と、使い道を書かなければ。
何年も前から着けているコンタクトが面倒で、眼鏡に変えたい。
しかしいつもと違う違和感と、何かを感じるのです。
そのことに、きっと周りの人は気づかない。
その考えすらおこがましい。
そして、元いた地点に戻る。
これすらも、誰かが決めて命令してくれれば、それが自分の術になるのに。
髪の毛を切りに行っても、元の長さに戻してくださいと言いたいくらいの、此の人。
内側に向いた襟を正すこともなく、とぼとぼとそんなことを考えるのです。
幾千の言葉の山を、踏み潰すタチではない。
哀愁を漂わせる術など、ない。
錯覚?
そんなものは持て余す。
花束を受け取ったことがない。
自分の意思との競争は、ゴールの前でいつも手を繋ぐ。
転がって行く物を、止める者がいない。
子守唄は覚えていない。
そう
此の人は、此の人 ――――…
割ってみたところで、そこには膝を抱えて更に小さくなった、此の人しかいないのです。
陰であろうが、日向であろうが知ったことではなく、
何も、
貰えないのか……
真昼間、太陽に照らされながら、モグラのように
もしくはオケラのように
も ぐ り た い
この迷宮を感じながら、此の人は書き始めだけ綺麗な文字で書かれた、自分のノートを思い出すのです。
此の人の場合、人がそれほどと思わないものも贅沢な品に当たる。
うちにある高価だったもの。
それは、羽毛の布団と絵画
この2点。
街中で声を掛けられ、為す術も無く購入させられた、高価だったもの。
此の人はいまだにそのローンを払い続けているのです。
この布団と絵が、本当に高価だったかどうか、そんなことは此の人には興味がない。
この2つは此の人にとって、『高価だったもの』という認識でしかないのです。
此の人はしかし、贅沢なものをもう一つ持ち合わせている。
だから、あれはいらないと悩んでいるのです。
断らないのが最善であると同行した会社の慰安旅行の宴会で、不覚にも手に入れてしまった、腕時計。
ゲームで優勝などと、目立ちすぎてしまった。
それに加え、こんな贅沢なものを貰ってしまった。
会社の名前が深く刻まれた、金色の腕時計。
でも此の人は、この腕時計はいらない。
此の人の住む、あの部屋の台所。
しょうゆ、みりん、お酒。
三角形に並べられたその隙間には、ケースに入れられた銀色の腕時計が置かれています。
思い出の品
思い出のもの
証拠のもの
恋人がいたという、証拠のもの
此の人にとって、それがあれば十分なのです。
月に一度、思い出したようにその腕時計を取り出す。
銀色のそれを磨いたり、眺めたり、顔にのせて寝転がってみたり。
―――― あの人は ……
……この時計は まだ動く
いいね 時計は
秒針に気を取られながら、ニヤニヤ。
爆笑するでもなく、ただニヤニヤと。
月に一度は、そうやって眺めるのです。
この日、此の人はその時計ではなく、違う腕時計を手に、じっと眺めてみました。
金色の腕時計。
大きく深く、会社の名前が刻まれた、腕時計。
眺めながら、此の人は何とも思わないようにする。
次の日から此の人は、この腕時計を嵌めて出勤します。
他の人から見ればダサイだけの、腕時計。
此の人にとって、贅沢で要らない、この腕時計。
人からのダサイという評価は腕時計であって、自分に対するものではない。
そう考えれば、此の人にとっては心おきないことなのです。
此の人にとって本当の『証拠』の腕時計は、しょうゆとみりんとお酒に挟まれ、あの部屋に置いてあるのですから。
この日、此の人はいつものように出勤し、いつものように黙々と作業をこなしていました。
しかし昼休憩が終わり再び仕事に入った頃、此の人の人生にとって何度目かの大ごとが降りかかる。
いつものように下を向いて、ただ黙々と仕事をしている此の人の肩を、後ろからちょんちょんと叩く人がいました。
振り返った此の人に、其の人は言うのです。
「明日、仕事が終わった後に飲み会があるんだけど、行こうよ」
この会社にはそういった行事が少なく、いつも此の人は助かっていたのです。
しかし、急に突然舞い降りた、この大ごと。
此の人にとって、異性との私語は一体何年ぶりだったのだろう。
口籠ってもごもご言っている此の人に、其の人は言います。
「みんな来るんだよ。いいじゃん、行こうよ」
みんなが行く ……
それを聞いた此の人に、この大ごとを断る作戦はありませんでした。
集合場所、時間、会費を聞き、此の人はその日、眠れない夜を過ごします。
何と言っても、フラッシュバックを繰り返す、大ごとなのですから。
当日、此の人は待ち合わせの場所に向かいました。
到着したのは、決められた時間の20分前。
その場所に、其の人はいた。
此の人を見た其の人は言いました。
「ごめんね。全員って言ったのに、6人しか集まらなかった」
それを聞いた此の人は、思わず足が止まってしまう。
全員参加と聞いて来た、この場所。
自分を除いて5人しかいない。
目玉が10個、自分の方を向く可能性がある。
人が少なければ少ないほど、その可能性がある ――――…
そう考え、怯えるのです。
怯えの極限にいる此の人。
しかし逃げることはできません。
それは余計に人目を集める行為だから。
再び歩き出した此の人に、其の人は言いました。
「本当にごめんね。まぁ、だけど人数が少ない方が楽しいじゃん」
そしてスッと手を伸ばし、其の人は此の人の手を持ち上げたのです。
それから、気づいた。
「ひょっとしてこの腕時計、あの時の腕時計?着けてるんだね」
聞くと、あの宴会時のゲームの景品を決めたのは其の人。
其の人が、これにしようと決めたもの。
「着けてくれて、ありがとね」
此の人は下を向いたまま、
「いえ、…いえ」
力いっぱい、そう答えました。
飲み会の場には、男女合計6人。
此の人はまず決める。
呼吸のみ、しておこう
ただ、此の人は自分が多少浮き足立っていることに、気づいていない。
此の人はお酒を飲みません。
飲めないのではなく、飲みません。
自制のブレーキは朝・昼、深夜であろうと、MAXでなければいけないからです。
しかし、此の人の顔はすでに赤い。
その原因は、先ほど何年ぶりかにした、異性との会話・接触。
それ以外の何物でもないのです。
此の人にとって最悪のパターンが目と鼻の先にあることに、此の人は気づいていないのです。
此の人の顔は、この時とても、赤いのです。
今回此の人は、目いっぱいの自制を張り、ドカッと座っています。
目線は下ですが、大きく座っているのです。
他の5人が楽しそうにしているのを横目に、少人数の中目立たぬようにしている此の人に、しかし其の人は容赦がなかった。
スッと此の人の傍に座り、
「もっと大人数で、どかーんとやりたかったんだけどね」
此の人は、
「いえ、」
とだけ返事をしました。
すると其の人は、此の人が反射的に対応する前に何かに気づき、此の人の肩を触り始めた。
そしてみんなに聞こえるように、言うのです。
「ガリガリの人だと思っていたけど、カチッと締まってるんだね。うちの仕事をやってりゃこうなるよね。
失礼かもしれないけど、意外だよ」
そう言うと、3人ほどが此の人の傍に集まってきて、此の人の体をペタペタと触り始めました。
「ほんとだー。意外だね」
―――― 一体今、何人の人が自分に触れているのか
此の人には数えることができない。
一応この服は昨日買った、新品です
そう思い、
みんな、手を洗う必要はありませんよ
そう考えることで必死でした。
この飲み会の間、酔った其の人は延々と此の人に話しかけている。
酔った其の人は、此の人の手を握る。
酔った其の人は、此の人の肩を抱く。
此の人は思うのです。
酔っていようが、酔っていまいが ――――…
会も終わりに近づいてきたのか、数人が二次会の話をしています。
此の人は思わず、その二次会に参加しそうになりました。
が、いけません。
半分が二次会に、半分が帰宅することになります。
その帰宅する半分の中に、其の人も入っていました。
其の人が家に帰ると聞き、ほっとしてしまった、此の人。
この安堵感が何なのか。
いつもの此の人とは違い、考えることはしません。
この場所から自転車で、あの部屋まで1時間。
此の人はいつものあの部屋に、帰るのです。
そしてこの日の溜息は、とても心地が良いのです。
此の人、昨夜の大ごとで確実にズレが生じています。
しかし、此の人は気付かない。
この日は土曜日。
なのに、いつものカレー屋には出掛けていません。
此の人は気付かない。
昼間、うろうろした繁華街。
いつもと違う、速度と歩幅。
此の人は気付いていない。
毎日明け暮れる、自分との敗者のいない口論。
これをしない。
此の人は、気付いていないのです。
昨夜着ていた服はビニール袋に包んで、大事に仕舞った。
これは要らないと冷ややかな、道路に落ちている吐き棄てられたガムを見るかのような目で見ていた、この腕時計。
それを眺め、腕に嵌めては外し、顔にのせてごろごろ。
着ている服の中に入れてみたり。
此の人は、それをそうやって、愛でているのです。
此の人は、気付いていないのです。
此の人は、あの頃のことを忘れてしまったのだろうか。
此の人にとって、そんなことは有り得ない。
―――― いまだに手に残る、感覚
あの時の、布団の匂い
そして、あの夜
我が子でも見捨てたであろう、窮地
アスファルトでさえ捲り剥がせたであろう、窮地
何をも考慮に入れず邁進した、夜
ただただ、一点を見つめ ――――……
いろんなものに等しかった、夜
自分が1番だったと確信した、 ―――― 夜
週が明けた此の人は、明らかに変わっていたのです。
何をも恐れていた日々が懐かしい、とまではいきません。
ただ、何が違うのか。
そう
此の人の中で、自分は再び2番になったのです ――――。
此の人は勇気を込めたのです。
次の日、出勤の際、ほんの少しだけ髪型を変えた。
万人が気付かない程度に。
誰も気付かない……?
でも、此の人の中に居る其の人は、気付くはず。
そう信じるのです。
頬と頬が触れたような、そんな近い距離。
思いやりの距離。
勘違いの距離。
案の定、会社の人たちはこれに気付かない。
でも、此の人は信じるのです。
先日の飲み会で一緒になった人たちと、2~3回会話を交わした。
そして、いい気になるのです。
その日は其の人とは会うことができませんでした。
でも、此の人の『何か』は萎えることはありません。
いつもの見慣れた帰り道が、少し変わって見えるのは、此の人が揚々としているから。
これは、すれ違いの距離ではなく、
此の人の、
勘違いの、
距離。
此の人の住む地域の雪は、降り続ける。
積もることを止めないのです。
暗い、あの大きな木の木陰は、灯台の足元のように光が当たらない。
雪が降ると、更に安全です。
しょうがないと生きた日々の中、この雪の積もる時期になると、此の人はあの木の、印を付けた傷元まで出向くのです。
もうあの人には何もあげられないから、
磨いてあげる
そう考え、真夜中に出向いていたのです。
ですが、今のこの調子のいい此の人は、あの場所には行かない。
あの、しょうゆとみりんとお酒に挟まれた銀の腕時計は、少々油でねっとりし始めている。
此の人は、新しい思考に走っているのです。
差別してほしい
あっちではなく、こっちの方へ
此の人の勤める会社は大きな工場。
勤める人数も大勢いる。
あの飲み会の日以来、此の人は其の人と特には接していませんでした。
でも此の人はお構いなしなのです。
新しい思考で走る此の人にとっては、今の此の人の毎日は、少し前のあの頃とさほど変わりはない。
ですが、一点違うところ。
休みの日には、必ず繁華街に出かけるようになったこと。
目的もなくウロウロする中、カップルを横目に此の人は思うのです。
自分とそれほど ――――……
此の人にとって要らないことであった、繁華街をうろつく行為。
そんなある日、その街中で此の人は見つけるのです。
其の人を。
自然と笑顔になる此の人。
ですが、1秒後に見えたその光景は、此の人を貫通したのです。
―――― 目に余る、光景。
其の人は、異性と腕を組んで歩いている。
親しすぎるほどの、2人を含んだ光景。
そして其の人は腕を組んだまま、スッと此の人の横を通り過ぎる。
声も掛けてもらえない。
其の人の話し声は、此の人にとって雑音でしかないのです。
此の人が貫通されたのは、
これで、二度目なのです。
此の人はその足で、自分の部屋に帰るのです。
泣くだけならば、まだいい。
沸点を通り越し、血沸き肉踊る、此の人。
違和感があるほどの静寂を装いながらその部屋でじっと過ごし、夜中を待つ。
そして、思い出すのです。
―――― 断末魔は、なかった。
眠らせてからの、行為。
幼い頃に、ダンボールに何度も何度も突き刺した鋏の感触に、似ていた。
食物連鎖の一角を、皆が背負う
ならば人も、それに等しいはず
何故、角を鋸で切られても、鹿は痛がらないのか
そして、此の人は忘れていたことも忘れ、研磨剤とタオルとスコップを手にあの大きな木まで出掛けるのです。
その目印には、此の人がナイフで刻み込んだ『目印』がある。
此の人は雪土もろとも、一心不乱にその目印の下を掘り起こす。
ごめんね
ごめんね
来るのがいつもより遅くなって、
ごめんね
今から此の人が愛でようとするものは、
あの人の『一部』
―――― 自分のいろんな考えに人を巻き込むのが、きみの癖だよ
あの人の、ことば。
リアリズムに身を任せようとした、自分の罠。
此の人の、考え。
いつもと同じくらいの時間を掘り起こすと、銀色の器が出てきます。
その中にあるのは、ほぼ白い あの人。
もうあの人ではない、あの人の一部だった もの。
此の人の中で終わらせたつもりのないあの人の
―――― すべて
自分の中で生き続けると、何百万回も唱えた、
あの人の一部だった もの。
此の人は思うのです。
一体自分は何番なんだ、と。
鳥肌を立てながら、武者震いするのです。
―――― 今度ばかりは隠しきれない。
そして全力疾走で、山を駆け降りる。
あの部屋へ、戻るために。
此の人が部屋に駆け込んで向かったのは、ベッドの前。
ベッドの下から引き出したのは、あの日以来、触れていなかったもの。
タオルでぐるぐる巻きにされている、それ。
巻きつけた際に張り付いてしまったそのタオルを、べりべりと剥がしていく。
その刃物は、やはり錆びている。
あの日以来、他のことには使っていないからだ。
その刃物を強く握り、眺めて思う。
気持ちの整理 ……?
拍車をかける。
自分が悪い?
これが悪い
この腕が悪い
この肘が悪い
この手が悪い
この指が悪い
この爪が悪い
やはり、失敗作 ――――…
写生会の授業では景色ではなく、隣の人の絵を見てそれを描いていた。
失敗しないように。
『違う』という言葉には、人より早く対応した。
―――― 失敗作
どこかで変形したんだ きっと
此の人は、鳥肌を抑えきれないでいる。
見つめるものは、元これは要らないと言った、腕時計が嵌められた腕含みの、錆びた刃物。
……何となく、
何とかうまく、伝えなくっちゃ
気付かない振りをできるかな
今度は、無理だな ……
どんな衝動が働こうが、どんなに思案しようが、今この場で思う此の人の行き先は、決定済みなのです。
その刃物をまた生かすつもりで、カバンの中に仕舞い込む。
そして音もなく立ち上がり、玄関に向かうその途中、此の人には気付くことがあった。
赤いランプが点灯しています。
―――― 留守番電話の、知らせ。
今度ばかりは無理だと思いつつ、どこかで自分を信じている、此の人。
隅の方にある余裕を見せ、そのメッセージを聞いてみる。
そこから聞こえてきたのは、母の声。
『…… 元気かい?』
一言だけ含まれていた、母の声。
それを聞いた此の人は、その場に静止する。
自分の知らなかった、一面だったのです。
此の人は、この時ばかりはとぼんやり考える。
あの人を恋人と表したのは、此の人の思想。
自分にもある本当の弱さを知れば、本当の 人 ――――…
カナブンを水に沈めて遊んだ。
蚯蚓には有無を言わせなかった。
終わったのか?
あの人は
このままでは餌のように屈し、排泄物のように処理される。
此の人は自分の気前とは裏腹に、勝者でいたかった。
知りすぎたことに相反する、他人の腕前。
此の人のキャパを凌駕していたのです。
此の人は、頭を掻き毟らない。
そして向かったのは、最初の目的とは真逆である、
警察署。
事の重大さは、此の人にとって生活を変えるものだった。
ならば、なかったことに……
今回は、無理だ
刃物と、台所に置いてあったあの腕時計を手に、此の人は警察署に向かうのです。
此の人は誰よりも敏感に、誰よりも知っていた。
あの人のことが、事件になっていたことを。
知らん振りは大変ではなかった。
何万回も自分の中で、秘めたから。
此の人は、あの人を終わらせた張本人。
犯人なのです。
警察署でその内容を述べた此の人に対する、答え。
……時間が経ちすぎていたのです。
国は此の人を裁こうとしません。
何故警察で告白したのか。
此の人にも分からない。
ただ、白々しい告白ではなかったのです。
無知が故に、起こったこと。
無知が故に、掴み取れなかった 罪。
国は此の人を罰しません。
此の人は噛み締めるようにあの山を登り、あの大きな木を目指します。
そしてその木の根元まで辿り着くと、靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ捨て、登り始める。
此の人はあの大きな木の天辺まで、登っていくのです。
天辺で手を使わず、足のみで立ち上がり、唾を飲み込むが立ち竦まない、此の人。
これから破裂するであろう自分を知り、何かを抑えきれずにいる自分をこの場に置いて、見上げます。
此の人は、あの大きな木の天辺にいるのです。
次に自分がどうなるかを、知りながら ――――……




