カカシのチャイムと死に様
カカシのチャイムが鳴った。私は、それに従って堂々と歩いた。とうとう自分の使命を思い出したかのように、歩き続けた。
しかし、私は、そんな自分が嫌いだった。この決まった道を見て、私は激怒した。そうはいうものの、なすすべなくうなだれて歩く他なかった。堂々と歩く他なかったのだ。
これは、失敗ばかりして、誰からも日の目を見ることなく、時給1000円で糊口をしのいでいる30代後半の独身男の末路だった。
それでも、カカシに歓迎されて気分上々だった。その先が、絞首刑台だとしても、誰かに認められることはいいことである。
絞首刑台の方が自分の勇姿をカカシに見せつけることができる、これこそ有終の美であると満足げに歩みはじめた。
どだい、死ぬ時は、独りだ。みんながいるときだって、独りだ。だからこそ、独りであるから、共感という言葉が機能するのだ。個々孤立した独りではなくて、同化した人なら、共感なぞという言葉はなかっただろう。個々孤立した人が、交通するからこそ、共感が生まれ、他者性が確認できる。他者であることは、なおも独りであるということだ。
だから、絞首刑台に歩こうが放たれた火に包まれようが、私が死ぬ時は、誰かに見守られることなくとも、何かを遺したいのだ。
それが、やはり、俗世にまみれて欲望があるので、多くの人に見てもらいたいのだ。
しかし、それは、私の本質ではないかもしれない。
私は作ることが好きだから、残すことなんて、若い時は、考えたことすらなかった。作ることが旺盛で、なくしても作ればよい、そういう心意気があったのだ。
それが、もともとだったのだが、ひとたび、私が病になり、創作意欲があってもできない状況に陥ると、遺す、それが重要になってしまった。
それは、カカシのせいだ。
だが、カカシが然るべきことを果たす時期が来たのだ。チャイムを鳴らしたカカシは、私の作品を見るしかないのだ。
そして、私は、絞首刑台につながる道を大手振って堂々と歩くほかないのだ。
その歩く間に、私は作品を作り、ばら撒くのだ。
虎が檻に入るかのように、相当な抵抗を見せる訳もなく、私は、内心激しい激高にさらされながら、堂々と歩くのだ。
そして、カカシは、私の死を知る間もなく、私の作品を見るだけなのだ。




