星告げと氷の宰相
『今宵、獅子王が死ぬ』
薄いベールの向こう――艶やかな唇が、流れるようにその言葉を紡いだ。
シルヴァリオは、不覚にも息を呑んだ。
それほどまでに、その言葉は軽々しく口にしてよいものではない。
この瞬間、一般市民の皮を剥ぎ取り、この国の宰相として――
この不届き者に不敬罪を言い渡すこともできる。
だが、シルヴァリオはぐっと唇を引き締めた。
今の自分は、しがない一般市民。
ここにはお忍びで来ている身だ。
――シルヴァリオ=アルトーン。
貴族から、『氷双の裁定者』
国民から、『氷の双剣』
呼び名が異なれど、共通して囁かれる評がある。
――その氷の刃のような双眸を向けられた者は、すでに逃げ場を失っている。
剣を振るうことなく、理の刃で人を裁つ。
それがシルヴァリオ=アルトーンという男だった。
そんな彼には、誰にも語らぬ密かな趣味がある。
――それが、星告占いだ。
シルヴァリオは、憶測で語らない。
数多ある情報から真実のみを抜き出し、相手を射竦めるような鋭さで言葉を放つ。
冷えきった灰の瞳は、相手の一切の隙を逃さず、妥協を赦さない。
国王に言わせれば、『脳みそに合理だけを詰め込んだ、堅物』らしいが。
兎にも角にも、シルヴァリオという男は、目に見えるものしか信じない、現実主義者。
――周囲は、そう信じきっている。
そんな彼は今、最も縁遠いはずの場所。
いや、相容れぬはずの場所にいた。
王都・星告通り
占星師に占ってもらっている最中だった。
これが表沙汰になれば、今まで氷の刃と評された自分の立場に、一瞬で亀裂が生じ、粉々に砕け散るだろう。
――それだけは、是が非でも避けねばならない。
シルヴァリオは小さく咳払いし、占星師を見据えた。
薄く黒いベールが目元を覆っている。
蝋燭の灯りに照らされた肌は、陶器のように白い。
覗く頬のラインは、流れるように美しい。
形の整った薄い唇は朱に彩られ、今は一直線に結ばれていた。
「…具体的には、何で死ぬというのですか?」
冷たい眼差しを保ったまま、シルヴァリオは問い返す。
彼女の微動だにしない仕草を、一つも見逃さぬよう注意深く見据えながら。
『…王に紅き果樹酒が運ばれる』
『…それは心臓を突き立てる刃』
『…身体は凍えるように冷え切り』
『そして、二度と動くことは叶わぬ』
(毒…ということか…?)
シルヴァリオは、顎に手を添えた。
「今宵というのは、間違いないのですね?」
『今宵は――星が散る』
『空が、星を喰らう…特別な日…そう――』
「星喰いの日…」
思わず、シルヴァリオはその言葉を口にしていた。
占星師は、言いかけた言葉を飲み込むように静かに口を閉ざし、わずかに頷いた。
「闇に紛れるには…これ以上ない条件ですね…」
シルヴァリオの独り言に、占星師は沈黙を貫いた。
「ちなみに…場所……」
『獅子を冠した王』
『――眠る場所は、静謐のみに満ちて』
『王の足元…音もなく絡みつく』
『二つの舌は、甘い偽りと冷たい真実をもたらす』
『そして……盃を重ねることはない』
「星のお告げはここまでです」
予言を告げる声より――やや高い声。
占星師は、そう言葉を締めくくった。
「……ありがとうございました」
礼を述べると、シルヴァリオは席から立った。
占星師もまた、反射的に立ち上がる。
そして歩き出した、その次の瞬間――かすかな抵抗が足元に伝わった。
シルヴァリオは、迂闊にも占星師のローブの裾を踏みつけていた。
占星師は体勢を崩し、その拍子に、長いベールがふさっと落ちる。
――蠟燭の灯火が、大きく揺れた。
シルヴァリオは、咄嗟に彼女を支える。
その瞬間、彼女の素顔が露わになった。
――息をするのも忘れ、その黄金色の瞳に魅入られる。
占星師は彼の胸元を強く押し退け、咄嗟に距離を取った。
そして袖で顔を隠しつつ、足元に落ちたベールを拾い上ると、すぐ被り直す。
「し、失礼!」
シルヴァリオが慌てて謝罪するが、
「……もう、お帰りください」
彼女の口から発せられたのは、あまりにも冷淡な声音だった。
――拒絶。
シルヴァリオは言葉を失い、もう一度、深々と頭を下げる。
そして何も言わぬまま、天幕の外へと姿を消した。
◇ ◇ ◇
「絶対、見られたわ…」
占星師―ルル=アストレイア=ノクターンは、深くため息をついた。
「まだ分からないでしょう」
布を針で縫いつけながら、叔母―カミラが楽観的に言う。
「目が、合ったもの……一瞬だったけれど」
その気休めの言葉を素直に受け取れず、ルルは崩れ落ちるように丸椅子に腰を下ろした。
「この瞳を……見られた……」
思わず俯く。
――その瞳は、輝くような黄金色だった。
「…星詠が姿を消して、もう久しいわ」
「でも―」
ルルは、天幕での出来事を思い返す。
「……あの『氷の双剣』なのよ」
貴族からも、市民からも、恐れられるあの宰相が、まさか占いに訪れるなど夢にも思わなかった。
「……最悪だわ」
「私たちは決して罪人ではないわ。 それに宰相様は、理不尽なことで断罪するお方ではないはずよ」
カミラの言葉は、理屈として納得できるものだった。
宰相―シルヴァリオ=アルトーンは、平民であろうと、己より高い身分であろうとも、等しく裁く。
恐れられる一方で、市民からの信頼もまた、確かなものだった。
「――ルル」
名を呼ばれて、ルルは顔を上げる。
「誇りを、忘れては駄目よ」
その言葉に、ルルは自然と背筋を伸ばした。
「もちろん。私たち――星詠の誇りは決して忘れないわ」
強い眼差しで、窓の外を見る。
昼間でも星が見えるはずの空は、漆黒に染まっていた。
「――星喰い」
小さく呟いた声は、静かに、夜空へと溶けていった。
◇ ◇ ◇
葡萄酒の入ったカラフェを抱え、女は静かに寝室へ足を踏み入れた。
(現国王の部屋にしては……随分と質素ね)
さり気なく視線を巡らせる。
獅子王と冠される現国王―レオン=レオニス。
太陽のような華やか容貌を持つ王の私室にしては、あまりにも飾り気がない。
「ん? 誰かいるのか」
天蓋もない寝台の上で、気だるげに横になっていたレオンは、のっそりと上体を起こした。
「はい。お休み前のお酒をお持ちしました」
女は艶を含んだ声で、穏やかに告げる。
「そうか」
近くへ来るよう促され、女はしずしずと王のもとへ歩み寄った。
「見ない顔だな。新入りか?」
「はい」
「座ったらどうだ」
物腰柔らかい声音に促され、
「失礼いたします」
女は、レオンの傍へと腰を下ろした。
雑談を交えながら、女はカラフェを傾け、葡萄酒を硝子の杯へ注ぐ。
小刻みの良い小さな音を立てながら、杯は深い赤に満たされていった。
「硝子製とは、珍しいな」
レオンの何気ない一言に、女の手が一瞬だけ止まる。
内心の動揺を押し隠し、妖艶な微笑みを浮かべる。
「はい……葡萄酒の色合いを、ぜひ楽しんでいただきたく」
「ほう」
杯を受け取ったレオンは、それを燭台の灯りにかざす。
茶を含んだ深い赤が、指先の動きに合わせて静かに揺れる。
「なるほど。お前が見せたくなるのも分かる。いい色合いだ」
満足げに頷くレオンに、
「そう言っていただけて……とても光栄ですわ」
女はそう応じた。
そして逞しい胸元へゆっくりと手を這わせながら、女は切り込みの入った薄布の隙間から、すらりとした脚を覗かせる。
蠟燭の灯りに照らされ、滑らかな肌が艶やかに光を帯びた。
「味の方も申し分ございません。どうぞ……召し上がってください」
身を寄せ、耳元で囁く。
「そうだな」
レオンは頷き、硝子の杯を傾けながら、口元へと運んだ。
女は、内心ほくそ笑む。
その時。
「――それを、こちらへ」
静寂に溶け込むような、低く静かな声が背後から落ちた。
「……!」
女が、弾かれたように振り返る。
――そこに立っていたのは、燭台を手に持ったシルヴァリオだった。
「リオか、どうしたんだ?」
「その杯を、置いていただけませんか」
言われたまま、レオンは寝台脇の卓へと硝子の杯を置いた。
それを確かめると、シルヴァリオは静かに歩み寄る。
燭台を卓に置き、代わりに、そこにあった空の銀杯を手に取った。
――女の目が、わずかに見開いた。
それの変化を横目に捉えながら、シルヴァリオは葡萄酒を銀杯へと注いだ。
「――ご覧ください」
そう告げると、再び葡萄酒を元の杯に移し、空になった銀杯を差し出す。
促され、レオンは杯の中を覗き込んだ。
――銀の杯は、黒ずんでいた。
「……ほう」
レオンは驚いた様子も見せず、ただ静かに呟いた。
◇ ◇ ◇
「占星師殿。貴女の言葉がなければ、陛下は今頃……感謝いたします」
天幕の中へ入るなり、シルヴァリオは深々と頭を下げた。
「私は、星の導きを詠んだに過ぎません。礼など不要です」
ルルは椅子に腰掛けたまま、視線を向けずに言い放つ。
「それでも、私は礼を言いたかったのです」
「では、その用はもう済んだことでしょう。どうぞ、お帰りください」
あけすけな拒絶を滲ませ、入り口へと視線を移す。
しかし、シルヴァリオは立ち去ろうとはしなかった。
「もう一つ。……先日は失礼いたしました」
その一言で、彼が何を詫びているのか悟る。
「気にしていません」
短く返した、その直後。
「あなたが“星詠”であることは、承知しています」
ルルは思わず、息を吞んだ。
「貴女が星詠の一族であろうと、それは過去のことです。
それを理由に、貴女を非難するつもりは毛頭ありません」
その言葉は、ルルにとって思いもよらないものだった。
「それだけお伝えしたかったのです。………では、失礼します」
一礼を残し、シルヴァリオは身を翻した。
声をかけることもできないまま、ルルはその背を見送る。
その時。
あらゆる音が、すっと遠のいた。
まるで不可視の壁に隔たれたように、世界が静まり返る。
研ぎ澄まされた耳が、ひとつの音を拾い上げた。
キィィン……
音叉を打ち鳴らしたような、空気の震え。
――星告げが降りる。
「……待って」
制止するその一言に、シルヴァリオは足を止め、振り返った。
◇ ◇ ◇
『終焉は、まだ遠い』
『闇はなお、獅子の足元で蠢く』
書物を捲る手を止め、シルヴァリオは星告げの言葉を反芻した。
――まだ、終わっていない。
占星師の星告げを鵜吞みにしたわけではない。
ただ、合理的に否定できないものも含まれていた。
『今宵、獅子王が死ぬ』
獅子王が、現国王レオン=レオニスを指すことは、即座に理解できた。
あの時に告げられた言葉を繋ぎ合わせれば、導き出されるのは――
「星喰い日、国王は毒によって命を落とす」
という結論だった。
星詠という名が薄れるにつれ、星告げは信憑性を失い、いつしか占いという迷信へと変質していった。
だが、星詠という存在そのものが、消えたわけではない。
占星師の素顔を見た、その瞬間――
金色の瞳を目にして、彼女がその星詠の血を引く者だと確信した。
星詠の中でも、金色の瞳を持つ者は極めて稀であり、他と比して、予言の精度は段違いに高いと伝えられている。
かつての王が星詠の一族の者から妃に迎えた際、選ばれたのもまた――金色の瞳を持つ女だった。
表向きの歴史では、その妃の予言はすべて外れたと記されている。
――だが、真実は異なる。
シルヴァリオは、再び書物へと視線を落とした。
占星師の星告げを半ば受け流していた彼でさえ、彼女が星詠だと分かった瞬間、その星告げの信憑性を無視できなくなった。
さらに、あの言葉。
『――眠る場所は、静謐のみ満ちて』
現国王は、華やかな容姿に似合わず、実際には質素で倹約家な生活を好む。
――それを知る者は、ごく限られていた。
星告げの言葉は、一般的には知られていない王の寝室の在り方と一致していた。
とはいえ、それはあくまで“調べるきっかけ”に過ぎない。
確証を得るため、シルヴァリオは星告げの言葉を手掛かりに調査を進めた。
だが、今回に限っては時間が迫っていた。
本来行うべき綿密な裏取りは、十分とは言えない状態だった。
そのため彼は、他者から受け取ったものを口にしないよう、王に進言した。
結果として、女が運んだ葡萄酒をその場で調べることで、動かぬ証拠を掴み、未然に事を防ぐことができた。
そして、今回の星告げは、女の単独の犯行ではないことを明確に示している。
――闇は、なおも蠢いている。
――獅子の足元で。
文字を追っていたシルヴァリオの視線が、一点に止まった。
そして綴られたその名を、無意識に指でなぞる。
◇ ◇ ◇
「……」
窓辺の椅子に腰を下ろし、ルルは夜空を見上げていた。
――また、星告げが降りた。
再び、王の暗殺を示唆するものだった。
現国王は、国民に重い税を課すことはない。
他国との関係を積極的に築き、貿易に力を注いでいる。
砂漠地帯に位置するこの国は、作物の生産に適していない。
その代わり、石や金属を加工する技術が発展してきた。
――自国の産業を、他国に売り込む。
閉鎖的だった国の在り方を変えた現国王の政策は、称賛を集める一方で、保守派から反感も買っていた。
――何事にも、光と影はある。
それは、星詠とて同じこと。
かつては、神聖な存在として敬われていた。
だが今では、忌むべきものとして疎まれている。
『貴女が星詠の一族であろうと、それは過去のことです。
それを理由に、貴方を非難するつもりは毛頭ありません』
シルヴァリオの言葉が、静かに――ルルの胸に沁み込んだ。
◇ ◇ ◇
翌日。
「あの人に……ひどい態度を取ってしまったの」
ルルは、胸の内をカミラへ打ち明けた。
――自分の振る舞いは、あまりにも身勝手だった。
たった一言で、彼への見方が大きく変わった。
あれほど冷たい態度を取っておいて、今さら悔いるなど、あまりにも調子のいい話だ。
「それで、どうしたいの?」
縫い物の手を止め、カミラが穏やかに尋ねる。
「……謝りたい。でも……」
「謝ることは、決して恥じではないわ」
俯いたルルに、カミラは静かに言い聞かせる。
「かつての星詠の民は、気高い誇りを持って人々を導いていた」
カミラは、窓の外へ視線を移し、そのまま言葉を継いだ。
「星の声を聞き、人を導く。それが我々の誇りだった――
…いいえ、今の私たちにも、きちんと受け継がれているわ」
一拍、置いて。
「謝ることは、決して我々の誇りを蔑ろにする行為ではない。
それをそう思うのは――ただの“思い上がり”よ」
ルルは、はっと顔を上げた。
「私たちは星神ではないの。
……時に、道を踏み外すことだってある、ただの人間よ」
「………」
「だから、恐れずに。――自分の考えに従いなさい」
そう言って、カミラは柔らかく微笑んだ。
ルルに小さく頷き、椅子から立ち上がる。
「………カミラ叔母さん、ありがとう」
その言葉を残し、ルルは静かに部屋を後にした。
◇ ◇ ◇
『…過つ星。それはいずれにせよ、流れるもの』
“星預”は、暗がりでそう呟いた。
「どういう意味だ……」
男は、片眉を吊り上げ、低い声で問いただす。
「こうなることは、想定内だった――それだけのこと」
「……次はどうなる」
不服そうに腕を組み直し、男は苛立ちを隠さぬまま、二の腕を指先で小刻みに叩いた。
『氷の刃…闇に近づく』
「…っ!」
男は息を詰め、忌々しげに名を吐き捨てる。
「……シルヴァリオ=アルトーン!!」
それだけ言い残し、男は早足に部屋を後にした。
『――太陽は、不変の輝き』
星預の言葉は、なおも続く。
『……そして、黄金の星は、変化を望む』
星預は、窓の外へと視線を向ける。
「私は…認めない」
その呟きは、夜の闇に溶けるように消えていった。
◇ ◇ ◇
「王兄上の命が狙われた一件、最も詳しく知っていたのは……一体誰だ?」
その問いに、居並ぶ廷臣たちは言葉を失った。
「それは………」
誰もが口を開きかけ、しかし続けられずに押し黙る。
「――宰相のシルヴァリオ=アルトーンだ」
弟殿下が誰も口にできなかった名を告げると、場が凍りついた。
「毒を疑い、先回して動いた。あまりにも出来過ぎではないか」
「……確かに」
小さく、同意の声が漏れる。
「王兄上の厚い信任を得る一方――その裏で、王を害そうと目論んでいたとすれば?」
「しかし……証拠は……」
一人の廷臣が、耐えきれず声を上げた。
次の瞬間。
弟殿下が机上に書物を叩きつけた。
乾いた音が広間に響き、廷臣たちは息を吞む。
弟殿下は拳を固く握り締め、声を張り上げた。
「王兄上を謀る不届き者を――私は、断じて許さぬ!」
◇ ◇ ◇
「シルヴァリオ=アルトーン」
名を呼ばれ、彼は静かに筆を置いた。
顔を上げ、衛兵を見据える。
険を帯びた表情ではない。
だが、その冷えた双眸は相対する者を居竦ませるには十分だった。
「国王暗殺未遂の容疑で、貴殿の身柄を拘束させてもらう」
シルヴァリオは何も言わずに、椅子から立ち上がる。
あまりにも潔い態度に、衛兵は言い知れぬ不安を覚え、思わず乾いた喉を鳴らした。
◇ ◇ ◇
――シルヴァリオと、再会することは叶わなかった。
気づけば、ルルは星告通りにある自分の店――小さな天幕の前に立っていた。
今思えば、顔を合わせるのはいつも此処だった。
占星師と客として、言葉を交わすだけの関係。
相手は、国の宰相だ。
本来、気軽に会える相手ではない。
ましてや素顔を隠していれば、他の占星師と区別がつくはずもない。
それに――
(あんな態度を取ったんだもの……もう、ここには来ないわよね)
ルルは天幕から背を向け、歩きだそうとした――その時。
「失礼。ここの店主の方でお間違えないでしょうか?」
呼び止める声に、足を止める。
振り返ると、そこに立っていたのは、一見すると一般市民の男だった。
だが、訛りのない言葉使いと妙に整った所作が目に留まる。
「…そうですが」
――貴方は?
問いかけるより早く、男は封がされた一通の手紙を差し出した。
「宰相殿からです。――必ず、貴方に渡すよう仰せつかりました」
ルルは目を見開き、それを受ける。
男は周囲の視線を避けるように口元に手を添えて、続けた。
「あの方は……現在、拘束されており…身動きが取れない状態です」
「っ!……どうして……」
思わず声を詰まらせるルルに、男は静かに首を横に振る。
「詳しくは………どうか、お察しください」
秘密裏に動いているのだろう。
ここに来ること自体が、危険を伴う行為なのかもしれない。
「分かりました…」
そう返すと、男は小さく一礼し、雑踏へと溶け込むように姿を消した。
◇ ◇ ◇
――――――――――――――
国王のもとへ向かってほしい
――――――――――――――
手紙に記されていたのは、それだけだった。
あまりにも短い文面は、切羽した状況の中で書かれたものだと、容易に想像につく。
――シルヴァリオは、拘束された。
手紙を渡してきた男の言葉が、脳裏によぎる。
今回の件と、無関係ではないだろう。
そう思った瞬間、胸の奥が重く傷んだ。
(……私の星告げのせい?)
それでも身動きが取れない彼が、この手紙を自分に託した意味はすぐに分かった。
「あら、ルル。帰っていたのね」
扉の前に立ち尽くすルルに、カミラが声をかける。
「……どうしたの?」
その表情に何かを感じ取ったのだろう。
カミラは言葉を重ねた。
「私、行かないと……でも」
手紙を握る指に力がこもり、紙がくしゃりと、かすかな音を立てる。
カミラは一度それに視線を落とし、すぐにルルを真っ直ぐ見つめた。
「――星々はね、変えられる未来しか、私たちに伝えないの」
俯くルルに向けて、しかし確かな声で語る。
「それを実際に変えるのは――私たち自身よ」
ルルは、弾かれるように顔を上げた。
今回の星告げを受け、シルヴァリオは迷わず行動した。
――だから、国王暗殺は未然に防げた。
未来を変えたのは、シルヴァリオ。
だが、そのきっかけを与えたのは――ルル自身だ。
今まで自分は、降りてきた星の声を伝えるだけだった。
それが星詠――今では『星預』と名を変えた存在の使命だと、疑いもしなかった。
その言葉を聞いた者が、どう選び、どう行動したのか。知ろうともしなかった。
――今思えば、それはあまりのも傲慢だった。
言葉を伝えた瞬間から、占星師にもその言葉に対する責任が生まれる。
――ならば、自分は最後まで見届けるべきだ。
「………カミラ叔母さん、私、行ってくる」
そう告げると、カミラは穏やかに微笑みを浮かべた。
「いってらっしゃい」
小さく頷き、ルルは静かに部屋を後にした。
◇ ◇ ◇
「レオン陛下。あなたの在り方こそが、この国をより豊かなものへと変えたのでしょう」
「いや。あなた方のご尽力があってこその成果だ」
「ご謙遜を。我々は、その恩恵に預からせていただいているに過ぎません」
閉鎖的だった国の在り方を改めて、積極的に外交へ舵を切ったことで――この国は目覚まし発展を遂げた。
他国と比べても目立つ、自国独自の産業。
その強みを明確に生かしたレオンの政策は、確かな国益をもたらしている。
衰退の兆しを見せ始めた他国にとって、それは実に羨望の的だった。
――その技術を、我が国にも。
外交の席では、技術者の派遣を求める声が絶えない。
だがレオンは、どれほど好条件を並べ立てられようと、安易に首を縦に振るような――愚王ではなかった。
(………格下が、調子に乗りおって)
へりくだった笑みを浮かべる外交官が、さりげなく目配せをする。
すると、背後に控えていた影が、静かに揺らいだ。
差し出されたのは、小ぶりの箱。
「それはそうと――レオン陛下。ぜひ、献上したい品がございまして」
「ほう。それはそれは――感謝いたす」
レオンは、外交官から小箱を受け取った。
「……これは、香木ですな」
蓋を開けると、中には乾いた樹木片が収められていた。
「はい。我が国の特産でございます」
「なるほど」
レオンはそう頷き、香木へと視線を落とした。
――仄かの香るのは、伽羅だろうか。
『安らぎの香。……それは、くすぶる煙となりて』
『…気高き獅子に巻きつく、蛇となる』
静かな声が、広間に落ちた。
ひとりの女官が前へ歩み出る。
その瞬間、誰ひとりとして咎める声を上げることができなかった。
――金色の瞳。
整った美貌以上に、その瞳が放つ神秘に、居並ぶ者たちは息を吞む。
――その場にいた者は、即座に悟った。
『それは魂を縛り。………常世へ誘う、死の香』
レオンの前に、ベールを外し、素顔を晒したルルが立つ。
「シルヴァリオ殿より名を受け、馳せ参じました」
流れるように一礼をし、こう告げる。
「ルル=アストレイア=ノクターン」
つまんだ裾を離し、静かに顔を上げた。
「――星預にございます」
◇ ◇ ◇
「先日、捕らえた女の証言も取れました」
シルヴァリオは手元の書類に視線を落とし、淡々と報告を続ける。
「女の脚に彫られていた蛇の印――あれは、セルペンス殿下の結成した組織に属する者の証だそうです」
レオンの異母弟―セルペンス。
蛇を冠した名を持つ、王族。
「………」
レオンが無言で、手を差し出した。
シルヴァリオは一瞬だけ逡巡したのち、書類の一枚を静かに渡す。
――そこには、獅子に巻きつく蛇の姿が描かれていた。
“獅子を締め上げる蛇”
その紋章は、セルペンスの胸中を余すことなく写し取っているようだった。
「蛇は影で蠢く……決して、陽照の獅子には成れぬ、か」
低く呟かれたその言葉に、シルヴァリオはわずかに目を見張った。
「ルル殿の受け売りだ」
そう言って、レオンはほんの僅かに口元を緩め、書類を返す。
「そうですか」
淡々と応じたシルヴァリオだったが、その表情は先ほどよりも幾分か和らいで見えた。
「彼女には、感謝せねばならんな」
レオンは、窓の外へと視線を移し、静かに言葉を継ぐ。
「“あれ”を受け取っていたら、私は死んでいた」
隣国の外交官が献上しようとした香木は、死を招く呪具だった。
元は、その国の王家の霊廟に手向けられていた供物。
本来は、死者の眠りを安寧に守るためのものだ。
それを、レオンを殺すための呪具として利用しようと持ち出した。
死者、まして王族の墓を暴く行為は、この国のみならず近隣諸国でも極刑に相当する重罪である。
「隣国の王より、謝罪状が届いた。……件の外交官には、しかるべき処置を下すと記されていたぞ」
その密書がレオンの元に届いたのは、つい先程のことだ。
首謀者は、レオンの弟であるセルペンス。
だが、その手に呪具を渡し、事を進めたのは隣国の外交官だった。
本来であれば、国の外交が断絶してもおかしくない。
だが、レオンは今回の件を不問とする判断を下した。
――その代わりに、次の会合において自国が有利となる密約を交わした。
「――お前は不服だろうが」
レオンは、静かに言い添える。
「決して、この件は口外するな」
それは王命だった。
「……仰せのままに」
シルヴァリオが忠誠の礼を取ると、レオンは満足そうに頷いた。
「それで――あれは、どうしてる?」
「呪具に刻まれた名を消したことで、施した者に呪詛が返ったようです」
シルヴァリオは一拍置いて、告げる。
「――“セルペンス殿下”の身に、呪印が現れたと報告が入っています」
「そうか…」
レオンは、それ以上何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
『王の冠を持つ呪われし者――未来永劫、その望みは叶わぬ』
ルルが、静かに星告げを読み上げた。
「あなたも…分かっていたはずよね?」
金色の瞳を向けられ、粗末な椅子に腰掛けた星預は、ゆっくりと視線を落とした。
「…分かっていた…わ」
膝の上で重ねた手を強く組みながら、彼女は言葉を絞り出す。
首謀者セルペンスに加担した、星預。
裁定を前に、彼女と話す機会を与えられたルルは、シルヴァリオと共に王城の地下拘留区画にいた。
石造りの一室。
導く星は見えず、天は遠い。
――星預自身も、理解していた。
これはすでに定められた結末なのだと。
「でも……私は、間違っていない」
顔を上げた星預の瞳には、確かな意志が宿っていた。
それは星詠の誇りとして、いささかも疑っていない眼差しだった。
だからこそ、ルルも真っ直ぐに、その視線を受け止める。
「そう。…それが、あなたの“星詠”の誇りなのね」
「それが、星に選ばれた私たち――星詠の一族でしょう?」
星預が、ルルを見据えて問いかける。
「ええ。でも…あなたは、誇りを守ったのではないわ」
星預が、形の整った眉をひそめた。
ルルは、言葉を続ける。
「変わることを、恐れただけ」
「っ…違うわ!」
星預が、声を荒げた。
「私は星詠の誇りを守ろうとしたのよ! あの人と、同じように――」
“あの人”が、かつてこの国の妃として迎えられた星詠であることは、言わずとも分かった。
かつて神聖な存在として敬われていた、星詠の一族。
だが時の王は、その力を我が物にしようと、一人の星詠を妃に迎えた。
――黄金色の瞳を持つ、最も優れた星詠。
王の思惑とは裏腹に、彼女の予言はことごとく外れた。
――否。外したのだ。
たとえ、相手が一国の王であろうとも、
それが私利私欲のためであるならば――星詠は屈してはならない。
それこそが、気高き星詠の誇り。
彼女は、自らの誇りを貫いた。
たとえそれが、一族の破滅へと繋がる道であったとしても。
「彼女の意思を…星詠の誇りを…私は、同じように守るとしたのよ!」
星預は椅子から立ち上がり、叫ぶ。
反射的にシルヴァリオが一歩踏み出しかけたが、ルルが手で制した。
無言で首を横に振ると、彼は険しい顔のまま、その場に留まった。
「……彼女はとても勇敢だったと思うわ」
ルルの声は、静かだった。
「だから誰も、彼女を恨まなかった。
多くの星詠の血が流れて……生き残った者は散り散りになって………
血も、もう薄れてしまったけれど」
胸が、軋むように痛む。
「それでも、星詠の誇りは今もこうして――私たちに受け継がれている」
――何も間違っていなかった。
星神より授かった神聖な力を守ろうとしただけなのに。
それでも星詠は、罪人のように忌み嫌われ、差別され続けている。
特に、王妃と同じ金色の瞳を持つルルは、素顔を隠さなければ生きていけない。
それは星詠としての誇りを隠し続けることと同義だった。
――それが、なによりも苦しいものだった。
だが生きるためには、この不条理さに屈するしかなかった。
ルルは喉元まで込み上げた思いを、静かに飲み込む。
星預も、また同じ境遇だった。
だがそれ以上の重みを背負っている者を前に、押し黙るしかなかった。
「…でもね」
ようやく口にした言葉には、もう迷いはなかった。
「時は、移り変わるのよ」
ルルは、はっきりと告げる。
「星詠から星預と名が変わったように……私たちも、変わっていいの」
その言葉に、星預は深く俯く。
そして――
石床に、ぽつり、ぽつりと黒い染みが滲んだ。
◇ ◇ ◇
『星を仰ぐ者、遠き地に至る』
『そして――潰えそうな一つ星は、再び光を知るだろう』
ルルの星告げが、静かに終わった。
「――やはり、すでに星告げがありましたか」
天幕をくぐったシルヴァリオは、思わず苦笑を漏らした。
「ええ」
ルルは、静かに答える。
「……それに、あなたがここへ来ることも、星が教えてくれました」
そう言って立ち上がると、ルルは頭にかけていたベールを、そっと外した。
不意の行動に、シルヴァリオは目を見開く。
「……あなたに、謝りたいと思っていたのです」
「私に…?」
思わず問い返す。
「はい」
ルルは俯きがちに、小さく頷いた。
「あなたに対して、ひどい態度を取ってしまったこと」
そして深く頭を下げながら、言葉を継ぐ。
「ご無礼を…どうか、お許しください」
「無礼など……!」
シルヴァリオは慌ててルルの両肩を掴み、顔を上げさせた。
蝋燭に照らさせた彼女の相貌は、息を呑むほどに美しい。
だが、その表情には後悔が滲み、痛々しく歪んでいた。
――今にも泣き出してしまいそうな顔だった。
その表情を直視できず、シルヴァリオは思わず視線を逸らす。
「…むしろ、謝るべきは、私……いえ――我々の方です」
その言葉に、ルルは目を見張った。
◇ ◇ ◇
「――禁書とされた記録があります」
椅子に腰を下ろし、声を落としながら、シルヴァリオは語り始めた。
「時の王に仕えていた廷臣が残した日記です。
星詠の妃は…最後に告げた予言だけは、外していなかった」
――小箱を、持ち帰るな。
これまで予言を外し続けてきた王妃の言葉に、王は一切の聞き耳を持たなかった。
だが、敵国から持ち帰った小さな箱には、一匹の蠍が潜んでいた。
それが故意であったのか、偶然であったのかは定かではない。
だが、その箱は王の寝室へと運ばれ、眠っていた王は蠍の爪毒によって命を落とした。
「王の死後、王家の者たちは、王妃の予言がまた噓だと吹聴しました」
シルヴァリオは、淡々と続ける。
「いえ、身内が犯した罪を隠匿するために――
王殺しという、無実の罪を、星詠に課したのです」
その王の時代。
星詠の一族は、星神に選ばれた神子として、国民から篤く崇拝されていた。
だが時の王は、星詠の力を己のために使おうし、拒む族長を殺し、一人の星詠を妃とした。
それを知られるわけにはいかなかった王家の者は、事実を覆い隠すため、星詠の一族を排除する道を選んだ。
――その真実を知ったからこそ、シルヴァリオは『理の刃』と恐れられる宰相としての道を歩んだ。
「もう二度と……同じ悲劇を繰り返してはならない」
氷の宰相は、目の前の水晶へと鋭い眼光を向ける。
その灰色の瞳の奥には、静かに燃え続ける青い炎が宿っていた。
――非難するつもりは毛頭ありません。
あの言葉の意味を、ルルはようやく理解した。
それは同時に、彼女自身が変わるきっかけを与えられた言葉でもあった。
ルルは、胸に溜め込んでいた息をゆっくりと吐き出す。
「……あなたの言葉は、真実を語る」
小さく呟く。
シルヴァリオは、その声に視線を向けた。
「だからこそ、あなたの言葉には、誰よりも重みがある」
シルヴァリオ=アルトーンは、真実を見抜き、等しく人を裁く。
それは星の声を受け取り、人を導く星詠の在り方にも通じている。
――否。
彼は星に委ねるのではなく、自らの理の道を切り開く者だ。
ルルは、そんな姿が眩しいと感じた。
「……これから、私は星預として生きていきます」
ルルは、彼を真っ直ぐ見据えて告げる。
「それは、星詠の誇りを忘れることではありません」
今度は視線を逸らさず、シルヴァリオはその言葉を受け止めた。
夜空の星を一つに集めたかのような黄金の瞳が静かに輝いている。
「――ならば、私は見届けましょう」
シルヴァリオは力強く言った。
「あなたの行く末を――ずっと、側で」
◇ ◇ ◇
帰り際、シルヴァリオは意を決したように口を開いた。
「……それと、もう一つ」
「?」
ルルは思わず、小首を傾げる。
「私が星告占いを好んでいることは、どうか――内密に願いたい」
至極真面目な表情に、ルルは思わず口元を緩ませた。
「真実は……隠し通せないものですよ?」
氷双の裁定者、シルヴァリオ=アルトーンは、苦笑を浮かべて答える。
「そうですね。
――これからも、あなたのもとへ、足繫く通うことになりますから」
その眼差しは、氷を溶かす情熱が灯っていた。




