<閑話9> 審問官の来訪
エミリアたちが旅立ってから、しばらくのこと。イルスレイド王国──王宮の謁見の間に、一人の男が訪れていた。
男は、のっぺりとくすんだ灰色の法衣をまとい、柔らかな笑みを浮かべていた。だが、その瞳はガラス玉のようで、生気が感じられない。
物腰は慇懃で所作も柔らかい。それでも、その端々から男の酷薄な本性が滲み出ているようで、得も言われぬ不気味な雰囲気を醸し出していた。
「国王陛下にお目通りがかなうと思っておりましたが」
灰色の法衣の男──異端審問官ソルダムはひどく残念そうにため息をついたが、その声音に本気の失望は感じられなかった。
玉座に座る王太子ライモンドは眉一つ動かすことなく告げた。
「あいにく、陛下は体調を崩しておられてな。私が代理を務める。了承いただきたい」
「承知いたしました。では、さっそく本題を」
ソルダムは軽く頭を下げると、瞬間、壁際に立つ第二王子ジュリアンをチラリと見た。ソルダムの口元がわずかに歪む。だが、何事もなかったようにライモンドを見据えた。
懐から、大げさな素振りで書簡を取り出す。
ソルダムは、芝居がかった所作で恭しく書簡を広げると、一拍置き、高らかに声を上げた。
「法王聖下の代理として、異端審問布告を行う。これは、イルスレイド王国テルネーゼ侯爵家、エミリア・シル・テルネーゼを審問対象とし、所定の期日までに王都中央教会へ出頭するよう、布告するものである」
儀式めいた仰々しい布告が止むと、謁見の間に重苦しい沈黙が落ちた。だが、ソルダムは「そういう作法ですので、ご理解いただきたい」と言わんばかりの、何でもないような表情に戻った。
ライモンドの静かな声が、沈黙を破った。
「ソルダム殿、すまんな。対象者は……今いないのだよ」
ソルダムが目を見開く。だが、それさえも計算されているかのように、表情は動かない。
「おや、対象者は王宮──王妃殿下の侍女だと伺っておりますが」
「急遽、辞めることになってな。その後、侯爵邸にも戻っておらぬようなので、領地にでも戻ったのか……なにしろ、あれだけの騒ぎを起こしたからな。当然だ」
ライモンドは表情を変えることなく、淡々と答えた。
「なるほど……王室としては、協力する気はない。そういうことですか」
「どう捉えてもらっても構わん」
ソルダムは柔和な表情を歪ませ、口角を上げた。
「まあ、枢機卿ロイデンのことがございましたので、お気持ちは理解できます。しかし……私も法王聖下の代理として、こちらへ伺っております。このまま成果なく帰国するわけにもいきませんので、しばらく〝調査〟させていただきます」
「好きにするがよい」
表情を一切変えないライモンドに対して、ソルダムは一瞬、氷のような視線を送った。だが、すぐに柔らかな笑みを浮かべ、深々とお辞儀をした。
「では、失礼いたします」
ソルダムが辞去した後、謁見の間の冷たく緊張した空気がわずかに緩んだ。
ジュリアンがほっと短く息を吐き、ライモンドに歩み寄った。
「兄上、審問官はかなりのところまで掴んでいるようですね」
「ああ。だが、ここであえて引いたということは、王国そのものと対峙する気はないようだな」
「父上を出さなかったことを、こちらがこの件について、まともに話す気がないと受け取ってくれているようで」
「だが、このままでは終わらんだろうな」
ライモンドは腕を組み、長い息を吐いた。
「ジュリアン。テルネーゼ卿へ、身辺に注意するよう伝えてくれ」
「分かりました」
ジュリアンは深く一礼した。
その日のうちに、ジュリアンから従者を通じてベルナードのもとへ書簡が届けられた。
「異端審問官か……」
書簡に目を通したベルナードは、震える声でつぶやいた。
異端審問官は、獲物を追い詰めるためには手段を選ばない。エミリアだけを匿えばよいわけではない。必ず、この屋敷に現れる。その時は自分たちがターゲット──そう、まるで〝早贄〟のようにされるかもしれない。
ベルナードは拳を強く握りしめた。
◇ ◇ ◇
翌日、ベルナードが危惧したとおり、ソルダムは先触れも行わず侯爵邸へ現れた。
法王国からの使者を玄関先で相手するわけにはいかない。ベルナードは応接室へ通すほかなかった。
部屋へ案内した執事や茶の用意をしたメイドはこわばった表情を浮かべ、ソルダムと視線を合わせようとしなかった。
そんな様子とは対照的に、ソルダムは何の感慨もなさそうに茶を口に運び、薄く笑みを浮かべてベルナードを見据えていた。
「テルネーゼ卿、ご息女の出頭についてお願いに参りました」
ソルダムの言葉はお願いの体をとっており、表情も穏やかだった。だが、ガラス玉のような瞳の光に温度は感じられなかった。
「娘は領地へ戻しました。神託祭であのような振る舞いを……王都にはとても置いておけませんでしたのでね」
王宮からの書簡で示し合わせたとおりの返答。だが、ソルダムは表情を変えることなく言い放った。
「テルネーゼ卿。ご息女が今どこにおられるかは問題ではないのです。ご家門のご息女が異端審問対象で、出頭もしない。これは神に対する極めて重大な不敬であると考えます」
ソファーに腰掛けていたソルダムは足を組み変え、胸を張った。
「よって我々は、教会法に則り、テルネーゼ侯爵家を異端の家門として糾弾することも視野に入れなければなりません」
「なにぃ……」
やはり、自分たちをターゲットにし、エミリアを引き出すつもりなのか──ベルナードの頬が引きつった。
「面白い、やってみるがよい。王国の重臣たる我が侯爵家を異端の家門とするからには、それなりの覚悟があるのだろうな」
ベルナードは低く唸るようにつぶやいた。その様子に、ソルダムは慌てたように作り笑いを浮かべた。
「いえいえ。あくまでも〝可能性〟の話です。ただ、今後も出頭の意思なしとのことであれば、ご家門の威光に傷がつくかもしれませんよ」
ソルダムはそう言うと、おもむろに立ち上がった。
「どちらにしろ、我々はしばらくこの件に関して〝調査〟を行います。神への懺悔をご希望されるのであれば、いつでもどうぞ」
恭しく一礼し、法衣を翻すと、ソルダムは侯爵邸を後にした。
「あなた……」
入れ替わりにディアーヌが応接室へ入ってきた。その蒼白の表情は不安に満ち、今にも倒れ込みそうなほどだ。
「大丈夫だ。心配するな。さすがにシャリューン王国までは追えまい」
ベルナードは彼女へ気遣いの言葉をかけたが、ソルダムがあっさり引いたことに言いしれぬ不安を覚えた。
ソルダムは、見送りに立つ侯爵家の使用人たちに柔らかな笑みを送ると馬車に乗り込んだ。
お付きの神官によって扉が閉められると、顔からすうっと生気が消える。
「お疲れ様でございます」
向かいの席に座っていた別の神官が、落ち着いた口調で声をかけてきた。
「閣下、いかがでしたか?」
「まあ、予想どおりですね。しばらく王都で遊びましょうか。南へは……そうですね、〝梟〟を飛ばしておきましょう」
そうつぶやくと、薄く歪んだ笑みを浮かべ、窓外の空を一瞥した。




