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国を捨て、悪役令嬢は優雅な旅に出る  作者: 月雅


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第6話 温泉と急接近


湯気が白く立ち込めている。

午後の日差しだ。


私は木陰のベンチに座り、目の前に広がる光景に目を細めた。

湖畔の風が、火照った頬を優しく撫でていく。

ここ、商業都市ベルンの郊外にあるリゾート地は、まさに地上の楽園だった。

王都の堅苦しい石造りの街並みとは違い、開放的で、何より自由の匂いがする。


「……待たせた」


背後から声がかかる。

振り返ると、そこには見知らぬ美青年が立っていた。

いや、見知らぬ相手ではない。

変装用の伊達眼鏡をかけ、ラフな麻のシャツを着崩した私の「従業員」、カイルだ。


「似合っていますよ、カイル様」

「そうか? どうも布面積が少なくて落ち着かないのだが」


彼はシャツの裾を気にしている。

その下には、先ほど現地の露店で購入したばかりの水着を着用していた。

帝国軍人御用達だというふんどしを却下し、私が選んだボクサータイプの水着だ。

伸縮性のある最新素材で、動きやすさとデザイン性を兼ね備えている。

私の財布から支払った金貨二枚分の価値は十分にあるだろう。


「リゾートではそれが正装です。堂々としていてください」

「あんたがそう言うなら……」


彼は照れくさそうに眼鏡の位置を直した。

その仕草だけで、すれ違う貴婦人たちの視線を独り占めしている。

やはり素材が良いと、何を着せても様になる。

私は鼻が高いような、少し独占欲が刺激されるような、不思議な気分になった。


「さて、チェックインも済ませましたし、メインイベントに行きましょうか」

「メイン……ああ、例の『天然温泉』か」


カイルの喉がゴクリと鳴る。

車内のシャワーで文明の利器に感動していた彼にとって、大地から湧き出る大量の湯というのは、想像を絶する贅沢らしい。


私たちが借りたのは、湖に面したコテージだ。

一泊の値段は目が飛び出るほど高いが、この旅の資金源は潤沢だ。

母の遺産に加え、かつて私が開発した魔道具の特許収入(王家を通さず、商業ギルドと直接契約していた分)が定期的に振り込まれている。


「ここの売りは、各コテージに備え付けられた露天風呂です。他人の目を気にせず、ゆっくり浸かれますよ」

「それはありがたい。……ん? ということは」


カイルが何かに気づいたように足を止めた。

「風呂は、一つなのか?」


私はコテージの間取り図を思い出した。

確かに、露天風呂は広いウッドデッキに一つだけ設置されている。

だが、そこは魔道具大国のリゾート地だ。

抜かりはない。


「安心してください。ちゃんと仕切りがありますから」

「そ、そうか。なら問題ないな」


彼は明らかに安堵していた。

その横顔を見て、私は少し意地悪なことを考えた。

この最強の竜騎士様、魔獣相手なら一歩も引かないくせに、こういう事態には滅法弱い。

そのギャップが、私のサディスティックな心をくすぐるのだ。



コテージのウッドデッキは、湖を一望できる絶好のロケーションだった。

その中央に鎮座するのが、巨大な岩風呂だ。

源泉掛け流し。

硫黄の香りが微かに漂い、旅の疲れを癒やしてくれそうだ。


「では、私は向こう側で入りますね」


私は中央に設置された竹垣のようなパーティションを指差した。

高さは二メートルほどあり、視線は完全に遮られている。

ただし、お湯は下で繋がっている構造だ。


「ああ。……俺はこっちで」


カイルは逃げるように反対側へと回っていった。

衣擦れの音が聞こえ、ザブンという豪快な水音が響く。


私も脱衣所でバスローブを脱ぎ、体にタオルを巻いて湯船へと足を入れた。

熱めのお湯が、冷えた爪先からじんわりと染み渡る。


「ふぅ……」


思わず声が漏れた。

肩まで浸かると、全身の重力が消えたようだ。

王城での激務、婚約破棄、逃避行。

張り詰めていた神経が、お湯の中に溶け出していく。


「……極楽だ」


壁の向こうから、カイルの低い呟きが聞こえた。

彼もまた、骨の髄までリラックスしているようだ。

仕切りがあるとはいえ、距離は近い。

お湯を通して、彼の体温まで伝わってきそうな距離感だ。


「カイル様、温度はどうですか?」

「最高だ。エリカ殿の車にあった『オイダキ』も凄かったが、やはり大地のエナジーを感じる湯は格別だな」

「気に入っていただけて何よりです。これも福利厚生の一環ですから」


「福利厚生……。あんたの商会は、世界一の優良企業だな」


彼の声には実感がこもっていた。

ブラック企業(帝国軍)からホワイト企業(私)への転職。

彼の忠誠度が上がっていく音が聞こえるようだ。


しばらく無言の時間が流れた。

チャプ、チャプと、お湯が揺れる音だけが響く。

心地よい沈黙だった。

かつてアルフレッドと共にいた時は、沈黙が怖かった。

常に何か機嫌を取るような話題を探し、彼の自尊心を傷つけないよう言葉を選んでいた。

けれど、カイルとの沈黙は、ただただ穏やかだ。


ふと、お湯の中で足が何かに触れた。


「ん?」

「あ」


壁の下、お湯が繋がっている部分だ。

私の足先が、彼の足に当たってしまったらしい。

硬く、筋肉質な感触。


「す、すまない! 俺が足を伸ばしすぎた!」

カイルが慌てて足を引っ込める気配がした。

ザバザバと波が立ち、その拍子に仕切りがガタついた。


「あっ」


老朽化していたのだろうか。

あるいは、カイルの巨体が反射的に動いた衝撃が強すぎたのか。

竹垣のパーティションが、あろうことか留め具から外れ、ゆっくりと私の側へ倒れてきた。


「危ない!」


カイルが叫んだ。

次の瞬間、水飛沫を上げて彼が飛び込んできた。

倒れてくる竹垣を、その太い腕で支える。

ドスン、という重い音がして、私の頭上で竹垣が止まった。


「……大丈夫か、エリカ」


至近距離。

あまりにも近かった。

私を守るように覆いかぶさったカイルの顔が、目の前にある。

眼鏡は外しており、金色の瞳が真っ直ぐに私を覗き込んでいた。


そして、視線を少し下げれば。

鍛え上げられた胸板。

腹筋の割れたお腹。

無数に刻まれた傷跡が、彼が潜り抜けてきた死線を物語っている。

それらが、湯気と水滴で艶めかしく光っていた。


「……っ」


私は息を呑んだ。

悲鳴を上げるべき場面かもしれない。

けれど、私の口から出たのは言葉にならなかった。

ただ、心臓が早鐘を打ち、顔に血が上っていくのが分かった。

お湯のせいではない。

目の前の「男」の存在感に、当てられてしまったのだ。


「あ、ありがとう、ございます……」

「いや、怪我がなくて良かった」


カイルは竹垣を軽々と持ち上げ、元の位置へと戻した。

その際、彼もまた私の姿を見てしまったはずだ。

タオルを巻いているとはいえ、お湯に濡れて肌に張り付いた姿を。


彼は竹垣を固定し終えると、バッと背中を向けた。

耳まで真っ赤になっているのが、湯気越しでもはっきりと分かる。


「す、すまなかった! 不可抗力とはいえ、その、見てしまった!」

「……気にしないでください。事故です」

「だが、雇い主の肌を無断で見るなど、契約違反では……!?」

「そんな条項入れてませんから!」


彼は混乱しているようだ。

最強の騎士が、たかが女性の肌を見ただけで狼狽えている。

その初心な反応が、今の私には酷く魅力的に映った。

王子の薄っぺらい口説き文句より、この不器用な誠実さの方が、よほど心に響く。


(私、意識してる?)


自分の感情に名前を付けそうになり、私は慌てて首を振った。

違う。

これは吊り橋効果だ。

あるいは、温泉でのぼせただけだ。

ビジネスパートナーに恋愛感情を持ち込むのは、リスク管理の観点から推奨されない。


「……上がりましょうか。のぼせてしまいます」

「そ、そうだな! 上がろう! すぐに!」


カイルは逃げるように脱衣所へ駆け込んでいった。

残された私は、自分の胸を押さえ、熱くなった頬をお湯で冷やした。

冷めない。

全然、冷めなかった。



その頃、王国は冷めるどころか炎上していた。


王城の宰相執務室。

そこには、胃薬の空き瓶が山のように積み上げられていた。

この国の頭脳であり、良心でもある宰相は、目の前の書類を睨みつけながら頭を抱えていた。


「……なんだ、これは」


彼の震える手にあるのは、国境警備隊から早馬で届けられた報告書。

そして、それに添付されていた一枚の封筒だ。


『御見積書』


差出人は、エリカ・フォン・クロイツ。

件名は『魔導防御システム(スイートホーム号)レンタル契約の件』。


「一億ゴールド……だと……?」


宰相はめまいを覚えた。

月額一億。

年額ではない。

国庫が破綻する金額だ。

だが、その金額の横には、丁寧な筆致でこう添えられていた。


『※尚、本契約は王都の安全を保証するものであり、契約締結なき場合の被害総額(推定)と比較し、極めて合理的価格設定となっております』


合理的。

確かにその通りだった。

別の書類——各地からの被害報告書——には、結界消失による損害額が試算されている。

農作物の被害、流通の停止、城壁の修繕費、騎士団の活動費。

それらを合計すれば、既に一億を超えているのだ。


「エリカ嬢……いや、エリカ様。貴女は悪魔か」


宰相は天を仰いだ。

彼女が有能なのは知っていた。

だが、これほどまでに冷徹な商売人だとは。

かつて彼女が笑顔で提出していた予算申請書を、「金食い虫」と罵って却下したのは誰だったか。

アルフレッド王子だ。

そしてそれを黙認した自分たちだ。


今、そのツケが、利子を付けて回ってきたのだ。


「宰相! どうなっている!」


ドアが乱暴に開かれ、アルフレッド王子が飛び込んできた。

彼の顔色は土気色で、かつての美貌は見る影もない。

「東の砦が魔獣に突破された! 黒騎士団は使い物にならんし、聖女リリアは『怖いから嫌』と部屋に引き籠もっておる! 結界はどうなったのだ!」


「……ご覧ください、殿下」


宰相は見積書を差し出した。

王子はそれをひったくり、目を通す。

数秒後、彼の顔が怒りで歪んだ。


「ふざけるな! 一億だと!? あの女、余の足元を見おって!」

「足元ではありません。これが彼女の提示した『正当な対価』です」

「払えるか! こんな紙切れ、破り捨ててやる!」


王子が見積書を握り潰そうとしたその時、宰相の声が氷のように響いた。


「破り捨てれば、この国は終わります」


「……な、なに?」


「黒騎士団からの報告によれば、エリカ様の傍には『竜騎士カイル』がいました。帝国の英雄です。武力での奪還は不可能です」

宰相は立ち上がり、窓の外を見た。

王都の空は、どんよりと曇っている。

結界の輝きは、もうどこにもない。


「我々に残された道は二つ。国が滅ぶのを待つか、彼女の靴の裏を舐めてでも契約を結ぶか」

「そ、そんな……余が、あの女に頭を下げるというのか!?」

「殿下がなさらないなら、私がやります。……いや、私では役不足か」


宰相は決断した。

もはや、プライドを守っている場合ではない。

彼は机の上の魔導通信機に手を伸ばした。

かつてエリカが置いていった、直通回線用の端末だ。

これなら、着信拒否設定を回避できる可能性がある。


「かけるのか?」

王子が怯えたように問う。

「ええ。無条件降伏の申し入れです」



リゾート地の夜は静かだった。

風呂上がりの私たちは、テラスで冷えた果実水を飲んでいた。

カイルはまだ少し顔が赤く、私と目を合わせようとしない。

その初々しさに、私もどう接していいか分からず、妙な緊張感が漂っている。


「……星が、綺麗だな」

「ええ、そうですね」


ありきたりな会話。

けれど、それが今は心地よい。


その時だった。

テーブルの上に置いてあった私の携帯端末が震えた。

またアルフレッドかと思い、無視しようとしたが、表示された発信元を見て手が止まった。


『発信者:宰相閣下』


あの胃痛持ちの苦労人か。

彼からの連絡なら、ただの喚き散らしではないだろう。

見積書が届いたタイミングでの連絡。

つまり、ビジネスの話だ。


私はカイルを見た。

彼もまた、戦士の顔に戻って頷いた。


「出るのか?」

「ええ。クライアントからの注文かもしれませんから」


私は通話ボタンを押した。

スピーカーから聞こえてきたのは、疲れ切った、しかし必死な男の声だった。


『……エリカ様。夜分遅くに申し訳ありません。宰相です』

「こんばんは、閣下。私の『家』の居心地はいかがですか?」


皮肉たっぷりの挨拶。

宰相は一瞬沈黙し、そして重々しく口を開いた。


『寒くて凍えそうです。……単刀直入に申し上げます。貴女の提示した条件について、交渉させていただきたい』


来た。

私は口元を吊り上げた。

温泉での甘い雰囲気は、一瞬で吹き飛んだ。

ここからは、私のもう一つの戦場だ。


「交渉ですか? 見積書に記載した通り、値引きは一切受け付けませんよ」

『金銭の話ではありません。……我々には、貴女が必要です。どうか、国民のために、力を貸していただけませんか』


その声には、悲痛な響きがあった。

王家のためではない。

国民のため。

その言葉を選んだ宰相の老獪さと、誠実さ。


私はチラリとカイルを見た。

彼は私を信じて待っている。

私がどんな決断を下そうと、守り抜くと誓ってくれた最強の盾。


「……話くらいは、聞いてあげましょう」


私は足を組み直し、商談のテーブルに着いた。

癒やしの時間は終わり。

次は、最高にスカッとする「契約」の時間だ。


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