架空戦記 未命名 商船改造空母もの
帝国海軍は有事の場合を見越して、商船を徴発した特設艦船を戦闘の補助戦力とする計画を、平時から立てていた。戦前に行われた政府の商船建造支援事業である船舶改善助成施設、ならびに優秀船舶助成施設を見れば一目瞭然である。
前者は昭和5年にスタートし、中古船を解体し新船を建造した場合、その重さに応じて補助金が出る制度であった。この時の建造船には、砲座を付けられるよう予め甲板の強度を強化するなどしていた。
後者は昭和13年にスタートし、こちらは純粋に新造船に対する補助金制度であった。ただし、前者に比べてより露骨な軍事的な要求が加えられていた。特に貨物船や客船としては不必要なほどの大きさや速力を要求され、設計者や船会社側を困らせる結果となった。
この異常なスペックの要求は、これら商船を有事の際は特設巡洋艦、特設航空母艦としてアメリカ・イギリス両艦隊に対して劣勢を強いられている連合艦隊を補助することが期待されていたからであった。
しかしながら、史実における太平洋戦争においては、これらの艦艇が充分に活躍できたとは言い難かった。特に特設航空母艦は大型で高速の「隼鷹」級を除けばいずれも、小型低速のため航空の運用が制限されてしまい、投入された資金と労力、資材に見合うものではなかった。
もっとも、これは致し方ないと言えば致し方ない。第二次大戦に突入するその時まで、各国では空母の運用や建造技術に四苦八苦していたのだから。加えて、第二次大戦突入直前からの急速な航空機の技術発展も無視できない。
航空機の高性能化に伴う大型化は、ただでさえ難しい航空機の空母上での運用に、さらに条件をつけることとなったのだから。
それでも、戦前に日本海軍が商船改造空母の建造方針に関して、史実よりマシな物を見つけ出せれたらというIFを、史実の結果から考え出さずにはいられない。
しかしながら、実際に日本海軍がそれを知る機会を得ようとするならば、平時であっても実際に造って実験する位はしなければならなかっただろう。
これは「戦時に不足する艦艇を補うのが特設艦艇」と言う前提条件を大きく逸脱する。
そこで、まず昭和12年にはじまった日中戦争(またの名を支那事変)を戦時下とする。戦時下であるならば、軍事予算も拡大され、特設空母を造る予算も1隻分程度なら確保できるとする。
しかしながら、日中戦争前後より海運需要は増加しており、商船改造空母のテストベッドになる商船などない・・・かと思いきや、あるのである。昭和13年に台風によって香港で座礁した客船の「浅間丸」がそうである。
史実では離礁の上、日本まで曳航されて、修理を受けて客船として復帰した。
しかしこの損傷が客船として修理するには不釣合いな物であり、日本郵船が同船の解体と代船の建造を決定した。これに伴い、帝国海軍は「浅間丸」をスクラップとして買取、海軍工廠で商船改造空母「翔鷹」として改装する・・・
ここまで考えた所で力尽き、これ以上は詰められませんでした。
もしここで史実の商船改造空母の不備が多数発見され、その教訓が生かされれば太平洋戦争における商船改造空母の改造プランは大きく変更することを余儀なくされるでしょう。米英のそれに近い簡易空母となったかもしれません。もしかしたら、商船改造空母の計画が全て白紙にされ、その分の予算と資材は特務艦改造空母に向けられるかもしれません。
また商船と改造空母計画の白紙化で「隼鷹」級の建造は中止となり、その穴埋めのための別の空母が建造されると言う可能性もありえます。また改造されなかった商船による輸送量の増強が、わずかながらではあるが、日本の経済に影響するという可能性までも考えられます。
さらに、ただ1隻商船改造空母となった「翔鷹」の活躍も色々と想像できます。
これだけでも、夢が膨らみますね。
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