第4話 すれ違う正義
バッグをソファに放り投げた。
ドサッ、という鈍い音が、張り詰めた空気をさらに重くする。
レストランから戻ってきてもなお、私の怒りは収まるどころか、燻る炭のように熱を持っていた。
正面に立つカイルもまた、いつもの柔和な表情を消し去り、頑固な岩のように腕組みをしている。
「……頭を冷やせと言ったはずだ、カイル様」
「冷やすべきはそっちだ。あんな男の招待になど乗るな。奴は敵だ」
カイルの声は低い。
私を心配してくれているのは分かる。
けれど、その決めつけが気に食わない。
彼は私の判断力を信じていないのだ。
「敵かどうかは私が決めます。ヴァインさんは私の技術を高く評価してくれました。共同開発の提案も、合理的でメリットのあるものです」
「口先だけなら何とでも言える。奴の目を見ろ。あれは獲物を狙う獣の目だ」
「貴方の勘だけが頼りですか? 具体的な証拠は?」
「……ない。だが、俺の勘は外れたことがない」
またそれだ。
「俺に従え」「俺が守る」。
かつてアルフレッド王子に言われ続けた言葉と重なる。
私は守られるだけの姫ではない。
自分の足で立ち、自分の頭で考え、自分の手で利益を掴み取る商売人だ。
「……もう結構です」
私はため息をつき、クローゼットを開けた。
外出用の厚手のコートを取り出す。
その内側に、護身用の魔道具を次々と装着していく。
高電圧スタンロッド、目くらまし用の閃光弾、緊急防壁展開ユニット。
油断しているわけではない。
リスク管理は完璧に行う。
「どこへ行く気だ」
カイルが鋭く問う。
「ヴァインさんの工房へ視察に行きます。約束の時間ですので」
「行かせるわけがないだろう!」
カイルが私の前に立ちはだかり、ドアを背にして塞いだ。
その威圧感に、思わず足が竦みそうになる。
だが、ここで引けば、私は一生彼の「庇護対象」のままだ。
「どいてください」
「駄目だ。絶対に行かせない」
「……カイル様。貴方は私の何ですか?」
私の問いに、カイルが言葉を詰まらせた。
「夫だ。そして、お前の護衛だ」
「ええ。契約ではそうなっていますね。ですが、私の行動を制限する権利までは譲渡していません。これは業務命令です。……そこを、どきなさい」
私は冷徹に告げた。
カイルの金色の瞳が揺れる。
悲しみと、焦燥と、そして諦め。
彼はしばらく私を見つめていたが、やがて力なく肩を落とし、横にずれた。
「……好きにしろ。だが、何かあったらすぐに呼べ。絶対にだ」
「自分の身くらい、自分で守れます。貴方はここで、頭でも冷やしていてください」
私は捨て台詞を残し、逃げるようにハッチをくぐった。
背後でドアが閉まる音が、酷く寂しく響いた。
心臓が嫌なリズムで脈打っている。
これが正解ではないことは分かっている。
けれど、引き返すにはプライドが高すぎた。
◇
迎えの馬車は、すでに待機していた。
御者は無言で扉を開け、私を招き入れる。
黒塗りの高級馬車だ。
乗り心地は悪くないが、『スイートホーム号』の快適さには遠く及ばない。
(……カイル様、怒っているかしら)
窓の外を流れる夜の街並みを見ながら、私は唇を噛んだ。
あんな言い方をするつもりはなかった。
ただ、対等でいたかっただけなのに。
どうして私たちは、こうもすれ違ってしまうのだろう。
「エリカ様、到着いたしました」
御者の声で我に返る。
馬車が停まったのは、港湾地区の一角にある巨大な倉庫の前だった。
表向きはヴァイン商会の資材置き場だが、ここが工房への入り口らしい。
「お待ちしておりましたよ、エリカ様」
倉庫の扉が開き、ヴァインが満面の笑みで現れた。
昨夜の騒ぎなどなかったかのような、友好的な態度だ。
「昨日は失礼しました。夫が少々、荒っぽいもので」
「いえいえ、気にしておりませんよ。愛されている証拠ではありませんか。……おや、今日はお一人で?」
「ええ。仕事の場に、無粋な男は不要ですから」
私は強がって見せた。
コートの下のスタンロッドを意識して握りしめる。
ヴァインは「なるほど」と頷き、奥へと手招きした。
「では、ご案内しましょう。我が商会が誇る、最新鋭の魔導工房へ」
私たちは貨物用の昇降機に乗り込んだ。
ガコン、と重い音を立てて、籠が下降を始める。
地下へ。
予想以上に深い。
空気はひんやりとしており、油と鉄の匂いが漂っている。
「エリカ様の『空飛ぶ馬車』には感動しましたよ。あのコンパクトな車体に、居住空間と防御結界、さらには飛行機能まで詰め込むとは。まさに天才の所業だ」
ヴァインが背中越しに語りかけてくる。
その声色が、レストランの時とは少し違って聞こえた。
知的な響きの中に、粘着質な熱が混じっている。
「私の技術は、快適な旅をするためのものですから」
「快適な旅、ですか。……もったいない。その技術があれば、もっと世界を変えられるのに」
昇降機が止まった。
重厚な鉄扉が開く。
「さあ、ご覧ください。これが私の『夢』です」
ヴァインが両手を広げた先。
広大な地下空間が広がっていた。
無数の魔導ランプが照らし出すその光景に、私は言葉を失った。
そこにあったのは、無骨な鉄の塊だった。
いや、違う。
形状は見覚えがある。
四つの車輪、箱型のボディ、前面の操縦席。
それは、私の『スイートホーム号』を模倣して作られた、コピー品だった。
ただし、その目的は明らかに違う。
私の車のような流麗なデザインも、快適そうな窓もない。
分厚い装甲板がリベットで打ち付けられ、屋根には回転式の魔導砲塔が搭載されている。
そして、一台ではない。
十、二十……奥が見えないほど大量の車両が、製造ラインに並んでいる。
「これは……」
「貴女の車を参考にさせていただきました。反重力機構の再現には苦労しましたが、先日いただいたヒントのおかげで、ようやく実用段階に入りましてね」
ヴァインが愛おしそうに一番手前の車両を撫でた。
「素晴らしいでしょう? これさえあれば、荒地も湿地も関係なく進軍できる。兵站の維持も容易い。まさに戦争を変える『移動要塞』だ」
「戦争……?」
「ええ。帝国との交渉が決裂した際、この都市を守るには力が必要です。……いえ、守るだけではない。こちらから打って出ることも可能になる」
ヴァインが振り返った。
その目は、カイルが言った通りだった。
獲物を前にした、飢えた獣の目。
合理的で、冷徹で、そして狂気に満ちた商人の目だ。
「エリカ様。貴女の技術は、こんなリゾート旅行のために浪費されるべきではない。私と共に、新しい時代を作りましょう」
彼は一歩、私に近づいた。
私は反射的に後ずさり、コートのポケットに手を入れた。
スタンロッドの感触が、冷えた指先に伝わる。
カイルの警告が脳裏をよぎる。
『奴は敵だ』。
彼の直感は正しかった。
私は自分の技術への過信と、カイルへの反発心で、目を曇らせていたのだ。
「……お断りします」
私は震える声を抑え込み、努めて冷静に告げた。
「私は平和主義者です。私の技術を人殺しの道具にするつもりはありません。……契約は破棄させていただきます」
「残念です」
ヴァインは眉一つ動かさなかった。
「ですが、ここを見てしまった以上、ただでお帰りいただくわけにはいきませんね」
彼の合図と共に、物陰から数人の男たちが現れた。
全員が武装している。
商会の警備員ではない。
身のこなしからして、訓練された傭兵だ。
私は奥歯を噛み締めた。
完全に包囲されている。
カイルはいない。
助けは来ない。
私が「来るな」と言ったのだから。
(……自業自得ね)
けれど、諦めるわけにはいかない。
私は商人だ。
損切りは早めに、そして撤退は迅速に。
私はポケットの中で、スタンロッドではなく、別の魔道具を握りしめた。
閃光弾だ。
これを使って目くらましをし、昇降機まで走る。
勝算は薄いが、やるしかない。
「カイル様……」
無意識に、彼の名前を呼んでいた。
あの温かい手が、今はどうしようもなく恋しかった。
地下の冷たい空気が、肌に突き刺さる。
ここからが、私の本当の戦いだ。
次話、ヴァインとの直接対決。私の抵抗と、カイルの不在が招く危機。




