第65話 オアシスの畔で
一行はサマルの街を出発し、隊商路を進む。周囲には砂漠と荒地が折り重なるように広がり、その中に岩山や低い林が点在していた。
雨季のはずなのに雨は降らない。空気も大地も、すっかり乾ききっている。ショールで覆っているにもかかわらず、頬に針で刺すような痛みを感じた。
岩山の影で短い休憩をとる。岩陰は日差しを遮っているはずなのに、空気は生ぬるく、どこか澱んでいた。
「……暑い、というより、痛いですね」
アンナが小さくこぼした。
「雨季といっても毎日降るわけではないのです。ですが……」
シェナが言葉を切り、周囲を見渡した。
「近年は少しおかしいのです」
エミリアは砂漠の向こうに目を凝らした。
陽炎が立ちのぼり、地平線が歪んで見える。その歪みの中に、時折、色の薄い影のようなものが揺らいだ気がした。
(……気のせい?)
だが、精霊の宮で感じた違和感が胸の奥で静かに疼いている。
精霊が〝壊れている〟。それが意味するものは、まだはっきりしない。だが、この乾いた空気の中で、その言葉がやけに重く感じられた。
休憩を終え、また進み出す。王都エルマースまでは三日かかる。丘を越えると荒涼とした大地の中にポツンと池が見えた。周囲にはうっすらと緑が広がっていた。
「今日は、あそこのオアシスで野営します!」
先頭を進む使節団長が大声で告げた。
これまでの旅では、野営とはいっても馬車の中での寝泊まりだった。いったいどうするのだろうとエミリアが眺めていると、帯同している隊商や使用人の面々が、手際よく幕を張り出した。
しばらくすると、簡易──というには大きなテントが、いくつか組み上がった。
やけに多い荷物はこれだったのかと感心する。
「こちらが女性用、あちらが男性用です」
使節団長がテントを指し示した。女性用はひとつ、男性用はいくつか並べられている。
「私、ジルベルト殿下のお世話をしてくるわね」
自分はあくまでもジルベルトの侍女として〝ついてきている〟立場だ。仕事はやらないと──エミリアはアンナにそう告げると、ジルベルトのテントへ向かった。
小さな一人用テントの中では、ジルベルトがすでに荷物を整理していた。
「殿下! そういった雑事は侍女である私が──」
「エミリアさん、お気になさらず。侍女は方便です。あなたはあなたのことをやってください」
ジルベルトは柔らかい笑みを浮かべたが、それはすぐに悪戯っぽいものに変わった。
「それに、こんな狭いところに二人きりなんて……いいんですか?」
「──っ!」
いつものジルベルトらしくない、からかうような言葉に、エミリアの頬が熱を帯びる。
「も、もう、殿下。お戯れを……」
「それに以前、二人きりのときはジルベルトでいいって言いましたよね?」
「えぇぇ……」
言葉が続かない。
今きっと、戸惑いと恥ずかしさが混ざった顔になっているはずだ、自分でも分かる。
ジルベルトがふふっ、と笑った。
「さ、整理は済みました。エミリアさん。あなたもご自分のことをやってください」
「……失礼します」
テントから出たエミリアは、頬に手を当てながら、自分のテントに戻った。
(殿下ったら、わざとやってるのかしら。それとも、あれが素?)
胸の鼓動が大きく波打つ。
中に入ると、アンナがすぐに声をかけてきた。
「お嬢様、こちらは終わりました。シェナ姫様の分も、侍女の皆さまが済ませておられます」
「あ、ありがと」
「……? 何だか頬が赤いようですが、大丈夫ですか? 外の熱に当てられたのかも」
「い、いや。ホントに大丈夫だから」
必死に否定すると、アンナはそれでも心配そうな表情を見せた。「本当に、無理しないでくださいね」と言い残し、シェナの侍女たちとともに食事の準備へ向かった。
テントの中はエミリアとシェナの二人きりになった。
エミリアは、意を決してシェナに声をかけた。族長会議の前に、どうしても今のうちに整理しておきたいことがあったのだ。
「姫様、よろしいですか?」
「どうしました?」
「私の力について、改めて説明させてください」
「『管理者』の力のことですね」
「はい」
エミリアはシェナに、これまで自分が体験した不思議な力のことを説明した。
「──つまり『管理者』の力は、古代の何かにも反応し、お姉様の感情にも反応する。ですが、その二つがどう結びついているのかは……分からない」
シェナは、少しだけ声を落とした。
「それが分からない、というのが……たしかに不思議ですね」
「そうなんです。結局、何に由来する力なのか分かりません。しかもシャリューン王国へ来てからは、姫様の詠唱を《オペレーター業務》と呼んだり、《管理者第3次認証フェーズ》と聞こえたりして……精霊使いとも、無関係ではないようなんです」
説明すると言ったものの、自分でもよく分からない。
古代の何かの由来なのか、精霊由来なのか、それとも自分自身の何かなのか──血脈とも違う、名づけようのない力だった。
シェナは眉を寄せ、視線を落とした。その表情は複雑なものだった。
「私たちの伝承では……そのような、精霊と古代の何かとの関連は言い伝えられておりません」
そうつぶやくと、顔を上げ、エミリアを見つめた。
「でも、お姉様のお話を聞く限りでは、私たちが信じる『導師』という存在は、『管理者』の一面を表しているように思えます……にわかには信じられませんが」
二人を包む沈黙に、時おり、風で揺れるテントの音が差し込む。その軋む音が、沈黙をさらに際立たせた。
──精霊使いとしての修練に明け暮れたシェナにとっては、その教えが絶対だったのだろう。精霊と古代の何かが関連するかもしれないことなど、思いもよらなかったに違いない。
だが、それでもこの力の謎を解くには、少しでも手がかりが欲しい。
「姫様。私は……この力を使いこなせるようになりたいのです。たしかに、力の正体が分からないままでは難しいかもしれませんが」
自分でも無茶なことを言っているとは思う。シェナも目を伏せ、考え込むようにうつむいた。
再び沈黙が訪れる。だが、シェナはゆっくりと顔を上げ、やがてぽつりとつぶやくように応えた。
「お姉様……私には精霊使いのことしか分かりません。そして、この国で長老と呼ばれる、お年を召した精霊使いの方々でさえも分からないと思います」
その言葉に、エミリアの心が沈んでいく。
「でも……導師や管理者が、精霊使いや精霊を統べる──つまり、上位にあたる方であるならば、精霊使いのように精霊との対話が可能なのではないのでしょうか? もしかすると、お姉様も精霊と対話できるようになるかもしれませんし、たとえ無理でも、そのことが何か手がかりになるかもしれません」
なるほど──すぐには無理かもしれない。だが、この国に来て、精霊の姿が見えだしたのも事実だ。これは何かの萌芽かもしれない。試してみる価値はある。
「姫様。私、精霊と対話してみたいです。おっしゃるとおり、何かのきっかけになるかもしれません」
「……分かりました。では、さっそく試してみませんか?」
「えっ……今からですか?」
「はい。こういうことは思い立ったらすぐやるのがよろしいかと」
『──ああ見えて、ひとたび自分はこうだと思い込むと周りが見えなくなるのです』
脳裏に、シェナの兄であるハリルの言葉が蘇る。ああ、こういうところかと腑に落ちた。
だが同時に、試す価値がある、どうせなら今すぐ試したい──そんな気持ちが自分の中に芽生えたのも事実だ。それには素直に同意できる。
「……では、よろしくお願いします」
食事の時間までもうしばらくある。二人はテントを離れ、池の畔へ向かった。
シェナが「このあたりに棲んでそうなんですが……」とつぶやきながら、畔に茂る木々をキョロキョロと見渡す。
やがて、一本の木を指差した。
「お姉様、多分あそこにいますよ。昨日みたいに精霊の姿が見えませんか?」
シェナが指差す先を、エミリアは目を凝らして見つめた。すると、木の周りに光の粒子がうっすらと現れた。光は空中にふわふわと漂うように浮かんでいる。
「姫様、見えます! 光ってます!」
「では、行ってみましょう!」
二人は精霊の元へ歩み寄った。
自分にも精霊使いのようなことが可能なのか──近づくにつれ、胸の奥で、あの無機質な声が静かに囁いた気がした。




