第4話 押しかけ契約と所有権の主張
ペンを置いた。
乾いた音がテーブルに響く。
私は書き上げたばかりの羊皮紙を手に取り、インクの滲みがないかを確認した。
テラス席のランタンに照らされた文字は、法的効力を持つ契約書の体裁を完璧に整えている。
「これで文句ありませんね?」
私が問いかけると、向かいに座るカイルは紙面を一瞥すらしなかった。
彼は食後のコーヒーを両手で包み込み、まるで忠犬のような眼差しを私に向けている。
「ああ、問題ない。俺の望みはここに居ることだけだ」
「カイル様、ちゃんと読んでください。これは貴方の人生に関わる重要な契約ですよ」
私は呆れて溜息をついた。
昨夜のハンバーグで胃袋を掴まれて以来、この帝国最強の騎士は思考停止に陥っている気がする。
私は指先で条項をなぞりながら、読み上げて確認することにした。
「第一条。甲(私)は乙に対し、魔導車両『スイートホーム号』への居住権、および一日三食の食事、入浴施設の利用権を提供する」
「夢のような条件だ」
カイルがうっとりと頷く。
「第二条。乙は甲に対し、移動中の護衛、車両への魔力供給、および家事全般の補助を提供する」
「魔力ならいくらでも吸い取ってくれ。剣も振るおう。ただ、家事というのは……」
彼が少し不安そうに眉を寄せた。
昨日の入浴時、シャワーの出し方ひとつで大騒ぎしていたことを思い出しているのだろう。
「安心してください。掃除や洗濯は魔道具がやりますから、貴方はその補助、つまりゴミ出しや高い所の拭き掃除程度で構いません」
「それなら俺にもできそうだ」
「そして第三条、ここが重要です」
私は声を少し低くした。
金銭に関わる部分は、なあなあにしてはいけない。
「乙が護衛業務中に取得した魔獣素材、およびその他のドロップアイテムの所有権は、原則として甲に帰属するものとする。これを以て、乙の生活費および車両維持費への充当(相殺)とする」
つまり、彼が狩った魔獣はすべて私の財布に入るということだ。
普通なら傭兵ギルドに訴えられるレベルの搾取契約だが、彼は食い気味に頷いた。
「構わん。金貨や宝石など、この温かいスープ一杯の価値にも劣る」
「……そうですか。では、ここに署名を」
私は羽ペンを差し出した。
彼は迷いなく受け取り、さらさらとサインをした。
力強く、達筆な字だ。
最後に拇印の代わりに、魔力を少し込めて指を押し当てる。
羊皮紙が淡く発光し、契約魔法が成立したことを告げた。
「成立ですね」
私は契約書を丸め、収納魔法の中に大切にしまった。
これで彼は、正式に私の従業員となったわけだ。
ただの同乗者から、利害の一致したビジネスパートナーへ。
「よろしく頼む、雇い主殿」
「こちらこそ、番犬さん」
私たちが握手を交わすと、カイルの手は驚くほど大きく、そして温かかった。
戦士特有の硬いタコがある掌だが、握る力は壊れ物を扱うように優しかった。
ふと、彼と目が合った。
金色の瞳が、夜の闇の中で揺れている。
そこには契約以上の、何か熱っぽい感情が含まれているように見えたが、私はあえて気づかないふりをした。
色恋沙汰で判断を鈍らせるのは、三流のすることだ。
◇
翌朝。
快適な目覚めと共に、新しい生活が始まった。
「おはよう、エリカ」
リビングへ行くと、既に起きていたカイルが爽やかに挨拶をしてきた。
彼は既に身支度を整え、窓拭きをしていたようだ。
ただし、その手つきは極めて危なっかしい。
「カイル様、その布は床用です。窓にはこちらのマイクロファイバーを使ってください」
「む……すまない。道具が多すぎて覚えきれん」
彼は困ったように笑い、布を持ち替えた。
戦場では無敵の騎士も、家事となると新米以下だ。
だが、その不器用さが不思議と憎めない。
かつての婚約者、アルフレッドなら「余に雑用をさせるな」と不機嫌になっていただろう。
カイルには、そういう傲慢さが一切ない。
「朝食にしましょうか。今日はフレンチトーストです」
「ふれんち……? また新しい呪文料理か」
彼の目が輝く。
私はキッチンに立ち、卵液に一晩漬け込んでおいたパンを焼き始めた。
バターの香りが充満すると、カイルが窓拭きの手を止めて鼻をヒクつかせる。
大型犬というより、食いしん坊な熊かもしれない。
食事を終え、私たちは再び車を走らせた。
目指すは国境の山脈だ。
助手席のカイルは、すっかり定位置に馴染んでいる。
魔力供給ケーブルを腕輪のように装着し、常に微量の魔力を車へ流し続けてくれているおかげで、燃費を気にせずエアコンを最強に設定できた。
「快適だ……」
カイルがシートに沈み込みながら呟く。
「帝国軍の宿舎など、石の床に藁を敷いただけだった。冬は凍え、夏は虫に刺される。それが当たり前だと思っていたが」
「それは過酷ですね。身体のメンテナンスも仕事のうちですよ」
「ああ。ここに来てから、古傷の痛みが消えた。あんたの飯と、あの風呂のおかげだ」
彼は愛おしそうにダッシュボードを撫でた。
私個人への好意というより、この『スイートホーム号』という環境への愛着だろう。
開発者冥利に尽きるというものだ。
「そう言っていただけると、作った甲斐があります」
「作ったのはあんただが、守るのは俺だ。……一生な」
彼がボソリと付け加えた言葉に、心臓がトクンと跳ねた。
一生。
その言葉の重みを、彼は理解しているのだろうか。
雇用契約に期間の定めは設けていないが、まさか本気で骨を埋める気なのか。
私はハンドルを握る手に力を込めた。
「……気が早いですよ。まずは国境を越えてからです」
照れ隠しにそう答えるのが精一杯だった。
◇
順調なドライブは、昼過ぎまで続いた。
街道は徐々に標高を上げ、周囲の植生が針葉樹へと変わっていく。
もうすぐ峠だ。
だが、平穏な旅は唐突に終わりを告げた。
『警告。後方より高エネルギー反応接近』
ナビゲーションパネルが赤く点滅し、アラーム音が鳴り響く。
私はバックモニターを確認した。
画面に映し出されたのは、砂煙を上げて迫ってくる黒い集団だった。
馬ではない。
魔導強化された軍馬、「魔装馬」の大部隊だ。
「あれは……」
カイルがサイドミラーを覗き込み、目を細める。
「王国の『黒騎士団』か。精鋭部隊だな」
黒騎士団。
王家直属の追跡部隊であり、要人の捕縛や暗殺を担う実行部隊だ。
まさか、ここまで本気で私を連れ戻しに来るとは。
通信拒否をしただけで、軍を動かすなんて。
アルフレッドの癇癪も極まれりだ。
「速いですね。時速七十キロは出ている」
「魔装馬なら短時間はその速度が出る。だが、持久力はない」
「振り切りますか?」
私はアクセルを踏み込もうとした。
この車の最高速度なら、彼らを置き去りにすることは可能だ。
しかし、その前に前方からも反応があった。
カーブの先、道を塞ぐようにバリケードが築かれている。
そこにも黒い鎧の騎士たちが待ち構えていた。
「挟み撃ちか。手回しがいい」
私は舌打ちをして、ブレーキを踏んだ。
無理に突破すれば車体に傷がつく。
塗装が剥げるのだけは避けたかった。
車が停止すると、前後から黒騎士たちが距離を詰めてきた。
その数、およそ五十。
完全包囲だ。
隊長らしき男が馬を進め、大声で告げる。
「エリカ・フォン・クロイツ嬢! 国家反逆および重要文化財窃盗の容疑で拘束する! 直ちに車両から降りて投降せよ!」
「窃盗?」
私は窓を開けず、スピーカー越しに問い返した。
「人聞きの悪いことを言わないでください。この車は私の私物です」
「問答無用! 貴様の身柄と、その車両は国家管理下に置く! 抵抗するなら、実力行使も辞さない!」
騎士たちが一斉に槍を構える。
その穂先には攻撃魔法の光が宿っていた。
車ごと破壊する気はないだろうが、タイヤや窓を狙っているのは明らかだ。
「やれやれ。話が通じない相手というのは疲れますね」
私は溜息をつき、隣を見た。
カイルがシートベルトを外し、静かに剣を手に取っていた。
その顔からは、先ほどまでの穏やかな「大型犬」の表情が消え失せている。
そこにあるのは、絶対強者だけが持つ冷ややかな殺気だった。
「エリカ。契約履行の時間だ」
「カイル様?」
「護衛業務だろう? 傷一つ付けさせん」
彼はドアを開けた。
私の制止を聞く間もなく、たった一人で五十騎の包囲網の中へと降り立つ。
騎士たちがざわめいた。
「なんだ、あの男は?」
「連れがいたのか?」
「構わん、まとめて捕らえろ!」
隊長の号令と共に、数人の騎士がカイルへ襲いかかる。
魔力で強化された槍が、四方から彼を突き刺そうとした。
刹那。
カイルの姿がブレた。
キンッ、という硬質な音が一度だけ響く。
次の瞬間、襲いかかった騎士たちの槍が、すべて穂先から切断されて宙を舞っていた。
「……は?」
隊長が間の抜けた声を上げる。
何が起きたのか理解できていないようだ。
カイルは退屈そうに剣を振るい、切っ先を隊長に向けた。
「俺の雇い主の昼寝を邪魔するな。帰れ」
その声は低く、地を這うように響いた。
同時に、彼の全身から黄金色の闘気が立ち昇る。
竜騎士のみが発現できる、ドラゴンの威圧。
馬たちが恐怖に嘶き、暴れ出した。
「り、竜騎士……!? まさか、帝国の『剣聖』カイル・ドラグニルか!?」
誰かが悲鳴のように叫んだ。
私は車の中から、その背中を見つめていた。
契約書には「護衛」としか書かなかったけれど、これは想像以上の性能だ。
私の「所有権」を守るために、彼が明確な意思を持って立ちはだかっている。
(頼もしい……)
不覚にも、胸が高鳴ってしまった。
これはビジネスパートナーとしての信頼感だ。
決して、恋とかそういうものではない。
……たぶん。
私はマイクのスイッチを入れた。
今こそ、こちらの権利を主張する時だ。
「聞こえますか、騎士の皆さん。その方は私の正式な従業員です。彼への攻撃は、我が商会への宣戦布告とみなしますよ?」
私の声に、カイルが口元だけで笑ったのが見えた。
黒騎士団は動揺し、陣形が崩れ始めている。
さて、ここからが本当の交渉だ。




