第71話 見えざる刃
「敵よ。……囲まれてる」
エミリアの震える声を聞いた瞬間、ラウルの表情から一切の余裕が消えた。
疑いはなかった。エミリアの〝眼〟が捉えたものをラウルは信じた。いや、信じるとか信じないとか、そういう次元の話ではない。幼い頃からずっと傍にいた。彼女が本気で怯えている時の声を聞き間違えるはずがなかった。
「数は?」
「分からない……でも、そこら中にいるわ」
エミリアの視線は闇の中を忙しなく動いている。ラウルにはただの夜の荒野にしか見えない。月明かりに照らされた岩と砂と枯れた草。それだけだ。
だが、エミリアの瞳はそこに〝何か〟を捉えている。
「見張りを──」
ラウルが焚き火のそばの衛兵に声をかけようとした、その刹那だった。
「危ない!!」
エミリアが焚き火に向かって飛び出した。
「おい! 何するんだ!?」
衛兵が声を上げ、腰を上げたその瞬間だった。
彼は腕を押さえ、呻いた。
彼の腕の先から血が滴り落ちている。
「避けて!」
エミリアが続けて吠えると、衛兵は顔を歪めながらも反射的に横へ飛んだ。
ザッ──
何もないはずなのに、焚き火の薪が崩れる。
「っ──!!」
ラウルは反射的に杖を構えた。だが、どこへ向ければいいのか。敵が見えない。
「ラウル、右! 三歩先!」
エミリアが叫んだ。
考えるより先に、ラウルは右手を振り抜いた。
「ヴェント!!」
圧縮された空気の塊が闇へ放たれる。何かに当たった手応え──だが、衝撃を受けた〝何か〟は体勢を崩しただけで、すぐに気配が掻き消えた。
「左にも二人! 天幕の裏にも!」
エミリアの声が夜営地に響き渡る。その叫び声で天幕から残りの衛兵二人が飛び出してきた。剣を抜き、周囲を見回す──だが、彼らの目にも敵の姿はない。
「何だ!? どこだ!?」
「見えません! 何も──」
混乱する衛兵の一人が不意に膝から崩れた。太腿を斬られていた。だが、斬った者の姿はどこにもない。
「くっ──見えない敵だと!?」
ラウルは歯を食いしばった。声や足音は聞こえない。気配すら感じ取れない。魔法の探知を試みるが反応がない。手の打ちようがなかった。
「ラウル、しゃがんで!」
エミリアの声で反射的に身を沈めた直後、頭上を刃が薙いだ。風圧が髪を揺らす。
「ファイアアロー!!」
ラウルは振り向きざまに炎の矢を放った。だが炎は闇を照らすだけで、そこには誰もいなかった。いや──エミリアの目には、炎をかわし、音もなく距離をとる人影が見えていた。
「ダメよ、動きが速い! 避けられる!」
エミリアは叫びながら自分の無力さに歯噛みした。見えている。位置も動きも分かる。だが、それを伝えることしかできない。ラウルの攻撃が届く前に影は移動してしまう。
しかも、敵は陣形を崩していなかった。包囲を維持したまま、少しずつ輪を狭めてきている。
「お嬢様!」
天幕からアンナが飛び出してきた。続いてシェナと侍女たちも姿を現す。シェナの侍女の一人が短剣を構えていたが、その手は震えていた。
「姫様、下がって!」
エミリアはシェナの腕を掴み、自分の背後へ引き寄せた。
ラウルは額の汗を拭いもせず、杖を闇に向け続けていた。
エミリアの指示がなければとっくに斬られていただろう。だが、いくら位置を教えてもらっても、見えない敵に魔法を当て続けるには限界がある。しかも魔力は無限ではない。
(あと何発撃てる──五、六発か)
無駄打ちはできない。だが、このままでは当てられない。
「エミリア。こいつら、何なんだ? 人なのか?」
「人よ。法衣みたいな服を頭から被ってる。多分、それで姿が消えてるのよ」
法衣──その言葉にラウルの背筋が凍った。
「まさか、法王国の……!?」
「分からない。でも……殺す気よ」
と、不意に闇の中から声が響いた。
「……やはり、見えているのか」
低く、平坦な声だった。感情の起伏がまるで感じられない。
エミリアが声の方向を凝視すると、影の一つが他よりわずかに大きかった。動きにも余裕がある。──リーダーなのか。
「テルネーゼの娘。〝管理者〟の力か」
心臓が跳ねた。
──知っている。この敵は、管理者という言葉を知っている。
「……っ、あなたたち、何者!?」
「名乗る必要はない……管理者は存在してはならない。それが──神のご意志だ」
神の意思──やはり法王国の刺客か。
「シールド!」
ラウルも同じことを思ったのだろう。そして並の相手ではないとも感じたのか、意を決した表情で光の障壁を展開した。全員を取り囲む大きな淡い光の壁。だがその大きさは、多くの魔力を使うものだった。
ラウルの脳裏に焦りが広がる。
(あと一発ってところか……)
もう後には引けない。
ラウルの首筋に冷たい汗が流れた。
「ふん……所詮時間稼ぎだな。──詰めろ」
指示と同時に、包囲が一段狭まった。
衛兵たちは肩で息をしていた。誰もが身体のどこかを斬られ、剣を握る手が血に滑っている。ラウルも肩口を浅く切られ、左手で傷口を押さえながら杖を構えていた。
「エミリア、どうする……このままじゃ……」
ラウルの声にはまだ力があったが、表情に余裕の色はなかった。
エミリアは必死に考えていた。
(精霊──使えないの!?)
先ほどから精霊に指示を出そうと試みていた。砂を巻き上げろ、敵にまとわりつけ──だが、反応が鈍い。精霊の数が少なすぎるのだ。この荒地にはオアシスの畔にいたような密度の精霊がいない。わずかな光の粒子が疎らに漂っているだけで、敵の法衣を暴くには到底足りなかった。
(もっと……もっと数が要る……!)
付近の精霊に来てもらうように指示しているが、一人で呼ぶには時間がかかりすぎた。
──いや、待って。
エミリアの視線がシェナに向いた。
シェナは自分の背後で、侍女たちを庇うように立っていた。幼い顔はこわばっていたが、その瞳は恐怖に呑まれてはいなかった。
あの、砂嵐を鎮めた少女。精霊に〝お願い〟して自然の猛威すら静めた精霊使い。その芯の強さが窺えた。
(姫様なら──精霊を呼べるかも)
「姫様!」
振り向きざまに叫んだ。シェナがビクリと顔を上げる。
「付近にいる精霊を呼んでください! できるだけたくさん!」
「精霊を……呼ぶ!? 精霊使いにそのようなことは──」
「大丈夫! お願いしてみてください! そして──」
エミリアはシェナの両肩を掴み、その琥珀色の瞳をまっすぐに見つめた。
「敵にひっついて、とてつもなく光ってもらうんです!」
シェナの目が見開かれた。
「光る……!? お姉様、精霊に〝とてつもなく光れ〟なんて──そんな曖昧なお願いは通じません! 精霊は──」
「分かってます!」
エミリアはシェナの言葉を遮った。分かっている。精霊には具体的な指示でなければ動かない。〝とてつもなく〟なんて言葉は、精霊使いの作法では通用しない。
それでも──
(だったら、姫様にも〝指示〟ができるようにすればいい!)
それが可能かどうかは分からない。だが、あの力──管理者としての力は、これまでも窮地のたびに自分でも想像しなかった形で応えてきた。
各段階の認証も、緊急防衛プロトコルも、すべてそうだった。必要な時に必要な権限が開かれてきた。
ならば──今回も。
エミリアはシェナの手を握りしめた。もう片方の手を夜空へ掲げ、声を張り上げた。
「私も一緒にお願いします! ──この子に……力を貸してあげて!」
それは、精霊への指示ではなかった。
管理者として〝仕組み〟そのものに向けた、初めての〝要請〟だった。
──その時。
《オペレーターへの管理者権限一時委譲……承認。有効期間……本タスクのみ》
エミリアの脳内で、あの無機質な声が冷徹に告げた。
同時に、シェナの身体がびくんと震えた。
「──え?」
困惑の声を上げたシェナの瞳が大きく揺れた。琥珀色の瞳が一瞬だけ白銀に染まる。
シェナは、握られた手からまるで水が流れ込むように、これまで感じたことのない〝何か〟が自身の身体を走り抜けていくのを感じた。
それは、精霊の声とはまったく違うものだった。
精霊使いとして生きてきた彼女にとって、精霊は心の奥で囁く友のような存在だった。声を聴き、気配を感じ、お願いする──その対話は常に〝人と人〟のそれに近かった。
だが今、彼女の身体を流れる感覚は、まるで巨大な絡繰りの歯車に手を触れたかのようだった。それは冷たく精密で、途方もなく大きな〝仕組み〟だ。
シェナの視界に、あたりの精霊が仄かに光る様が映し出された。
(これが……お姉様が見ている世界……?)
驚愕が全身を巡る。だが、同時に理解した。この感覚があれば──精霊に〝具体的に〟伝えられる。
「姫様! 今です!」
エミリアの声が、シェナの意識を引き戻した。
シェナは震える唇を引き結ぶと、両手を合わせた。これまでのように祈りの言葉を紡ぐのではなく──今はただ、明確な〝像〟を精霊へ送り込んだ。
──来て。ここに集まって。そして──限界まで光を放って!
それはお願いではなかった。指示だった。
応答は即座に返ってきた。
周囲の闇の中に、光の粒子が集まりだした。荒野のあちこちから、砂漠の向こうから、岩陰から、遠い地平の彼方から──無数の淡い光が、引き寄せられるように集結してくる。
エミリアの目にはそれが見えていた。まるで星が降り注ぐように、光の奔流が自分たちのところへ押し寄せてくる。
シェナは、生まれて初めて目にした精霊の動きに呆然とした表情を浮かべた。
「何だ……!?」
影が動きを止めた。わずかな空気の変化を感じ取れたのだろう。エミリアとシェナにしか見えない光の粒子が、見えないはずの法衣の表面をかすめ始めていた。
「みんな、目を閉じて!!」
エミリアは全力で叫んだ。
ラウルが、アンナが、衛兵たちが、シェナと彼女の侍女たちが──その声に反応して、一斉に目を覆う。
ラウルだけが一瞬遅れた。エミリアの叫びに従おうとした刹那、視界の端で自分の左腕が淡く発光しているのが見えた気がしたのだ。
(──何だ?)
だがそれを認識するより先に、ラウルは腕で目を覆った。
次の瞬間──
世界が白に呑まれた。




