第74話 精霊使いの矜持
ダールノは〝管理者〟という言葉に眉を寄せた。
「管理者とは……いったい何だ?」
この古老は〝管理者〟という言葉を知らないようだった。しかし、自分もはっきりと理解しているわけではない。自分なりの言葉で話すしかない。
「ダールノ様。私には皆が知らない力があります。これは、これまで調べたどの文献にも載っておりません。そしてこの力はあなたがたが信仰されている、精霊──いえ、その奥にある、この世界を動かしている〝仕組み〟に関わる力なのです」
ダールノは黙ったまま厳しい視線を向けていた。だが、ふと髭の奥で口角を上げた。何を言っている、といった表情だ。
「馬鹿な。精霊の奥にある〝仕組み〟だと? そのような話を、にわかに信じろと言うのか」
当然の反応だった。長年精霊と共に生き、精霊への信仰を守ってきた男に、いきなり「精霊の奥に仕組みがある」と言っても受け入れられるはずがない。
その時だった。
「大叔父様」
静かな声がその場を揺らした。シェナだった。彼女はエミリアの横に進み出ると、ダールノに向かって深く一礼した。
「お姉様が話したことは事実です。私はこの旅で、お姉様の力の顕現をこの目でたしかに見ました」
ダールノの目が細まった。
「シェナよ、何を言っておるのだ。我々精霊使いが目で見るなど──」
「いいえ。たしかに〝見た〟のです。そしてその〝仕組み〟に触れました。……一昨日の夜、何かお気づきになりませんでしたか?」
ダールノの表情が、にわかに固まった。
「もしや……あの夜、街の精霊たちがいなくなったことと、何が関係があるのか? 何かの前触れではないかと調べておったのだが……」
「はい。あれは……私たちが集めたのです」
シェナが静かにうなずくと、ダールノは目を丸くした。
「おまえが……? シェナよ。おまえの力では、そこまで広範囲の精霊を──」
「はい。通常であれば、私の力であれほどの精霊を集めることはできません」
シェナは顔を上げた。師匠を見据える琥珀色の瞳は深く澄んでいた。そこにはもう未熟な弟子だと悩む少女の姿はなかった。
「あの夜、お姉様が──エミリア様が、私に力を委ねてくださったのです」
「力を委ねた、だと……?」
ダールノは信じられないという様子で身を乗り出す。
「はい。お姉様の力が一時的に私に流れ込みました。そのとき、私は精霊に対して、これまでとはまったく異なる方法で接することができたのです」
「異なる方法とは、どういうことだ」
「大叔父様。私たちは精霊に〝お願い〟をします。声を聴き、心を寄せ、対話する。それが精霊使いの術です」
シェナは一呼吸置いた。
「ですが、あのとき──精霊は〝声〟ではありませんでした」
ダールノの眉が跳ねた。
「精霊を操る何かの〝仕組み〟に──直接、触れたのです。声でも、意志でもない。もっと冷たくて、大きくて、正確なもの。それはまるで……巨大な絡繰りの内側に手を差し入れたような感覚でした」
シェナの声は穏やかだったが、その言葉の一つ一つがダールノの険しい表情を困惑へ、そしてやがて驚愕へと変えていく。
「私はお願いではなく──〝指示〟を出したのです。精霊はその指示に即座に応えました。具体的に、正確にです。その力で精霊を集め、精霊に光を放ってもらい、追手を退けたのです」
広場から音が消えた。風すら止んだような静寂の中で、ダールノの喉がごくりと鳴った。
「シェナよ。おまえは……儂が手塩にかけて育てた弟子だ。おまえの力量は手に取るように分かっておる。そして、その言葉の重さも分かっておる」
ダールノの声は先ほどまでの詰問の調子が嘘のように静かだった。
「だからこそ聞く──その感覚は、精霊使いの延長にあるものか? それとも、まったく別のものだったのか?」
それは師匠から弟子への問答や説教の類ではない。一人の精霊使いの真剣な問いだった。
シェナは、まるであの夜の感覚が指先に蘇っているかのように自分の手を見つめ、ポツリと漏らした。
「……別のもの、でした」
短い答えだった。だが、それがすべてを物語っていた。
ダールノは長い息を吐いた。白髭の奥の唇が微かにに歪んだ。
◇ ◇ ◇
重い沈黙が流れた。
周囲のガガン族の者たちが遠巻きに見守っている。井戸端の女たちも手を止め、こちらを窺っていた。ただならぬ空気を感じているようだった。
しばしの沈黙の後、エミリアは意を決して口を開いた。
「ダールノ様。もしよろしければ……ダールノ様にも同じ体験をしていただけます」
ダールノの目が見開かれた。
「私の力を一時的にお渡しすることができます。姫様に行ったのと同じことです。そうすれば、ダールノ様ご自身の感覚でお確かめいただけるかと」
やはり、実際に体験してもらうのが一番だと思った。シェナが困惑するほどの体験だ。ダールノほどの精霊使いであれば、その仕組みを理解してくれるに違いない。それどころか、自分ではまだ完全に理解できていない部分まで掴むことができるかもしれない。それは、この謎の解明の役に立つ。
「精霊使いとして──いえ、国一番の精霊使いだからこそ、ご自身でお確かめいただきたいのです」
ダールノは微動だにしなかった。
ラウルもアンナも、シェナの侍女たちも、遠巻きのガガン族の者たち──その場にいる全員が、古老の返答を待った。
やがて、ダールノの唇が動いた。
「……恐れ多い」
一言だった。
だが、その一言が放たれた瞬間、場の空気が変わった。
ダールノは目を伏せていた。あの族長会議で広間を支配していた、峻厳たる古老の姿はそこにはなかった。
エミリアにはその表情が読めた。拒否ではない。恐怖でもない。
──畏怖だった。
長年精霊と共に歩んできた男が、その信仰の根底に触れることを恐れている。
シェナが語った〝あの感覚〟を、自分が体験してしまったら。精霊が声でも意志でもなく、冷たく正確な〝仕組み〟だと知ってしまったら。自分はもう今までのように、精霊に語りかけることができなくなるかもしれない。
──それが、ダールノの「恐れ多い」ではないか。
ガガン族の者たちがざわめいた。あのダールノが、異国の娘の提案を前にたじろいでいる。それが何を意味するのか──鈍い者にも伝わったはずだ。
「ダールノ様」
エミリアは静かに言った。
「無理にとは申しません。ですが──」
「分かっておる」
ダールノがエミリアの言葉を遮った。
顔を上げた古老の瞳には深い葛藤の色があった。だが同時に、そこには精霊使いとしての──あるいは、一人の求道者としての覚悟のようなものが見える。
「シェナよ」
不意に、ダールノはシェナを呼んだ。
「大叔父様」
「おまえは──その体験の後も、精霊に語りかけられるか」
ダールノの声音は、これまでエミリアが聞いたどの言葉よりも柔らかかった。
シェナは少し考えてから、静かにうなずいた。
「はい。変わらず、語りかけられます。──ただ、以前とは少し、違う気持ちで」
「違う気持ち、か」
「精霊への敬意は変わりません。でも……敬意の形が、少し変わった気がするのです」
ダールノは白髭を撫で、長い長いため息をついた。
その吐息にはどんな気持ちが込められているのだろうか。
何十年も守り続けてきたものを手放す痛みか、それでもなお前へ進もうとする精霊使いの矜持か──傍目には分からない。
「……エミリアとやら」
「はい」
「付与は……不要だ。おまえの力が真であることは、もう疑ってはおらん」
エミリアは思わず息を呑んだ。
「シェナは嘘をつけん子だ。儂が一番よく知っておる。あの子が〝別のものだった〟と言ったなら──そうなのだろう」
ダールノはそう言うと、エミリアから視線を外し、空を仰いだ。雲ひとつない、抜けるような青空だった。この季節、本来ならば雨雲が空を覆っているはずだ。彼の空を見つめる視線は、厳しさと悲しみが折り重なっているように見えた。
「精霊が病んでおる。この街の井戸は枯れかけ、作物は枯れ、民は苦しんでおる。もはや儂の力ではどうにもならん」
その言葉を口にした時、ダールノの声がわずかに震えた。国一番の精霊使いが、自らの無力を認めた瞬間だった。
「それでも──儂は、おまえを試す」
ダールノはエミリアを真正面から見据えた。先ほどまでの畏怖は消え、代わりに厳しくも真摯な光が宿っていた。
「真に導師であるならば、あの場所に入れるはずだ」
エミリアの心臓が跳ねた。
「あの場所……?」
「『導師の庵』だ」
族長会議で一度だけ漏れた、あの言葉。ダールノが動揺し、別の族長が口を滑らせた聖域の名だ。
「我が国に古くから伝わる聖域でな。導師のみが入ることを許される場所だ──というより、導師にしか入れん」
ダールノは踵を返した。
「付いてこい。案内する」
その背中に、もう迷いはなかった。




