第69話 母の思い出
宮殿内の離れにある客間。夕食後のお茶を一口すすると、アンナは手にしたカップを見つめた。
「お嬢様、大丈夫だったでしょうか……」
「そうですね。心配だ」
ラウルは中庭の向こうに見える本宮を見つめながらポツリと応えた。
シャリューン王国はイルスレイド王国よりも身分による扱いの差が小さいとはいえ、二人をはじめとする、官吏や衛兵たちは宮殿の奥へは立ち入れず、離れでの滞在のみを認められていた。宮殿入りしてからの数日、エミリアたちとは一度も顔を合わせていない。
ただ、シェナの侍女から、今日が族長会議であり、エミリアについての話がなされることだけは聞いていた。
冬だというのに窓から入り込む風は生温かった。それでも、日中にまとわりついていた熱気はようやく幾分か和らいでいる。
「アンナさん、明日になったら聞けますよ。今日はもう休みましょう」
「そうですね。では戻ります」
「ええ。おやすみなさい」
一人になったラウルは厚手のマットレスに腰掛けた。鞄から魔法理論の書物を取り出し、ぱらぱらとページをめくる。だが、どうにも頭に入ってこない。アンナにああは言ったが、気になっているのは自分も同じだった。
やがて本を閉じ、ラウルは長い息を吐いた。
寝よう。このまま悶々としていても始まらない。明日になったら結果を教えてくれるだろう──そのままマットレスに倒れ込んだ。
◇ ◇ ◇
ラウルは夢の中で優しい声を聞いた。
「──ねえ、ラウル。よく聞いて。このアザはね、素敵な友達ができる印なのよ。でも、その友達は気難しかったり、恥ずかしがり屋だったりするから、アザのことは内緒よ」
「うん。分かった。僕、誰にも言わない」
「いい子ね……」
声の主はラウルの頭を優しく撫でる。
だがその顔は霧に覆われたように霞んでいた。
──それは、ラウルが幼い頃に亡くなった母の記憶だった。
母のことはあまり覚えていない。物心ついたときには父オルフェンと二人きりだった。オルフェンは母の話をほとんどしなかった。
うっすらと記憶に残っているのは、かつて三人で旅をしていた、ということだけだ。
イルスレイド王国に住みだした頃にはすでに母はいなかったはずだが、そのあたりの記憶は曖昧だった。
「──いずれ、そのお友達と出会ったら、その時は仲良くしてあげるのよ。でも、お友達に命令するようなことはしちゃだめ」
「命令……?」
「ああ、まだ難しかったわね。……そうね、仲良くね」
「……?」
ラウルはガバッと跳ね起きた。身体中びっしょりと汗をかいている。優しい記憶のはずなのに、ひどくうなされていたような気がした。
「うっ──」
左腕に焼け付くような痛みを覚えた。思わず右手でアザを押さえる。恐る恐るアザを見てみると、それは赤く熱を持っていた。
どくん、と脈打つような痛みが走る。
シャリューン王国へ入ってから度々この痛みを感じていた。痛みがない時でも仄かにくすぶるような違和感が消えない。自分の身にいったい何が起きているのか──
エミリアに相談するべきか。だが幼い頃、このアザのことで喧嘩したことがきっかけで、それ以来お互い話題にすることを避けていた。今さら言い出すのも、どうにも気が引けた。それに、夢の中の母の言葉──母はなぜそれを「内緒にしろ」と言ったのか。
このアザはいったい何なのか──ラウルはマットレスから起き上がると、カップに水差しから水を注ぎ、一気に飲み干した。




