第75話 導師の庵
ダールノは街の外れへ向かって歩き出した。
エミリアはシェナと顔を見合わせ、すぐに後を追った。ラウルとアンナも続く。
「ラウル、ダールノ様が動いたわ」
「ああ。正直、驚いたよ。あの頑固爺さんが──」
「こら。聞こえたらどうするの」
小声でたしなめたが、ラウルの表情には安堵が浮かんでいた。
ダールノは振り返ることなく、岩山の裾を回り込むように進んでいく。
道はすぐに街を離れ、赤い砂と岩だけの荒涼とした風景に変わった。やがて道は細くなり、両脇に赤茶けた岩壁がそびえ立つ峡谷へと続いていた。
「こんなところに聖域があるんですか……」
アンナがおそるおそる岩壁を見上げた。切り立った崖が頭上を覆い、日差しが細く絞られている。街で感じた熱気が嘘のように、空気がひんやりと冷たい。
「この峡谷の奥は、ガガン族でも限られた者しか立ち入れません」
シェナが小声で教えてくれた。
「私も、話に聞いたことがあるだけで……実際に来たのは初めてです」
その声には微かな緊張が混じっていた。信仰深い精霊使いにとって、導師の庵は伝承の中の聖域だ。シェナの表情がこわばるのも無理はない。
峡谷を抜けると視界が開けた。
そして目の前に、それはあった。
岩をくりぬいて造られた古い建造物だった。岩肌の中にまるで最初からそこにあったかのように、入口が穿たれている。
風化した壁面には幾何学的な文様が刻まれていた。精霊の宮で見たものと似ているが、その精緻さは比べものにならない。線の一本一本が正確で、長年の風雨にさらされてもなお、くっきりと残っていた。
入口には、巨大な一枚岩の扉がはめ込まれていた。
その中央には掌ほどの大きさの石板が埋め込まれていた。石板にも同じように幾何学文様が刻まれており、周囲の岩肌とは明らかに異質な、滑らかな光沢を帯びている。
「これが、導師の庵だ」
ダールノが立ち止まった。
「いつから存在するのか分からぬのだ。言い伝えでは、千年とも二千年とも言われておる。我がガガン族は代々、この庵を守ってきた」
エミリアは壁面の文様に目を奪われた。
それは夢で見る、あの白銀の空間に浮かぶ文様とよく似ていた。
「ダールノ様。この扉は、どうすれば──」
「知らん」
ダールノは素っ気なく答えた。
「儂はおろか、過去の族長でこの扉を開けた者はおらん。導師にしか開けられぬと伝わっておる。そして、開けられぬままに時が過ぎた」
エミリアは息を呑んだ。
「ただ、言い伝えがある。導師はこの石板に手を触れ、庵に入ったと」
ダールノは扉の中央を顎で示した。
エミリアは石板を見つめた。滑らかな表面に刻まれた文様が、日差しの加減か、微かに揺らいで見える。
(これは……)
脳内に、あの声がかすかに響いた。
《入場端末検知……管理者専用施設》
(これは……!? ……入場端末?)
エミリアはゆっくりと右手を持ち上げ、石板に近づけた。
指先が石板に触れた瞬間──
《管理者認証……成功》
低い振動が扉全体を走った。石板の文様が一瞬淡く光り、その光が亀裂のように扉全体に広がっていく。幾何学模様の線が一本ずつ浮かび上がり、やがて扉の輪郭そのものが白い光に縁取られた。
重い音──いや、音というよりは空気そのものが震えるような、腹の底に響く振動が峡谷にこだました。
そして、長い年月もの間、閉ざされていた扉が──ゆっくりと開いた。
「……なんと」
ダールノが息を呑んだ。大きく目を見開き、開いていく扉を凝視していた。白髭を握る手が震えている。
「開いた……本当に、開いたのか……」
その声は、もはや疑念でも怒りでもなかった。誰にも開けられなかった聖域の扉が、異国の娘の手で開かれるのを自分の目で見た今、そこに疑いの余地はなかった。
シェナが両手で口を覆っていた。琥珀色の瞳が大きく潤んでいる。
「お姉様……」
ラウルは杖を握ったまま、開いた扉の先を見つめていた。闇だった。扉の奥は深い暗がりに沈んでいて、何も見えない。
「エミリア。俺も──」
「大丈夫よ、ラウル」
エミリアはラウルの言葉を先回りして遮った。ラウルが何を言おうとしていたか分かっていた。
「一人で行くわ」
「一人でって──何言ってんだ。中に何があるか分からないんだぞ」
ラウルの声に焦りが滲む。自身の傷を庇いながらも、一歩を踏み出そうとしていた。
「ラウル」
エミリアは穏やかに、しかしきっぱりと言った。
「この庵は導師のための場所よ。これまで誰も入れなかった。私が開けることができたのは……たぶん、私にしか入れないからだと思う」
「だからって──」
「ここから先は、そなた一人だ」
ラウルの言葉を遮ったのはダールノだった。
古老はエミリアではなくラウルを見ていた。
「この庵は導師のための聖域だ。導師以外の者が足を踏み入れることは許されん」
ラウルは思わずダールノを睨んだ。だが、ダールノの目には有無を言わせぬ重みがあった。信仰と掟を守り続けてきた精霊使いの目だ。一切の例外は許さない、という表情だった。
「……ラウル。大丈夫。すぐに戻るから」
エミリアは微笑んで見せた。ラウルは唇を噛んだが、やがて小さくうなずいた。
「何かあったら、すぐに叫べよ。俺はここで待ってる」
「ええ」
エミリアは用意してもらったランタンに火をいれると、一同に背を向け、開かれた扉の先へ足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇
扉の奥は想像よりも暗かった。外の日差しが届くのは最初の数歩だけで、すぐに完全な闇に呑まれた。ランタンの仄かな光がかろうじて辺りを照らす。
足元は不思議と確かだった。岩を削って整えられた床は平坦で、壁に手を当てると、冷たく滑らかな石の感触が指先に伝わる。
背後で、扉が静かに閉じた。
振り返ると、光の筋が細くなり──やがて消えた。
完全な暗闇。音もない。自分の呼吸と心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。
(精霊が……いない)
エミリアは足を止めた。
外では、薄くても精霊の気配があった。だがこの中には──何もない。生き物の気配どころか、精霊の光の粒子すら一つも漂っていない。まるで世界から切り離された空間のようだ。
不気味だった。だが、恐怖よりも好奇心が勝っていた。この場所は自分を拒んでいない。扉が開いたことがその証だ。
ランタンを掲げ、慎重に歩を進めた。通路は緩やかに下り、右へ左へと曲がりながら地中深くへと導いていく。
どれほど歩いただろうか。
ランタンに照らされていた壁の質感が変わった。
(この感じ……?)
壁に触れてみると、ただの岩肌ではなかった。もっと滑らかで、硬質で、わずかにひんやりとした──金属とも石ともつかない独特の手触りだ。
エミリアは息を呑んだ。
この感触を知っていた。
イルスレイド王都の地下遺跡の奥。光に導かれたあの空間。灰色がかった白の壁面、継ぎ目のない素材、人の手では造れない精密さ──あの時触れたものと同じだった。
(やっぱり……)
確信が胸に広がった。
導師の庵は古代文明の遺跡だ。イルスレイド王都の地下遺跡と同じ文明が、この大陸の南の果てにも痕跡を残している。
導師──つまり管理者は、その文明と関わる存在なのだ。シャリューンの人々が幾年にもわたって守ってきた聖域は、彼らの信仰よりもはるかに古い時代の遺産だったのだ。
壁の感触を頼りにさらに進むと通路が途切れた。
行き止まり──いや、違う。ランタンを向けると、そこは小さな部屋だった。壁面はすべてあの不思議な材質で覆われている。天井も床も継ぎ目ひとつなく、まるで一つの塊から削り出されたようだ。
部屋の中央に石碑のような何かがあった。
手を伸ばすと、指先が硬い表面に触れた。腰ほどの高さの不思議な材質の塊。表面にはやはり文様のような凹凸がある。これも知らない文字だった。読めない。
だが、触れた瞬間──
《環境維持機構……オペレーションモードに遷移しますか?》
脳内に、あの声が響いた。
これまでの断片的な通知とは違う。明瞭で、はっきりとした問いかけだった。
環境維持機構。
その言葉がエミリアの頭の中で反響した。
(環境……維持……?)
精霊の不調。水の枯渇。季節外れの干ばつ。シャリューン王国を蝕んでいる異変──その全てが、この言葉と繋がっているのだろうか。
エミリアは石碑に手を置いたまま動けなかった。指先から伝わる微かな振動が、長年の沈黙を破ろうとしているように思えた。




